第2話_君一人では行かせない
婚約破棄から一週間で、ミュレナの日常は大きく変わった。
まず、原初活性術の正式認定が公表された。
彼女の力は傷を直接塞ぐものではない。生物や植物、土地に宿る生命魔力を目覚めさせ、本来の力を取り戻させる術だった。枯れた薬草畑を一晩で再生させ、魔力枯渇を起こした術師の回復を早め、ひび割れた精霊石すら再活性化できる。
軍事、医療、農業、あらゆる分野に応用できる可能性があるとして、王立研究院は彼女を特別研究官に任命した。
次に、ヴァルドの態度が変わった。
「ミュレナ、少し話せないか」
昼休み、研究棟の中庭で薬草茶を飲んでいたところへ現れた元婚約者に、ミュレナは困って眉を下げた。
「お話することは、もうないと思います」
「誤解があったんだ。君の能力が正式に評価されるなら、婚約破棄については考え直してもいい」
あまりに都合のよい言葉だった。
以前のミュレナなら、強く拒絶できなかったかもしれない。しかしこの一週間、ゼルヴェインは毎日彼女の研究室へ現れた。朝は温かいミルクティーを置き、昼には食事を忘れていないか確認し、帰宅時には必ず馬車を用意した。
そのくせ甘やかすだけではない。
研究に没頭して昼食を抜こうとすると、資料を取り上げて高い棚へ置く。返してくださいと訴えれば、「僕から奪えたらね」と涼しい顔をする。背伸びをしても届かないミュレナが涙目になるころ、彼は笑って資料を返し、一緒に食堂へ連れていくのだ。
意地悪だ。
けれど、不思議なくらい安心した。
「考え直していただかなくて大丈夫です」
「意地を張るな。クローディス侯爵に目をつけられて舞い上がっているんだろうが、あの人が本気で君のような女を妻にすると思うか?」
ミュレナの胸が小さく痛んだ。
そこは、彼女自身も不安に思っていたところだった。
ゼルヴェインは完璧すぎる。王女との縁談すら断った男が、なぜ自分なのか。毎日好意を示されても、夢から覚めるのが怖くて、まだ求婚への返事ができずにいた。
「君には僕くらいがちょうどいい。長い付き合いなんだ。戻ってきても責めたりしない」
「ずいぶん寛大なんだね」
頭上から声が降ってきた。
ミュレナが振り向くより先に、肩へ黒い外套がかけられる。秋風から守るように前を合わせたゼルヴェインが、そのまま彼女の隣に立った。
「ゼルヴェイン様」
「今日は風が冷たい。外に出るなら羽織りなさい」
「研究室に忘れてしまって」
「知ってる。だから持ってきた」
当たり前のように言いながら、彼は外套の襟を整える。
ヴァルドの顔が引きつった。
「総監閣下。これは僕と元婚約者の話です」
「元、だろう? それなら君に優先権はない」
「しかし、彼女とは三年も――」
「三年もあって、彼女の好きな茶すら知らなかったそうだね」
ヴァルドが黙る。
ゼルヴェインは穏やかな笑顔のままだった。
「ちなみにミュレナは濃い紅茶が苦手で、蜂蜜を少し入れた薬草茶が好き。焼き菓子は作るほうが好きだが、自分で食べるなら柑橘系。寒い日は右手から冷える。緊張すると左の袖口を摘まむ。怖いときは黙るが、本当に怒ったときは逆に妙に丁寧な口調になる」
「な、なぜ、そんなことまで……」
「見ているから」
簡潔な答えだった。
ミュレナの心臓が大きく鳴った。
「僕は三年間、彼女に触れないよう努力しながら見ていた。君が彼女を大切にするなら、それでいいと思っていたんだよ」
そこで初めて、ゼルヴェインの笑みから温度が消えた。
「なのに君は、僕が喉から手が出るほど欲しかったものを持っていながら、価値がないと言って捨てた」
ヴァルドが一歩後ずさる。
「今さら拾い直せると思わないことだ」
静かな声だったが、剣より鋭かった。
ミュレナは外套の中で指を握った。怖いとは思わなかった。それどころか、胸の奥にじんわり熱が広がっていく。
ヴァルドが去ったあと、ゼルヴェインはすぐにいつもの顔へ戻った。
「さて。昼食は?」
「まだです」
「やっぱり。今日は食堂の魚料理が美味しいらしいよ」
ヴァルドとの一件などなかったかのような口ぶりに、ミュレナは少しだけ肩の力が抜けた。
「ゼルヴェイン様」
「ん?」
「どうして、私の好きなものをそんなに知っているんですか」
「今さらそこ?」
「今さらです」
彼は少し考えるふりをしたあと、ミュレナの鼻先を指で軽くつついた。
「好きな人のことは、知りたくなるものだから」
また、簡単に言う。
ミュレナが真っ赤になると、ゼルヴェインは楽しそうに目を細めた。
「その顔も好き」
「……意地悪です」
「知ってる。でも君にしかやらない」
それがいちばん困るのだと、ミュレナは思った。
◇
転機は、王都東部の精霊樹が枯れ始めたことだった。
