8 突然の昇格
太監は宮廷で働く奴婢に過ぎない。だが、同じ奴婢とはいえ、陛下付きの太監ともなれば話は別だ。御前太監はもっとも近くで皇帝に仕えているため、皇帝をよく知り支える重要人物である。
時には皇帝の私的な相談を受けることも。ゆえに太監とはいえ、決して侮ることはできない。
孫旺千は三人の妃に拝礼する。
「寧貴妃さま、あまり凜貴人さまに、ご無礼をなさらないように」
寧貴妃は目を見開いた。
「今、なんて言ったの?」
「ですから、凜貴人さまに」
「貴人ですって!」
寧貴妃は目を見開いた。
一方、詩夏は口元に手をあて、別の意味で目を大きく見開く。
「いつ昇格したというの。それも、一つ位を飛び越え貴人になるなんて。なぜ!」
目をつり上げ御前太監に食ってかかる寧貴妃の姿を見つめ、怒った顔も美しいなあ、と一心は見とれていた。
この国では妃の序列を下から順に、答応、常在、貴人、嬪、妃、貴妃、皇貴妃、皇后とされている。
凜答応は一番下の位であったが、今回、一つ飛び越え貴人の位を賜ったのだ。
「凜貴人さまは、地方へ巡幸中、川に落ちた陛下を命がけで救いました。その功績が認められたのです」
孫旺千は慇懃に頭を下げる。
寧貴妃はよろよろと足をよろめかせた。すぐに紫蘭が寧貴妃の体を支える。一緒にいた苑嬪も言葉を失ったようだ。
「聞いてないわ、そんな話」
「凜貴人さまの昇格について、寧貴妃さまに報告をする義務がありましょうか? 後宮の決め事に決定権を持つのは皇后さまであって、寧貴妃さまではございません。それとも、寧貴妃さまは皇后を差し置き、後宮の采配役を望んでいると?」
それはつまり、皇后の座を欲しているのか、という意味だ。
「そんなこと……」
寧貴妃はばつがわるそうに口ごもる。
邪心を抱いていると思われたら大変なことになる。しかし、それよりも、これまで取るに足らない弱者だと見下していた相手が、陛下に認められ昇格したことに驚きを隠せないでいた。
苑嬪にいたっては、自分と位が近くなった凜貴人を脅威と感じずにはいられない。
「もう一つ、御膳房での食材の件ですが、陛下の勅命で凜貴人さまが選ぶものは好きなように、どれも持っていってよいことになっております」
「位があがったくらいで、そんな勝手が許されるなんて」
孫旺千はうっすらと口元に笑みを浮かべる。
「すべて陛下のご意向です」
陛下が許したと言われては反論できない。寧貴妃は口を引き結び黙り込む。
「貰った高麗人参で参鶏湯を作るんだ。食べに来てよ。もちろん、苑嬪さまも」
最悪な空気も何のその。一心はすっとぼけたことを言い、この場の緊張を解いた。
「けっこうよ!」
まだ何か文句をつけたい様子の寧貴妃であったが、ふんと背を向け去って行く。寧貴妃の侍女たちも小走りで主の後に続き、苑嬪も後を追う。
一心は遠ざかって行く寧貴妃の背中を凝視した。
燕鶯の妃か。さすが、妃だけあって寧貴妃も苑嬪も美人だな。とくに寧貴妃はオレ好み! どうにかして彼女と親しくなれないもんかな。
ニヤつく一心に向かい、あらためて孫旺千が拝礼する。
「おめでとうございます、凜貴人さま。後ほど正式に聖旨が下されるでしょう。ところで凜貴人さま」
「なんだ?」
「今宵陛下が月明宮へ立ち寄るかもしれません。凜貴人さまもそのつもりで支度を調えるようお願いいたします」
陛下が月明宮にお渡りになるかもと聞き、詩夏はまたしても目を見開いた。しかし、一心はばっと手を前に突き出し、孫旺千の申し出を却下する。
「悪い。今日は無理だ」
なぜでしょう? と孫旺千は眉をあげる。詩夏もどうして陛下の来訪を断るのかと困惑している様子だ。
「今日はもち米の処理とか、いろいろやることがあるから忙しい」
横で詩夏がひー! と悲鳴をあげ、慌ててフォローする。
「姉姉、もち米よりも陛下の方が大事です!」
「いや、もち米だよ」
「いいえ、下処理は私がやります! お願いです、私にやらせてください」
「やだよ。オレ、料理だけじゃなく、菓子作りも得意なんだぜ。詩夏たちに甘いスイーツを食わせてやりたいんだ。だから、今日は無理。絶対無理」
「菓子作りは林杏さまも得意ですから」
