雨の日の醤油ラーメン
雨は、帰る理由を奪う。
終電間際の駅を出ると、街はすでに色を失っていた。ネオンは滲み、アスファルトは黒く沈み、足元だけがやけに現実的に濡れている。
傘を差していても、意味はなかった。靴の中まで水が入り込んで、じわじわと体温を奪っていく。
帰りたくないと思った。
けれど行く場所もない。
スマートフォンの画面には、未読の通知が並んでいる。上司の名前を見るだけで、胸の奥がひりついた。
画面を閉じる。
深く息を吐く。
――お腹、空いたな。
それは、空腹というより、何かに縋りたかっただけかもしれない。
顔を上げる。
見慣れない路地がそこにあった。
こんな場所、毎日通っているはずなのに。
奥に、小さな灯りが見える。
赤い提灯が、雨の中で静かに揺れていた。
吸い寄せられるように私は歩き出す。
暖簾をくぐる。
店内は、驚くほど静かだった。
木のカウンターが数席。誰もいない。音といえば、かすかな雨音だけ。
奥に一人の男が立っている。
綺麗な人だ、と思った。
整いすぎているのに、不思議と冷たくない。けれど、どこか現実から浮いている。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声。
距離のある声。
私は周囲を見回す。
メニューがない。
「あの……」
「温まりますよ」
それだけ言って、男は背を向けた。
鍋に火が入る。
湯気が立ちのぼる。
逃げる理由は、もうなかった。
しばらくして、一杯のラーメンが置かれる。
白い丼。その縁が、ほんの少しだけ欠けていた。
透き通った、琥珀色のスープ。
派手さはない。ただ、静かにそこにある。
「どうぞ」
箸を持つ。
少しだけ、手が震えている。
スープを一口、口に含む。
――ああ。
思わず、息が漏れた。
優しい味だった。
何か特別な味がするわけじゃない。ただ、どこかで知っている味だった。
もう一口。
確かめるように、飲む。
視界が滲む。
「……実家の味だ」
気づけば、言葉が零れていた。
母が作ってくれた、何でもない夕飯。遅く帰った夜に、当たり前のようにあった温かさ。
どうして、忘れていたんだろう。
どうして、あんなに遠くに来てしまったんだろう。
麺をすする音だけが、静かに響く。
男は何も言わない。
ただ、そこにいる。
食べ終える頃には、胸の奥のざらつきが、少しだけ薄れていた。
雨音は、まだ続いている。
「……あの」
顔を上げる。
何を言いたいのか、自分でも分からない。
男は、ほんの少しだけ目を細めた。
「まだ、間に合いますよ」
それだけだった。
私は、ゆっくりと頷く。
店を出る。
雨は、少しだけ弱くなっていた。
振り返る。
そこには、濡れた路地しかない。
提灯も、暖簾も、あの店も、どこにもない。
スマートフォンが震える。
また、上司からの連絡だった。
画面を見つめる。
少しだけ迷ってから、私は返信を打つ。
――明日、少しお時間をいただけますか。
送信する。
それだけのことなのに、指先が熱を帯びていた。
雨は、もう冷たくなかった。




