第3話_私は、努力しました
三時間後、王都の空を覆っていた灰色の結界が、鮮やかな銀緑色へ変わった。
精霊樹は蘇った。
ミュレナが目を覚ましたのは翌日の昼だった。
白い天井を見つめ、瞬きをする。身体は重かったが、痛みはない。
隣から紙の擦れる音がした。
「おはよう」
ゼルヴェインがいた。
寝台脇の椅子に座り、書類を読んでいる。いつも通り整った姿だったが、目の下に薄い隈があった。
「……ずっと、いたんですか?」
「まさか。三回だけ仕事に戻った」
「三回」
「一回につき十五分」
「それは、ほぼずっといたと言います」
「そうとも言うね」
書類を置いた彼が身を乗り出す。
額へ手を当て、熱を確かめ、次に脈を取る。その仕草があまりに慎重で、ミュレナは胸が温かくなった。
「心配、しました?」
「したよ」
彼は笑わなかった。
「生まれて初めて、神に祈った」
ミュレナは言葉を失った。
「君が目を覚ますなら、爵位でも財産でも何でも持っていけと。まあ、神は何も要求してこなかったから、全部君に渡せそうでよかった」
「全部はいりません」
「遠慮しないで」
財産の話をしているとは思えないほど、軽い口調だった。
「お菓子みたいに言わないでください」
「僕としては、お菓子より君のほうが甘いけど」
「病み上がりの人をからかわないでください……」
「元気そうで安心した」
ようやく彼が笑う。
けれど、その手はミュレナの指を包んだままだった。
ミュレナは握られた手を見つめ、それから小さく握り返した。
「お返事をする約束でした」
「覚えてる。でも、今でなくてもいい」
「今がいいです」
ゼルヴェインの表情から、いつもの余裕が少し消えた。
それが嬉しくて、ミュレナは勇気を出す。
「私、最初は信じられませんでした。ゼルヴェイン様は何でも持っていて、何でもできて、私よりずっと素敵な方を選べるのに、どうして私なのかと思っていました」
「今もそう思う?」
「少しだけ」
正直に答えると、ゼルヴェインはわざとらしく眉を寄せた。
「そこは今後、徹底的に矯正しよう」
「怖い言い方をしないでください」
「毎朝好きだと言って、昼にも好きだと言って、夜にも言う。足りなければ一時間ごとにする」
「多すぎます」
「では三十分ごと」
「増えてます!」
笑った拍子に、目の端へ涙が浮かんだ。
ミュレナはそれを指で拭い、彼を見た。
「でも、あなたが私を大切にしてくれるのと同じくらい、私もあなたを大切にしたいと思うようになりました」
ゼルヴェインが動かない。
「だから……私でよければ、あなたの婚約者にしてください」
次の瞬間、抱きしめられていた。
強い腕だったが、触れ方は壊れ物を扱うように優しい。
「ゼルヴェイン様、苦しくはないですけど、びっくりします」
「少し黙ってて。今、かなり余裕がない」
「珍しいですね」
「誰のせいだと思ってるの」
肩口に顔を埋めた彼の声が、本当に少し掠れていた。
ミュレナはおそるおそる腕を回し、その背中を撫でた。
しばらくして、ゼルヴェインが顔を上げる。
「確認だけど、婚約者で終わるつもりはないよ」
「はい」
「結婚する」
「はい」
二度続けて頷くと、ゼルヴェインの目が楽しげに細められた。
「僕の屋敷に住む」
「結婚したら、普通はそうでは?」
「仕事場もできるだけ僕の近くにする」
「それは要相談です」
「寝室は当然同じ」
「……それは今相談しません!」
真っ赤になったミュレナを見て、彼はいつもの笑みを取り戻した。
「可愛い」
「もう寝ます」
「逃げた」
「病人には優しくしてください」
「十分優しいよ。これでも相当我慢している」
「何をですか?」
尋ねた瞬間、ゼルヴェインの目が細くなる。
ミュレナは本能的に「聞かなければよかった」と悟った。
「知りたい?」
「知りません。寝ます」
「賢いね、小栗鼠」
「その呼び方は禁止です!」
