空っぽのとんこつラーメン
満たされることに慣れると人は空腹を忘れる。
それが幸福なのかどうかは、分からない。
ただ、何も感じなくなるだけかもしれない。
あの店のことを、ふと思い出すことがあった。
忙しさは少し落ち着いて、仕事にも慣れてきた。前ほど帰り道が苦しくなることはない。
それでも、ときどき何かが足りない気がする。
何がと聞かれても答えられない程度の、曖昧な欠落。
その夜、私は気づけば同じような路地に立っていた。
雨は降っていない。
けれど、空気はどこか湿っている。
奥に、灯りが見える。
赤い提灯。
見覚えがあった。
――また、来てしまった。
暖簾をくぐる。
店内は、静かだった。
前と同じはずなのにどこか温度が低い。
先客がいる。
カウンターの端。
黒い服の女が、一人で座っていた。
背筋は伸びているのに、力が入っていない。
まるで、そこに“置かれている”みたいだった。
店主は奥に立っている。
「いらっしゃいませ」
私にだけ向けられた声。
女には、何も言わない。
私は少し離れた席に座る。
女の前には、とんこつラーメンが置かれている。
白く濁ったスープ。
濃い匂い。
なのに。
湯気が、立っていない。
不自然なほど、静かだった。
女は、箸を持っている。
けれど、動かない。
ずっと、丼の中を見つめている。
時間が、止まっているみたいだった。
「温まりますよ」
店主が言う。
やはり、私にだけ。
しばらくして、醤油ラーメンが置かれる。
白い丼。
その縁の欠けは、前よりも深く見えた。
同じものではないはずなのに、なぜかそう感じる。
スープを飲む。
濃い味。
体に染みるはずの温かさ。
それなのに。
どこか遠い。
味が、自分の中に残らない。
隣を見る。
女は、まだ動かない。
「……食べないんですか」
声をかける。
女は、ゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
その瞬間、息が止まる。
――冷たい。
感情がない、というより。
何かが、抜け落ちている。
「食べてる」
小さな声。
再び視線を落とす。
丼を見る。
麺は、そのまま。
けれど、スープだけが少し減っている。
喉の奥が、ひやりとする。
「……よく、来るんですか」
問いかける。
女は、少しだけ考えるようにして言った。
「……帰る場所がないから」
その言葉は、やけに軽かった。
重さがどこにもない。
「ここに来ると楽になりますか」
女は、ほんのわずかに首を傾げる。
「最初は」
それだけだった。
それ以上は、続かない。
沈黙。
店主が静かに口を開く。
「満たされることに慣れると、空腹は分からなくなります」
その言葉が、店の空気を少しだけ歪ませた気がした。
ラーメンを食べ終える。
確かに、美味しかったはずなのに。
何も残らない。
立ち上がる。
女は、まだ同じ姿勢で座っている。
丼の中身は、ほとんど変わっていない。
店を出る。
夜の空気が、やけに冷たい。
振り返る。
店は、ない。
ただの路地。
――そのはずなのに。
そこに、女が立っていた。
いつの間にか外にいる。
音もなく。
「……帰らないんですか」
声をかける。
女は、こちらを見る。
やはり何もない目。
「……もう、帰ったから」
その言葉。
その言い方。
どこか、“終わっている”響きだった。
次の瞬間。
女の姿は、消えていた。
最初から、いなかったみたいに。
しばらく動けなかった。
胸の奥に、冷たいものが残る。
あの店は、必要な人の前に現れるのだと思っていた。
けれど。
必要だった時間が、終わった人のそばにも、残り続けるのかもしれない。




