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戻れない日の塩ラーメン

 人は、自分の見ているものだけが現実だと思い込む。

だから、少しでもずれてしまうと、途端に足場を失う。


 その夜、私はいつもより早く会社を出た。


 理由はない。ただ、そこにいることが急に耐えられなくなっただけだ。


 まだ人通りの多い時間だった。


 それなのに、なぜか一人きりのような気がした。


 帰る気になれず適当に歩く。


 見覚えのない路地に入ったとき足が止まった。


 赤い提灯。


 小さな灯り。


 ――ああ、と思った。


 なぜか懐かしい気がした。


 暖簾をくぐる。


 その瞬間、少しだけ違和感を覚えた。


 店内に、誰かいる。


 カウンターの端に一人の男が座っていた。


 背中だけが見える。


 猫背で、どこか力が抜けている。


 こんな店に、他の客がいるなんて。


「いらっしゃいませ」


 あの男だ。


 相変わらず、現実感のない美しさ。


 けれど前より少しだけ影があるように見えた。


 私は、男から一つ席を空けて座る。


 なぜか隣に座る気にはなれなかった。


 店の中は静かだ。


 なのに、どこか落ち着かない。


 先にいた男は、ラーメンに手をつけていない。


 湯気だけが、ゆらゆらと立ち上っている。


 ――冷めないのだろうか。


 ふと、そんな考えが浮かぶ。


 男が、こちらを見た。


 一瞬だけ、目が合う。


 その瞳に、妙な既視感があった。


 どこかで見たことがあるような。


 でも、思い出せない。


「温まりますよ」


 店主が言う。


 前と同じ言葉。


 なのに、少しだけ違って聞こえた。


 しばらくしてラーメンが置かれる。


 白い丼。縁が、ほんの少し欠けている。


 塩ラーメンだった。


 透明なスープ。淡い香り。


 派手さはないが、どこか張り詰めている。


 一口、飲む。


 ――軽い。


 驚くほど、軽い。


 何も残らないようで、確かに何かがある。


 もう一口。


 胸の奥に、静かな感覚が広がる。


 思い出す。


 何もなかった頃の自分。


 まだ、何にもなれていなかった頃。


 怖さもあったが、それ以上に、何かを選べる自由があった。


 ――あのとき、戻れたら。


 ふと、そんなことを考える。


「戻りたいですか」


 声がした。


 顔を上げる。


 店主が、こちらを見ていた。


 その目はやけに近い。


 思考を読まれた気がして、言葉が詰まる。


「……分からないです」


 正直に答える。


 本当に、分からなかった。


 戻りたいのか、それとも。


 店主は何も言わなかった。


 ただ、静かに視線を外す。


 隣の男が、ゆっくりと口を開いた。


「戻っても、同じことするぞ」


 低い声だった。


 驚いて、そちらを見る。


 男はこちらを見ていない。


 ただ、ラーメンを見つめている。


「……え?」


 思わず声が出る。


 男は、少しだけ笑った。


「分かってるだろ」


 その言葉に息が詰まる。


 確かにそうかもしれない。


 戻ったとしても、同じ選択をする。


 同じように迷って、同じように悩んで。


 結局、今と同じ場所に来る。


 スープを飲む。


 さっきより、少しだけ重く感じた。


 それでも、嫌じゃない。


 隣を見る。


 男のラーメンは、まだ湯気を立てている。


 減っていない。


「……食べないんですか」


 思わず聞いてしまう。


 男は、少しだけ首を傾げた。


「食べたよ」


 その言葉に、違和感が走る。


 丼は、ほとんどそのままなのに。


 何かがずれている。


 店主が静かに口を開いた。


「時間は、人によって違いますから」


 意味が分からない。


 けれど、それ以上聞くのが怖かった。


 気づけば、自分のラーメンはなくなっていた。


 不思議と、満たされている。


 でも、何かが引っかかる。


 立ち上がる。


 隣の男も、同時に立った。


 一瞬、目が合う。


 その顔を見て、息が止まった。


 ――さっきの自分に、少しだけ似ている。


 いや、違う。


 もっと疲れている。


 もっと、擦り減っている。


 男は何も言わず、店を出ていった。


 私も続く。


 外に出る。


 振り返る。


 そこには、何もない。


 ただの路地だけ。


 胸の奥に、妙な感覚が残る。


 軽いようで、重い。


 前に進めるようで、同じ場所にいるような。


 スマートフォンを取り出す。


 何をするでもなく、画面を見つめる。


 そして、ゆっくりと歩き出す。


 さっきより少しだけ、自分の足で立っている感覚があった。

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