11 邪悪な笑み
皆の視線がいっせいにその者に向けられた。
一心はにやりと口の端をつり上げて笑う。
青ざめた顔で立ち上がったのは――。
「皇后娘娘?」
「どうされましたの?」
妃たちは首を傾げて訝しむ。
皇后の目が大きく見開かれた。
なぜなら、一心が手にした湯飲みを口元に持っていき、ごくりと茶を飲み干したからだ。
「皇后さまだったのですね。とても貴重なお茶をいただき、ありがとうございます」
「まあ、皇后さまから頂いたお茶だったのね」
「ええ、皆さんもどうぞ」
一心のすすめで、妃たちもお茶を飲む。
「本当ね。とてもおいしいわ」
「私たちまで、こんな貴重なお茶をいただけるなんてありがたいわ」
みんな、悪い! 中身はプーアル茶なんだ。いちおう、特級品だけどな!
と、心の中で詫びながら一心はちらりと詩夏を見る。詩夏がこくりと頷いた。
さらに、今回はとっておきのサプライズも用意している。
「皆さま、今日は都から琵琶の名手を招いたの。料理を召し上がりながら、素敵な琵琶の演奏に耳を傾けてください。さあ!」
両手を耳の脇までかかげ、一心はパンパンと手を叩く。それを合図に一人の女性がこの場にやって来た。たちまち林杏の目が大きく見開かれた。その目に涙が浮かぶ。
「呉小茜でございます」
一心はにやりと笑う。
林杏の妹だ。
「皇后娘娘、どちらへ?」
琵琶の演奏を聞くこともなく、その場から立ち去ろうとする皇后を一心は引き止めた。
「気分がすぐれないから退席するわ」
「待ってくれ皇后娘娘。話したいことがある」
呼び止める一心に、皇后の侍女がすかさず眉間を険しくさせた。
「皇后さまを呼び止めるとは、無礼な!」
一瞬にしてこの場の空気が凍えた。さらに何か言おうとした侍女を、皇后は手をあげとどめる。
「あなたたちは席を外して」
皇后はこの場にいる妃たち全員に下がるよう命じる。
妃たちは互いに顔を見合わせた。お茶会は始まったばかりだ。それに、せっかくの琵琶の演奏を聴くこともなく下がれとはどういうことだろうかと。だが、皇后の命令とあれば従わないわけにはいかない。
皆、そろりと立ち上がり、一礼して月明宮から去って行く。
残ったのは一心と林杏、林杏の妹の小茜、そして皇后と皇后の側仕えの侍女だけだ。
「茶会を開いた目的は、このためだったのね」
一心を殺すよう林杏に命じた黒幕は皇后だったということだ。
もっと往生際悪く誤魔化そうとするかと思いきや、あっさり認めたことに内心驚きを隠せないでいた。
「まあ、そういうことだ。正直、この手に乗るかどうか、自信はなかったけど」
一心はぽりぽりと頬のあたりを掻く。
「まさか、妃たち全員の前で暴こうとするとは思いもしなかったわ。凜貴人、こんな真似をして許されると思っているのかしら」
どの口が言うんだろうか。
「聞かせてくれ、なぜ、私を殺そうとした」
皇后はくすりと笑う。
「決まっているじゃない。邪魔な芽は早いうちに摘んで排除する。陛下の寵妃となったおまえに子が出来たら、将来、脅威になる恐れがあるでしょう?」
皇后にはすでに嫡子である皇子がいる。それでも、他の妃が子を産むことを恐れるのだ。
「だからと言って殺すのか。これが初めてではないな? こうして何人の妃たちを排除してきた?」
「そんなこと」
皇后は口元に歪んだ笑みを刻み、いったん言葉を切る。そして、続けた。
「数え切れないわ」
思わず背筋に悪寒が走った。
なんて邪悪な笑みなんだ。
「慈悲深い方だと思っていたのに、がっかりだよ」
「おまえが勝手にそう思っていただけでしょう? 後宮の片隅でおとなしくしていればよいものを、陛下の寵愛を得ようと欲をだすからこうなるのよ」
一心は呆れたように肩をすくめ、皇后に視線を据えた。
「はっきり言う。私を狙うのならまだいい。だが、林杏を含め、私の大切な仲間を巻き込むのはやめてくれ」