精霊樹は王都全域の結界を支える巨大な樹木で、地下の魔脈と接続している。数百年間、一度も葉を落としたことがなかったという。それが突然、枝先から黒く変色し始めた。
研究院の調査で、原因は魔脈の汚染と判明した。
「私なら、治せるかもしれません」
会議室でミュレナがそう告げると、居並ぶ高官たちがざわついた。
原初活性術で精霊樹そのものを蘇生させ、樹を介して地下魔脈を浄化する。ただし、必要な魔力量は未知数だった。
「危険すぎる」
真っ先に反対したのはゼルヴェインだった。
普段は飄々としている彼が、会議の席で露骨に険しい顔をするのは珍しい。
「ですが、放置すれば三日以内に王都結界が崩壊します」
「代替案を探す」
「三日で?」
「探す」
「見つからなかったら?」
「それでも君一人を魔脈へ接続する案には同意できない」
高官たちが視線を交わす。
ミュレナは膝の上で手を握った。怖い。失敗すれば、自分の魔力が枯れるだけでは済まないかもしれない。
それでも、研究者としてわかっていた。
自分ならできる可能性がある。
「総監閣下」
ミュレナは意識して丁寧な口調を使った。
ゼルヴェインの眉がぴくりと動く。彼自身が言った通り、これは彼女が本気で怒ったときの話し方だった。
「私は、守られるためだけにこの力を得たわけではありません」
「……ミュレナ」
「怖いです。でも、私の力で助けられる人がいるのに、何もしないほうがもっと嫌です」
彼女は彼の目をまっすぐ見た。
「あなたが私を大切にしてくださることは嬉しいです。だからこそ、私の決意まで取り上げないでください」
長い沈黙が落ちた。
やがてゼルヴェインは片手で目元を覆い、大きく息を吐いた。
「……困ったな」
「何がですか?」
「ますます好きになった」
会議室の空気が凍る。
ミュレナの顔が一瞬で赤くなった。
「い、今ここで言うことではありません!」
「重要事項だからね」
「議事録に残ります!」
「残せばいい。僕がミュレナ・フィオルを愛している件、異議のある者は?」
誰も手を挙げなかった。
挙げられるはずもない。
「全会一致だ」
「そういう問題では……!」
高官たちは必死に笑いを堪えている。
ゼルヴェインはようやく少し表情を緩め、それから真剣な声で続けた。
「術式の実行は認める。ただし僕が魔力供給路になる。君一人では行かせない」
「危険ですよ」
「君に言われたくないな」
「でも――」
「これは譲らない。君が自分の意志を守るなら、僕にも君を守る意志がある」
反論できなかった。
その日の夕方、二人は精霊樹の地下祭壇へ向かった。
◇
魔脈接続は、想像以上に苛烈だった。
黒い靄のような汚染魔力が地下祭壇を満たし、精霊樹の根は腐食しかけている。ミュレナは巨大な根へ両手を当て、目を閉じた。
自分の奥にある温かな光を、細い糸のように伸ばす。
眠っている生命を探し、呼びかける。
――まだ、生きている。
樹の深部に、小さな鼓動があった。
「見つけました」
背後からゼルヴェインの手が重なる。
「好きなだけ使って」
途端に、海のような魔力が流れ込んできた。
あまりの量にミュレナは息を呑む。ゼルヴェインの魔力量が規格外だとは知っていたが、これほどとは思わなかった。
「多いです……!」
「遠慮しない」
「少し減らしてください」
「君はいつも遠慮するから、これくらいでちょうどいい」
「魔力供給まで意地悪しないでください……!」
苦しい状況なのに、少しだけ笑ってしまった。
その笑いで肩の力が抜ける。
光が根へ染み込んだ。
黒ずんでいた表皮の下から淡い緑色が戻り、一筋、また一筋と生命の輝きが地下へ広がっていく。魔脈に触れた瞬間、凄まじい反動が押し寄せた。
ミュレナの身体が揺れる。
すぐにゼルヴェインの腕が腰を支えた。
「無理なら止める」
「まだ、できます」
「限界を超えたら僕が強制的に切るよ」
「信じてください」
「信じているから怖いんだ。君は自分が傷つくことに無頓着すぎる」
耳元で聞こえた声は、かすかに震えていた。
ミュレナは初めて気づいた。
この人も怖いのだ。
いつも余裕があり、何でもできて、何が起きても笑っているように見えた男が、自分を失う可能性に怯えている。
胸が締めつけられた。
「ゼルヴェイン様」
「何?」
「終わったら、お返事します」
背後の気配が止まった。
「求婚の?」
「はい」
「それは、生還しないと聞けない?」
「そうなります」
「……君、意外と僕の扱いが上手くなったね」
低い笑い声が耳をくすぐる。
「わかった。絶対に終わらせよう」
二人の魔力が重なった。
精霊樹の鼓動が大きくなる。
地上で、最初の一枚が芽吹いた。