病室の外にいた看護師たちは、二人の声を聞いて顔を見合わせ、そっと扉から離れた。
◇
一方、王都では精霊樹事件の調査が進んでいた。
魔脈の汚染は自然発生ではなかった。
原因となったのは、違法な増幅魔導器だった。
そして、その購入記録にヴァルド・ネイガンとリゼッタの名があった。
二人は精霊樹を枯らすつもりだったわけではない。リゼッタの火炎術を強化し、次回の王宮魔術競技会で優勝するため、魔脈から直接力を引き出そうとしていたのだ。
しかし粗悪な違法魔導器が魔脈を逆流させ、王都全体を危機に陥れた。
事情聴取の場に、ミュレナも参考人として呼ばれた。
王宮の審問室で久しぶりに見たヴァルドは、ひどくやつれていた。リゼッタも華やかな化粧を失い、青ざめている。
「ミュレナ!」
ヴァルドが彼女を見るなり立ち上がった。
「君からも説明してくれ! 僕たちは王都を害するつもりなんてなかった。ただ競技会で結果を出したかっただけなんだ!」
ミュレナは少し身をすくめた。
すると隣に座っていたゼルヴェインが、何も言わず彼女の椅子を自分のほうへ引き寄せた。距離にして拳二つ分ほど。それだけで緊張が和らぐ。
「意図がなかったことと、責任がないことは同じではありません」
ミュレナは静かに答えた。
「精霊樹が完全に枯れていたら、多くの人が魔獣に襲われていたかもしれません。違法だと知っていて魔導器を使ったのなら、私は庇えません」
「僕たちは婚約していたじゃないか!」
「破棄したのはあなたです」
「それは間違いだった! 今ならわかる。僕が本当に必要としていたのは君だった!」
ミュレナは目を伏せた。
三か月前なら、この言葉を聞けば泣いて喜んだかもしれない。
けれど今は、何も響かなかった。
「違います」
「何が?」
「あなたが必要としているのは、価値のある婚約者です。私ではありません」
ヴァルドの顔から血の気が引く。
「私が三級治癒術師だったとき、あなたは私を捨てました。原初活性術師だとわかったら戻ってきた。もし明日、私の力がなくなったら、きっとまた同じことをすると思います」
「そんなことは――」
「しますよ」
ゼルヴェインが口を挟んだ。
穏やかな声音だった。
「なぜなら君は、彼女が何者かではなく、彼女が何を与えてくれるかしか見ていないから」
「あなたに何がわかる!」
「少なくとも、僕は彼女の力が公表される前から求婚している」
反論の余地がなかった。
リゼッタが唇を噛み、突然ミュレナを睨んだ。
「結局あなたは運がよかっただけじゃない! 珍しい力を持って生まれて、侯爵に気に入られて! 何も努力していないくせに!」
ミュレナが息を呑む。
しかし、今度は縮こまらなかった。
「私は、努力しました」
小さな声だったが、審問室にはっきり響いた。
「魔法が上手く使えなくて、毎日練習しました。三級判定でも研究を続けました。薬草を枯らして泣いた日も、術式が失敗して徹夜した日もあります。ゼルヴェイン様が私を好きになってくださったことは幸運かもしれません。でも、私がしてきたことまで、なかったことにしないでください」
リゼッタが言葉を失った。
隣で、ゼルヴェインが満足そうに笑っている。
「何ですか?」
「いや。格好いいなと思って」
「審問中です」
「終わったら褒めてもいい?」
「……少しだけなら」
「少しでは足りないな」
審問官が咳払いをした。
ゼルヴェインは肩をすくめ、ようやく黙った。
判決は一週間後に下された。
ヴァルドは爵位継承権を剥奪され、北方鉱山都市で五年間の強制奉仕。リゼッタは魔術師資格を永久停止され、実家の伯爵家には違法魔導器購入に対する多額の罰金が科された。二人の名は王立魔法院の記録にも残り、社交界への復帰は絶望的となった。
処罰は明快だった。
けれどミュレナは、不思議と胸が晴れるような喜びは感じなかった。
「もっと嬉しそうにするかと思った?」