「ふ、たかが奴婢を仲間だというおまえもたいがいね」
「もう一つ、言っておく。誤解しているようだが、私は陛下の寵愛を得たいなんて気持ちはいっさいない。皇后が私を脅威と恐れるようなことは何もない」
「そのようね。おまえは陛下のことなど眼中にもない。けれど、陛下は違う。おまえに接する陛下の態度も眼差しも、これまでの妃嬪に向けたものとはまったく違うもの。今は単なる興味でしかなくても、いずれ陛下はおまえを本気で手に入れたいと思うはず。そうなれば、誰も陛下のお心を止めることができる者などいない。たとえ、皇后である私でも」
げー。
「やめてくれ。もし、そんな状況になったら川に飛び込んでやる。とにかくこれ以上林杏や、他の皆を困らせるような真似をするな。でなければ私にも考えがある」
皇后は整った眉をあげた。
たかが、下っ端の妃が何を偉そうにとでも思っているのだろう。
「おまえがそこまで正義感の強い女だったとは驚いたわ。いつも、自分の宮に閉じこもり、めそめそ泣いてばかりいたおまえが」
「私を今までの凜花だと思わないことだな!」
腰に手をあて、一心は宣戦布告とばかりに言い放つ。
皇后はふっと笑っただけであった。それ以上何も言うこともなく、無言で月明宮から去って行った。
「女って、ほんと恐ろしいな。まじでびっくりだよ!」
一心の言葉によって、張り詰めた空気が解かれた。
「小茜!」
「林杏姉さん!」
久しぶりの再会をはたした姉妹は互いに駆け寄った。よもや後宮で再会することになるとは彼女たちも思いもしなかっただろう。
しばらく二人は泣きながら、互いの存在を確かめるように抱き合う。
「小茜、どうして、ここに?」
「凜貴人さまに、酒楼から救っていただいたのです」
「凜貴人さまが?」
はい、と小茜は涙を浮かべ頷いた。
「妹を救っていただき、ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
林杏は涙をこぼし、その場に膝をついて礼を述べる。
「よせって、顔をあげてくれ。林杏の家族が大変な目にあっているなら、気にかけるのはあたりまえだろ。それに、小茜を救ったのは私ではなく燕鶯だ」
数日前、燕鶯にお願いをしたのだ。
都随一の琵琶の弾き手の音色に心惹かれたので宮中に呼びたい、小茜を側に置くといつでも演奏を聴くことができ心が穏やかになる。さらに、今日の女子会のために皆に演奏を聴かせてあげたいと。
寵妃の初めてのお願いということと、心が穏やかになると聞いた燕鶯は、ならばと二つ返事で小茜を凜貴人専用の楽士として宮中に召し上げてくれた、というわけである。
「小茜、しばらく姉の側にいればいい。落ち着いたら都に住むところを見つけてやる」
「ありがとうございます。凜貴人さまには感謝の言葉もありません。このご恩……」
「だから、そういうのはやめてくれって。今後はひざまずくの禁止!」
床に膝をつき頭を下げようとする小茜を、一心は止めた。
それにしても、まさか、自分を殺そうとしたのが皇后だったとは、正直戸惑いを隠せないでいた。
優しく慈悲深い人だと思ったが、その本性はとんでもなかった。だが同時に、皇后という絶対の地位にいながら、それでも他の妃を蹴落とそうとしなけらばならないのだと思うと、哀れなような気もする。
以前、林杏が言っていたことを思い出す。
たとえ後宮の主である皇后という地位についても、いつその地位から引きずり落とされるかわからないと。いかに皇子を産むか、産んだ息子を皇太子に立て、やがて皇帝の座につけることに必死になる。だがら、後宮の女たちは熾烈な争いを繰り返す。
このまま皇后がおとなしく引き下がるとも思えない。
相手は後宮の頂点に君臨する皇后。いわば無敵の存在。警戒は怠らないように気をつけなければならない。
だが、黒幕が皇后となると、どうしても気にかかることがあった。




