3 私を川に連れて行って
「凜花の料理を食べたら、だいぶ落ち着いたようだ」
燕鶯も酒杯に手を伸ばし、自ら酒をそそいで飲み干した。
一心は自分の杯に二敗目の酒を注ぐ。すると、燕鶯が物欲しそうに見ているので、仕方がなく酒をそそいでやった。
「腹が満たされたせいだろうか、久しぶりに穏やかな気持ちで酒を飲む」
燕鶯は手にしている酒杯を見つめ、しみじみとした声を落とす。
「酒が飲めるなら、心配はないようだな。だが、油断は禁物だ。後で侍医にちゃんと診てもらえ。それと、食事をおろそかにしてはダメだ。集中力もなくなるし体も壊す。これからはしっかり食べろ」
「凜花が作る料理なら毎日食べられそうだ」
「しかたがないな。どうせいつも大人数分作ってる、明日からおまえの分も届けてやる」
「それはありがたい。だが、こうして月明宮を訪れ、凜花とともに食事を楽しみたい。いいだろうか?」
一心は笑った。
「政務が忙しいんじゃないのか? 月明宮まで来るだけでも大変だろう」
「その通りだ。ここは私の政務室から遠すぎる」
「おまえが凜花を嫌って後宮の端っこに追いやったんじゃないか」
一心の言葉に燕鶯は不可解な顔をするものの、深く突っ込んでくることはなかった。
「そうだな。後悔している」
ぐいぐい酒を飲んでいた一心は、ふと燕鶯の視線を感じて顔をあげた。
目の前にある端整な顔、涼しげな目元。
燕鶯の目がじっと熱のこもったような熱さで見つめてくる。
侍女や太監たちが無言でこの場から下がって行く。
一心からすっと視線を外し、燕鶯は窓の向こうに広がる空を見上げた。
「素晴らしい月にうまい酒。そして、美しい妃」
再びこちらを見つめる燕鶯の口元に、微笑みが浮かんだ。
「はあ?」
「珍しく化粧をしているのだな。きれいだ」
「林杏に無理矢理な」
「聞いたぞ、美しさを磨くため日々努力していると」
それは寧貴妃に好かれるためだ。
「本当にきれいだ。自然なままの凜花も野性味あふれた美しさがあるが、こうして化粧をほどこし美しく着飾った凜花も良い」
冗談はやめてくれ、と一心は肩をすくめて酒を一気に流し込む。燕鶯は驚いたように目を見張らせた。
「酒も強いのだな。またしても意外な一面を知って驚いた」
ふと、見つめ合う二人。
燕鶯は手にしていた酒杯をテーブルに置く。
「どうし……た?」
一心は息を飲む。燕鶯の顔が怖いくらい真剣だったから。
燕鶯が顔を傾けてきた。
「凜花、私の寝殿近くに越してくるがよい」
「遠慮しとく。ここでの暮らしは誰にも干渉されず、かなり居心地がいい」
「謙虚なのだな」
「いや、事実を言ってる」
「凜花のために新しい宮を建てよう。広くて立派な宮を。調度品も最高級のものを整える。もちろん凜花の得意な料理ができるよう、厨房も誂えよう。他に望みはなんだ? 凜花の望むものは何でも叶えてやる。皇后の地位だけは与えられないが、それ以外のものなら何でも叶えよう。だから、私の側に来い」
本当に望むものは元の世界に帰して欲しいだが、残念なことに、それを燕鶯に言ってもどうにもなるわけでもない。
いや、待て! そうでもないぞ!
一心は閃いたと、膝のあたりを叩いた。
そうだ! もう一度あの場所に行けば、元の世界に帰れる手がかりを掴むことができるかもしれないのでは。
「望みがあるなら何でもと言ったな!」
「もちろんだ」
「オレを……」
「オレ?」
「じゃなくて、私をもう一度あの川に連れて行ってくれ。おまえが溺れたあの場所だ!」
「そんなことでいいのか?」
「そんなことが、ものすごく重要なことなんだ」
「もちろんかまわない。次に巡幸へ行く時に必ず凜花を連れていこう」
「次って、いつだ?」
「まだ予定はない」
「ち、ないのかよ!」
思わず舌打ちがもれる。
寵妃の舌打ちに燕鶯は一瞬驚いたようだ。が、すぐに一心の機嫌をとろうと必死になる。
「凜花よ、不機嫌にならないで欲しい。必ず凜花の希望に添うよう努力をする」
燕鶯の手が頬に伸び、唇が近づいてくる。
「え? ちょ、おい待て! どさくさにまぎれてキスしようとするな!」
あとわずかで唇が触れるという瞬間、燕鶯はばたりと一心の胸に倒れ込んできた。
「おい、おまえ! オレの胸に顔を埋めんな!」
燕鶯の肩を掴んで引きはがそうとするが、すうすうと静かな寝息が聞こえてきたことに気づく。
「寝ちゃったのかよ。おーい」
軽く燕鶯の肩を揺すったが、起きる気配はない。そこへ、まるでこの様子を見ていたかのタイミングで孫旺千が部屋に現れた。
「ちょうどいいところに来てくれた。燕鶯が寝ちまったんだ、部屋に連れて帰ってくれ」
「いいえ、このまま凜貴人さまの寝所で休ませてくださいませ」
「え、私のベッドに? 冗談言うな。私はどこに寝ればいいんだ」
「陛下と一緒にお眠りなるとよろしいでしょう。それでは、よろしくお願いいたします、凜貴人さま」
こちらの言うことなど聞かず、孫旺千は恭しく頭を下げ、とっとと部屋から退出する。
「おい、待てって言ってんじゃないか! よろしくじゃなくて、こいつを連れて帰れ……って、行っちゃった」
胸に顔を寄せ寝息をたてる燕鶯を見下ろし、一心はやれやれと肩をすくめる。
「しかたがねえな。ベッドに運ぶか。って重っ!」
女の体じゃ腕力がないんだな。
なんとか燕鶯を引きずって寝所に運びベッドに放り投げる。そのまま放っておきたいところだが、風邪をひかれては後で何を言われるか分からない。
一心は腰に手をあて、ため息を落とす。
皇帝陛下を夫に持つのも大変なんだな。
一心は掛け布団を燕鶯の体にかけてやった。
「うう……っ……」
燕鶯の口から呻き声が聞こえる。
「ん? どうした?」
苦しげな声をあげる燕鶯の肩を揺さぶると、突然燕鶯はかっと目を見開く。
「わ! びっくりした! え……?」
そのまま、がつりと腕を引かれ燕鶯の胸に抱きしめられた。