王宮から帰る馬車の中で、ゼルヴェインが尋ねた。
「少しだけ。でも、終わったんだなと思ったら、それで十分でした」
「それでいいんじゃない」
「はい」
「君が幸せになるほうが、彼らへの罰としては効くよ」
ゼルヴェインはそう言い、彼女の左手を取った。
薬指には、淡い月色の宝石を嵌めた指輪がある。
正式な婚約指輪だった。
「だから、徹底的に幸せになってもらう」
「命令みたいですね」
「総監だからね」
「私生活では部下ではありません」
言い返しながらも、指輪をはめた手は彼に預けたままだった。
「では夫候補としてお願いしよう。僕に一生甘やかされてください」
「……努力します」
「努力が必要なの?」
「だって、ゼルヴェイン様は甘やかしすぎです」
「まだ序の口だけど」
ミュレナは不安になった。
「これ以上あるんですか?」
「もちろん。まず屋敷の君の部屋を改装した」
「まだ結婚してませんよ?」
「婚約したから問題ない」
「あります」
ミュレナの抗議など聞こえていないかのように、彼は指を折って数え始めた。
「研究室も作った」
「えっ」
「温室付き」
「温室……」
「王立研究院と同じ設備を入れる。薬草園も作るよ」
ミュレナの心が揺れた。
「ずるいです」
「何が?」
「私が喜ぶものばかり用意して」
「君を喜ばせるためにやってるからね」
涼しい顔で言われてしまう。
ミュレナは窓の外へ顔を向けたが、頬が緩むのを隠せなかった。
「それと、厨房も好きに使っていい」
「本当ですか?」
「ただし条件がある」
「条件?」
「最初に焼いた菓子は僕のもの」
「全部ですか?」
「全部」
迷う素振りすら見せない。
「使用人の皆さんにも分けたいです」
「二回目からにして」
「大人げないです」
「君の菓子については大人になる気がない」
彼はミュレナの手を引き寄せ、指輪の上へ口づけた。
「君自身についてもね」
心臓が跳ねる。
馬車の隅へ逃げようとすると、腰を抱かれて戻された。
「逃げない」
「近いです」
「婚約者だから」
「便利な言葉みたいに使わないでください」
「便利だよ。三年待った甲斐があった」
冗談のような口ぶりなのに、腰に回された腕は少しも緩まない。
「……三年も、本当に待っていたんですね」
「そう言ってるだろう」
「その間、ほかの方から縁談もたくさんあったのに?」
「全部断った」
「どうしてそこまで……」
ゼルヴェインは少しだけ目を細めた。
「君には大したことに見えないかもしれないけど、僕にとっては初めてだったんだ」
「何がですか?」
「守りたいだけじゃなく、帰る場所になってほしいと思った人が」
飄々とした仮面の奥に、ひどく真剣なものが見えた。
「仕事で何人救っても、戦争に勝っても、僕には全部ただの結果だった。屋敷へ帰っても静かなだけで、別に明日死んでも困らないと思っていた。でも君を見つけてから、帰りたいと思うようになった」
ミュレナは黙って聞いた。
「君が研究室で笑っているのを見たい。僕が帰ったら、おかえりと言ってほしい。朝になったら隣にいてほしい。君が年を取って、白髪になって、それでも僕の菓子を焼いてくれたら最高だと思う」
「……重いですね」
「今ごろ気づいた?」
「少しだけ」
「これでも軽くして話している」
ミュレナは思わず笑った。
「なら、私も一つお願いがあります」
「百個でもどうぞ」
「ちゃんと帰ってきてください」
ゼルヴェインが瞬く。
「危険なお仕事でも、無茶をしないで。私が待っていることを忘れないでください」
彼の腕に力がこもった。
「それは、かなり効くな」
「命令です」
「総監より偉い?」
「婚約者ですから」
一瞬の沈黙のあと、ゼルヴェインが声を立てて笑った。
「参った。もう僕は君に勝てないらしい」
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