冷めない味噌ラーメン
人は、取り返しのつかないことをいつまでも引きずる。
駅前の喫煙所で、俺は火をつけていない煙草を指に挟んでいた。
三度目だ。
ここに来るのは。
何かが変わるわけでもないのに、足が向く。
連絡先は消した。写真も消した。部屋の中のものも全部捨てた。
それでも、消えないものがある。
最後に言った言葉だ。
――「もういいよ」
本当は、よくなんてなかったくせに。
スマホを開いて、閉じる。
何を書けばいいのか分からない。
何を書いても、もう届かない。
息を吐く。
足が動く。
気づけば、知らない路地に入り込んでいた。
奥に、灯りがある。
赤い提灯が、やけに静かに揺れていた。
暖簾をくぐる。
店内は、妙に整っていた。
生活感がない。まるで、誰も触れていないみたいに。
「いらっしゃいませ」
男が一人。
顔を見た瞬間、息が詰まった。
綺麗すぎる。
人間らしさが、薄い。
「……やってます?」
「ええ」
それだけだった。
椅子に座る。
男は何も聞かない。
鍋に火を入れる。
音だけが、やけに響く。
「……あんた、ここ、いつからやってるんだ」
気づけば、口が動いていた。
男は少しだけ考えるようにして言った。
「必要とされる前からでしょうか」
意味が分からない。
それ以上、聞く気も起きなかった。
しばらくして、ラーメンが置かれる。
白い丼。その縁が、ほんの少しだけ欠けている。
味噌ラーメン。
湯気が濃い。匂いが強い。
腹の奥に直接届くような、重たい香り。
一口、すする。
――熱い。
舌が焼けるような熱さ。
なのに、止まらない。
濃い。強い。すべてが過剰だ。
それでも、足りなかった何かが埋まっていく。
もう一口。
もう一口。
視界の端に、あいつがいた。
笑っている。
どうでもいいことで笑っていた夜。
――「もういいよ」
違う。
あれは。
スープを飲む。
まだ、熱い。
「……なんで、冷めないんだよ」
思わず呟く。
男は、静かにこちらを見ていた。
「冷めてほしいですか」
言葉が詰まる。
冷めれば、楽になる。
でも、それは。
全部、終わるということだ。
丼を見つめる。
湯気が、まだ上がっている。
――まだ、熱い。
俺は、息を吐いた。
「……冷めなくていい」
その言葉は、はっきりしていた。
男は、わずかに目を細める。
「そうですか」
それだけだった。
食べ終える頃には、胸の重さは消えていなかった。
ただ、逃げるものではなくなっていた。
店を出る。
振り返る。
何もない。
ポケットの中で、スマホが重い。
取り出す。
連絡先は、もうない。
当たり前だ。
少しだけ考えて、新規作成を開く。
――送れない相手に、言葉を書く。
それでもいい。
画面に、ゆっくりと文字を打ち込む。
夜の空気は、まだ少しだけ、温かかった。