「へーそうなんだ。今度食べてみたいな」
一心と詩夏のやりとりをしばし無言で見ていた孫旺千は、ふっと笑った。
「もち米ですか」
天下の皇帝陛下がお渡りになるよりも、もち米の方が重要なのかと言いたげだが、特に一心を責めることはしなかった。
「陛下が凜貴人さまを気にかける理由がわかるような気がします。凜貴人さま、これからますます陛下の寵愛を得るでしょう。これまでとは一転して凜貴人さまを取り巻く世界が変わりますよ。ですが、ここが後宮だということを忘れなきよう。常に陛下が守ってくださるとは限りません。お気を付けください、凜貴人さま」
孫旺千の忠告に一心はおう、と頷いた。
何に気をつけるか? 女同士の諍いに巻き込まれるなって意味だろ。オレは女じゃないし、陛下の寵愛は望んでいない。だから大丈夫。
恭しく頭を下げ、孫旺千は部下たちを引き連れ皇帝のいる宮へと帰っていく。
「おめでとうございます。凜貴人さま!」
詩夏が目に涙を浮かべ拝礼する。しかし、一心にとっては何がおめでたいのかさっぱり分からない。
「やめてくれよ。詩夏立って。ほら、泣くな目が腫れるぞ」
低頭する詩夏を立たせる。そして、泣きじゃくる詩夏の涙を袖口で拭ってやる。
「本当に本当に、おめでとうございます。これまでの苦労がようやく報われますね」
「あー」
オレは別に苦労なんか何もしてないけど。
「だけど、ちょっと位があがっただけで、そんなに大喜びするほどのことなのか?」
「当たり前です! 位が一つあがるだけでも、いただける俸禄やお仕えする侍女や太監の人数、さらには、衣服、食事、日用品、装飾品、何もかも全部、違うんですから。雲泥の差ですよ。周りの者だって姉姉に従うようになります。これは大きいことです!」
詩夏はこぶしを握りしめ力説する。いつもおっとりの詩夏が珍しく興奮している。
「そうなんだ。何もかも違うって、妃の生活ってのもけっこう厳しいんだな」
給料、昇級、派閥。現代のサラリーマンと同じじゃないか。
陛下の妃も臣下のようなものだ。
「そうですよ。後宮はとても厳しいところです。ここで生き残るために女性たちは必死になるんです。私は、いつも控えめな姉姉のことを案じておりました。だけど、ようやく姉姉の思いが陛下に届いたのだと思うと……感慨深く」
別にあいつのことなんて何とも思っていないが。
詩夏は感極まりながら、涙ながらに続けて言う。
「本当に嬉しく思います。御膳房での計らいも陛下のお心だったなんて。私、信じておりました。姉姉は落ちぶれたまま終わる方ではないと」
一心は片手で鶏をぶら下げ、もう片方の手をあごの下に持っていき頷く。
なるほど、御膳房でアレコレちょうだいと、ねだってみたが、あっさりくれたのは、こういう理由だったのか。まあ、オレは男だから妃の位には興味がないが、給料が増えて食事もグレードアップするならよしとしよう。
「これで皇子を産めば、後宮での姉姉のお立場はますます確実なものになりますよ」
「げほっ!」
思わずむせてしまう。
「皇子だって? や、やめてくれよ!」
一心は青ざめる。考えるだけで恐ろしい。
「妃なら皆皇子を望みます。姉姉が早くお子を授かるよう、私も心を込めてお仕えいたしますね」
詩夏は瞳をうるんとさせる。
「一生? そりゃだめだ。詩夏はいずれいいところに嫁がなきゃ。詩夏は良い子だから、きっと素敵な男と巡り会える。てか、兄として変な男と付き合わせるわけにはいかない」
「兄?」
「あ、いや……詩夏のことは私が守ってやるって意味さ」
「私のことなんかよりも、早く月明宮に戻って林杏さまや、みんなにも姉姉が貴人に昇格したことを伝えなければ。きっとお喜びになりますよ」
「そうかな」
最初の頃よりは睨まれなくなったけど、どうもオレは林杏に好かれている感じがしないからなあ。
「早く戻りましょう、姉姉」
「そうだな。戻ったら夕飯を作ってもち米の処理だ」
これが貴人となった李凜花、いや、李一心の出世の第一歩であった。
陛下の寵愛を得たことにより、女同士、はては宮廷内の争いごとに巻き込まれて行くことになるのを、この時一心はまだ知るよしもない。




