6 噂の貴妃
「最近、御膳房の女官たちが、ものすごく親切な感じがするけど、気のせいだろうか」
絞めた鶏をブラブラ手にぶら下げ、一心は隣を歩く侍女の詩夏に問う。
今日も夕飯の食材をもらいに御膳房に行ったのだが、対応してくれた女官たちの態度が昨日までとまるで違ったのだ。
いつもの素っ気ない対応はどこへいったのやら、今日は好きなものを好きなだけ持っていってかまわないと言うから驚いた。おまけに、謝礼を渡そうとしても受け取らない。
「そうですね。急に好意的になった感じですよね。なぜでしょう」
食材が入ったカゴを胸に抱えた詩夏も、分からないと首を傾げる。
「まあ、どうであれ、食いもんが手に入るならいいか」
「姉姉、今日の夕餉は何を作るんですか?」
にっと笑って、一心は目の高さまで鶏を持ち上げぶらぶらさせた。
後宮の妃が、絞めた鶏を一羽丸ごと手にしている姿に、すれ違う宮女たちが恐々とした目を向け通り過ぎていく。
今では当たり前のように一心が食事当番をしている。そして、月明宮の皆が一心の作るご飯を楽しみにしていた。
「鶏肉ということは白切鶏(蒸し鶏)ですか?」
鍋に塩、生姜、ニンニクを加え、そこに薄くつや出しの油を塗った鶏を浸し火にかける。みずみずしい肉の食感と、旨味のあって滑らかな皮は最高だ。
「それもいいな。火を通した鶏のスープを米に加えて炊きあげた鶏油飯に白切鶏を添えれば海南鶏飯(シンガポールライス)だ。薬味のきいたタレを添えれば最高に旨い!」
詩夏は今にも涎が垂れそうな顔をしている。
「だけど、今日は違う」
「えー、何でしょう。楽しみです」
「こいつの下処理もしなきゃだし、さっさと月明宮に戻るぞ」
こいつと言って、一心は鶏肉を肩にかつぎ、朱色の壁に挟まれた通路を颯爽と歩く。
本当のところ、悠長に料理などしている場合ではないのが悩ましいところ。
一心がこの時代にやってきてから、そろそろ一月が経とうとしていた。が、いまだに元の時代に戻れる雰囲気はなさそうだ。
最初の頃は帰る方法をあれこれ考えてみた。
溺れてこの時代にやって来たのだから、もう一度同じ状況になってみたら戻れるかもしれない、と風呂で溺れてみようとしたが、血相を変えた侍女たちに引き止められた。
というより、息が苦しくなって無理だった。
井戸に飛び込もうとした時は、林杏に泣かれた。
好き好んで自ら溺れるなんて、できるわけがない。それに、溺れ死んだところで元の時代に帰れるという保証がない。
いや、そもそも現代の自分の体は無事なのか。
これが一番恐ろしいことだ。すでに生きていないとなると――。
血の気が引いていく。死に損になるのはごめんだ。
やはり、燕鶯を助けた川に行かないとだめなんだろうか。
そんなこんなで、しばらく元の時代に戻れそうにもないと判断した一心は、この時代に慣れることに専念しようと、いったん考えを切り替えることにした。
元の時代に帰る以前に、ここで死んでは元も子もない。
食事もままならない、凜答応の劣悪の生活環境から抜け出すこと。
てか、この女よく死なずに生きていられたな。それはそれである意味すごいことだぞ。
詩夏いわく、凜答応は目立たず空気のように存在し、なるべく誰とも接触を持たないよう暮らしていた。そうすれば、嫌がらせを受けることはあっても、疎まれたり、妬まれたりして命を狙われることはないから。
どんなに食事が貧しくても、着ている衣がすり切れ、炭がなく寒さに震えても、いっさい文句は言わず堪え忍んできた。
だけど、それでいいのか凜花。一生に一度しかない人生だぞ。
しかし、自分の意思ではどうにもならないのが、この時代の女性の運命でもある。ましてや後宮の女はなおさらだ。
生きにくい時代だよな。
そんなことを考えながら、一心は朱塗りの長い外通廊を歩いていく。
しばらく歩くと、ふわりと風に乗り、花のような甘い香りが漂ってきた。前方から華々しい集団がやって来るのが見える。
二人の妃らしき人物と、彼女たちに付き従う侍女、太監たちだ。
離れた場所まで漂うほどいい匂いを振りまいていたのは、彼女たちがつけている香のにおいだった。
すかさず、詩夏が声をひそめ、緊張した面持ちで言う。
「姉姉、右が寧貴妃さま、左が苑嬪さまです」
「おう」
「寧貴妃さまは後宮では皇后の次に権力のある方ですので、くれぐれも失礼のないように気を付けてください。でないと……」
と言って、詩夏の可愛い顔が強ばる。
「寧貴妃さまのご機嫌をそこねたために、私たち奴婢が何人、いえ何十人命を落としたことか。奴婢に限らず、冷宮送りや自害、毒殺、行方不明になった妃たちもいます」
「まじ? 後宮内の女同士の争いって本当にあるんだな」
そういうのはテレビドラマだけかと思った。
「それだけではございません。罠に嵌められて庶人に落とされ、皇宮を追い出された皇子、処刑された重臣もおります。先程は皇后の次に力を持つと言いましたが、実際は皇后をしのぐ勢いがあるとも噂されているくらいです」
自分にとって邪魔になる者は、ありとあらゆる方法で排除しまくっているということか。
「へえ、やり手だな。ある意味すごいじゃないか。そういうのは嫌いじゃない」
「とにかく、寧貴妃さまは冷酷無比で残忍。目的を遂げるためなら手段を選ばない恐ろしい方ですので、決して逆らわないでください。もし寧貴妃さまに目をつけられたら……」
その先の言葉を飲み込み、詩夏はぶるっと身を震わせた。
「知ってるぞ、そういう女性を毒婦っていうんだろ?」
「しーっ! 声が大きいです。お願いですからやめてください、聞こえてしまいます!」
優雅な足取りでこちらに歩んでくる二人の妃も、一心の姿に気づいたようだ。




