16 陛下の子を身ごもらせないように
それ以降も、一心はしつこく寧貴妃の好みを周りに聞き回っていた。
当然、一心の行動は後宮中に知れ渡り、なぜ、凜貴人が執拗に寧貴妃の身辺を嗅ぎ回るのか誰もが不思議に思った。
これまでの凜貴人なら、寧貴妃とは距離をとり、ひっそり目立たず自分の宮で過ごしていた。なのに、最近の凜貴人は積極的に寧貴妃と接触を試みようとしているのだから首を傾げるばかりだ。
「寧貴妃さま、最近、凜貴人が寧貴妃さまのことをいろいろ聞き回っているようなんです」
寧貴妃の側仕えの侍女紫蘭が、お茶を出しながら主に報告する。
「どうしてあの女が私のことを?」
凜貴人は愛犬の小黒を膝の上に乗せ、撫でていた。
「それが分かりません。最近の凜貴人の行動はまったく理解できなくて。やはり川に落ちて以来、頭がおかしくなったのだと思います。最近では自分の宮で体を鍛えているとか。ただ、なにぶん月明宮は後宮の外れにあるため、探りを入れるにも難しくて」
寧貴妃は眉間にしわを寄せた。
確かに、最近の凜貴人ときたら、用もないのに親しげに声をかけてくる。無視をしても嫌味を言っても動じない図太い神経だ。
寧貴妃は撫でている小黒に視線を落とす。まるで犬のように懐いてくるのだ。
寧貴妃ははっとなる。
「もしかして、親しげに近づいて私を油断させ、陥れようとしているのかも」
後宮ではよくある手段だ。
「凜貴人にそんな度胸があるとは思えませんが」
「いいえ、陛下の寵愛をいいことに、最近は調子に乗っているわ。それで、あの女は私の何を聞き回っているというの?」
「寧貴妃さまの好きな食べ物や菓子、飲み物とか」
小黒を撫でる寧貴妃の手が止まった。
「……私に毒を盛ろうと企んでいるのかも」
「まさか」
「他には?」
「他には毎日何をして過ごしているのか、散歩をするならどこへ行くか、花園はよく行くのか、一人になる時はあるのか、あるとしたら時間帯はとか」
次第に寧貴妃の顔が青ざめていく。
「私の行動を把握して、始末する機会を狙うつもりなのだわ!」
「縁起でもないことおっしゃらないでください」
「これまであの女を軽んじてきた私を恨んでいるのよ。そう、たとえば花園で一人で散歩をしているところへ後ろからそっと近づき、池に突き落とそうと考えているとか」
「ああ、それから、寧貴妃さまは芍薬の他に何の花が好きか、とも言っていました」
「どうして私が芍薬の花が好きだと知っているの!」
紫蘭は困ったように苦笑いを浮かべる。
「寧貴妃さまの芍薬好きは、皆が存じておりますよ」
「もしかしたら毒花を贈ってくるつもりなのかも。たとえばトリカブトとか」
寧貴妃はぶるっと身を震わせた。
返事をするのも面倒くさくなったのか、紫蘭は無言だ。
「陛下の寵妃である私を亡き者にすれば、自分が完全に一番になれると思っているのだわ」
寧貴妃は陛下の一番のお気に入りの妃だ。それに、位も後宮の中では皇后に次ぐ二番目。さらに皇子を産めば、皇后に匹敵するくらいの影響力を持つことができる。皇后をその座から引きずり下ろすことも不可能ではない。
それゆえ、寧貴妃を亡き者にしようと思う者も少なくない。
過去に何度か命を狙われたこともあった。特に、夜伽のあとは毒入りの食べ物や飲み物が混入される確率が高い。
陛下の子を身ごもらせないように。
誰が仕向けているのか分からない。だが、誰であってもおかしくない。自分を妬む者は多い。後宮とはそういうところなのだ。
寧貴妃は否と首を振る。
「何を企んで私のことをかぎ回っているか知らないけれど、たかが貴人の位、後ろ盾もない。私の足元にも及ばないわ」
だから恐れるにたらない、と寧貴妃は自分で自分に言い聞かせた。
どうやら一心の好意は、ねじ曲げられて寧貴妃に伝わっているようだ。
「そうですよ。寧貴妃さまを思う陛下の真心は本物です」
ふと、寧貴妃の瞳が悲しそうに揺らいだ。
「でも、最近陛下は華南宮に来てくださらないわ」
寵愛を失った妃の末路は悲惨なものだ。
「政務が忙しいのですよ」
「そうだといいのだけれど」
「寧貴妃さま、少し花園を散策しませんか。先程、政務室を出た陛下が花園に向かったと太監から聞いたんです。もしかしたらお会いできるかも」
浮かない顔をする寧貴妃に、紫蘭は気晴らしをすすめる。
「それをはやく言いなさい。すぐに支度して。そうだわ、この間陛下からいただいたかんざしを挿していくわ」
「かしこまりました」
陛下に会う支度を調えようとしたところへ、皇后来訪の声が届いた。
寧貴妃と侍女たちは挨拶をして皇后を迎える。
「皇后さま、ごきげん麗しゅう」
皇后が現れた瞬間、金木犀の香りが部屋中に満ちた。皇后はあら? と寧貴妃を見やる。
「どこかへ行く予定だったのかしら」
「はい、天気がよいので花園の方へ……あっ!」
突如、抱いていた小黒が激しく暴れ、するりと腕から抜け床に降り立った。
「小黒!」
子犬は勢いよく走り出し、皇后の足元をすり抜けていく。
「きゃあ!」
驚いた皇后は足元をよろめかせた。体が傾ぎ皇后は床に倒れる。
ごつんと鈍い音が鳴った。
倒れた皇后のこめかみが、側にあった棚の角に当たったのだ。
きゃんきゃん鳴きながら、小黒は勢いよく部屋の外へと飛び出していく。
「皇后さま!」
すぐに皇后の侍女が駆け寄る。
顔を歪める皇后のこめかみに、血がにじんでいた。
「誰か侍医を呼んで。皇后さまが怪我を! はやく侍医を!」
床にうずくまる皇后の姿を、寧貴妃は無言で見下ろしていた。




