5 気になる存在
なんなのだ、あの粗雑さは。
あれが女人か。あれが私の妃なのか!
私は皇帝だ。天下の皇帝の前で肉に食らいつくなど。皇帝の妃があんな蛮族のような女だとは。
信じられぬ。あり得ない!
燕鶯はしかめっ面で自分の宮へと戻るべく歩いた。
後ろから、お付きの侍女や太監、侍衛も小走りでついてくる。
背後から再び明るい笑い声が聞こえ、燕鶯は立ち止まり月明宮を振り返った。
肉を焼く煙が空へ登っていくのが見えた。
ふと、燕鶯の顔が和らぐ。
凜答応の笑った顔を初めて見た。いや、彼女と言葉を交わしたことさえ初めてだった。秀女選抜の時でさえ、凜答応に声をかけることはしなかった。
「笑うと意外に可愛いのだな」
そこで、燕鶯ははたと重要なことに気づく。
なぜ、凜答応は去って行く私をひき止めようとしない。他の妃なら行かないでくださいと、泣いてすがってくるぞ。
「なぜだっ!」
「陛下、月明宮に戻られますか? 凜答応さまの食事のお誘いを受けますか」
孫旺千が言う。
燕鶯の脳裏に、歯で串から肉を噛みとる凜答応の顔がよぎる。
『肉、焼きたて、うまいぞ』
あれが食事の誘いだと? ばかな!
他の妃ならば私の好物をたくさん用意し、美しく着飾り迎えてくれるというのに。
「なのに、私に対するあの態度! けしからん!」
「陛下?」
「いや、何でもない。少し風に当たっていこう。気晴らしに花園を散策する」
というよりも、頭を冷やそう。
燕鶯は宮廷の中央に広がる花園に足を踏み入れた。
庭園には季節の花々が咲き、池や滝、築山まで作られ、訪れる者の目を楽しませる趣向が巡らされている。
しばらく歩きながら、燕鶯は目の前に広がる池の縁で立ち止まる。
風がないため水面は穏やかであった。時折、水鳥がぱしゃりと音をたて、優雅に泳いでいる姿が目に映る。
私は凜答応に命を救われた。
彼女が助けてくれなければ、私は今こうして存在することはなかったかも。
聞けば、凜答応は泳げなかったという。なのに、私を救うため、真っ先に、ためらうことなく川に飛び込んだ。
いや! と燕鶯は首を横に振る。
命を助けてくれた褒美にたくさんの品を贈った。思えば、凜答応から贈り物の礼の一つもないではないか。無礼にもほどがある。
串焼き一つで私のご機嫌をとるつもりだったのか!
燕鶯はまたしてもはっとなる。
違う。助けてもらった礼を言ってないのは私の方だ。皇帝だから命を救ってもらって当たり前と思ってはいけないのだ。今度会った時は、きちんと礼を言わなければ。
燕鶯ははあ、とため息をついた。
どうしたというのだ。先程から、凜答応のことばかり頭に浮かぶ。この私が、あのような女人を気にかけるなど……気にかける? 私は彼女のことを気にかけているのか。
「あり得ない。断じてあり得ない!」
「さようでございますね、陛下。凜答応さまのあのお姿は妃としてあり得ない姿です。串焼きを食べる姿はまるで卑しい山賊のようで……」
旺千の言葉に、他の者もつられて忍び笑う。
陛下の寵愛を得られない妃を、皆が侮っているのだ。
燕鶯は目を細め、じろりと彼らを睨みつけた。
「あれでも私の妃だ。おまえたちは私の妃を愚弄するつもりか」
ひぃ! と旺千は悲鳴をあげ、すぐにその場にひれ伏した。他の者もドミノ倒しのようにいっせいにひざまづきひたいを地面に押しつける。
「お許しください。私としたことがこの口が、この口が! この口が余計なことを! どうか愚かな私に罰を与えてください!」
謝罪しながら、旺千は自分の手で自分の頬を何度も叩く。
「もうよい、立て」
「陛下のご温情に感謝いたします」
「しかしなぜ、凜答応自ら料理をしていたのだ?」
「はい、聞くところによると、御膳房の女官たちが、身分が低く陛下の寵愛がない凜答応さまを蔑み食事を用意しないそうです」
「食事を用意しないだと? いつから」
「後宮にあがってからずっとのようです。御膳房に限りません。内務府でも凜答応さまに対する扱いはひどいもので、暖をとるための炭も配布しない、衣を仕立てる布地はカビがはえ、虫が食った古いもの、俸禄も勝手に減らすなど、その他にもいろいろ……」
「なるほど」
燕鶯の眉間がきつく結ばれた。
「おまえはそのことを知っていながら、放置していたのか?」
「と、とんでもございません!」
旺千は首を振った。
「そのことを知ったのはつい最近でございます。凜答応さまが食材を求めに御膳房を訪れるようになったと聞き、調べていくうちに凜答応さまの後宮での待遇を知ったのです」
「皇后は何をしていた。後宮のすべての管理を任せているのだぞ。なぜそのような事態が起きていたことに気づかずにいた。なぜ、放っていた」
「申し訳ございません」
さすがに、皇后の行動まで目を光らせろとは旺千には言えないと思ったのか、燕鶯は指示する。
「皇后に私の政務室に来るよう伝えろ。この件を問いただす」
「かしこまりました」
燕鶯はざっと旗袍の裾を手で払い、この場にいる者全員に釘を刺す。
「皆よく聞け。位が低くとも、凜答応は私の妃だ。私の妃をぞんざいに扱う者はそっこく罰を与え宮中から去ってもらう。それと、妃が食材を求めに御膳房を訪れたら、すべて妃の望むものを渡すよう御膳房の女官たちに伝えろ。それから、内務府にもだ。炭も衣服も毛皮も、この冬を越すために必要なものをじゅうぶん凜答応に与えよと命じるのだ。凜答応に不自由な思いをさせる者は私が許さない」
「かしこまりました」
「衣を作る布地は、月明宮で働く侍女たちの分も含めてだ」
「奴婢の分もですか?」
「見ただろう。凜答応に仕える者たちのみすぼらしい格好を。あれでは凜答応が恥をかく」
「さようでございますね。ではすぐに陛下の命を各部署に伝えます」
「待て」
燕鶯は片手をあげた。
「他になにかございますか、陛下」
「凜答応は高麗人参を喜んでいたようだったな」
懐にしまい込むくらいだ。旺千が言った通りよほど嬉しかったのだろう。
「そうですね、宝石や反物にはいっさい目もくれていないようでした」
「異国より上等な高麗人参を買い付け、凜答応に贈れ」
「はい、すぐに手配いたします」
「待て」
「まだ他にございますか、陛下」
「凜答応を貴人に昇格させる」
「陛下、さすがにそれでは他の妃嬪たちの不興をかいましょう。皇后さまのお立場もあります。まずは皇后さまにご相談なさってからお決めになったほうが、凜答応さまのためにもよろしいかと存じます」
「その皇后が後宮の管理を怠りおろそかにしていたのではないか。ちょうどいい。後ほど皇后に私から伝えよう、凜答応の冊封式の日取りを決め、準備を仕切るようにと。それで、後宮管理の不行き届きの罰は帳消しとする」
「陛下……」
「凜答応は命がけで私を救ってくれた。貴人の位を与える理由はじゅうぶんではないか?」
「おっしゃるとおりでございます、陛下」
孫旺千はそれ以上、逆らうことなく深く頭を下げた。
燕鶯はもう一度、月明宮を振り返る。
暗くなっていく空に、のぼる炭火の煙が途切れることなく、ゆらゆらと揺らめいていた。




