第1話_ようやく空いたからね
王都の北端、白い尖塔が朝霧を突き抜けるころ、ミュレナ・フィオルは自分が婚約を破棄されたことよりも、手に持っていた焼き菓子の籠を落とさなかったことに安堵していた。
王立魔法院の正門前には、出勤してきた術師や文官たちがいる。その視線が一斉にこちらへ集まっているのに気づくと、ミュレナは薄茶色の髪に半分隠れた耳まで赤くなった。背丈は低く、丸い蜂蜜色の瞳と柔らかな頬のせいで、十九歳になっても十五、六に見られることが多い。驚くと肩をすくめ、困ると指先を胸元で握る癖まであるため、友人にはよく「森栗鼠みたい」と笑われていた。
そんな彼女の前で、婚約者だったヴァルド・ネイガンは胸を張っている。その腕には、派手な金髪の令嬢リゼッタが絡みついていた。
「聞こえなかったのか、ミュレナ。君との婚約は今日限りで終わりだ。僕はリゼッタと結婚する」
聞こえてはいた。ただ、あまりにも突然だったので、意味が心に届くまで時間がかかったのだ。
ミュレナは籠を抱え直した。今朝、夜明け前から焼いた木苺のタルトレットが入っている。ヴァルドが甘いものを好むから作ったのだが、もう渡す必要はないらしい。
「……そう、ですか」
「それだけ?」
「では、このお菓子は持って帰りますね」
周囲が妙な沈黙に包まれた。
ヴァルドの眉間に皺が寄る。どうやら泣き崩れるか、縋りつくことを期待していたらしい。けれどミュレナは、人前で大声を出すことがひどく苦手だった。胸の奥は痛かったし、三年間の婚約が紙屑のように捨てられたことは悲しい。それでも、悲しみより先に「焼き菓子を踏まれなくてよかった」と思ってしまった。
「最後まで気の利かない女だな。僕がどれほど我慢してきたと思う? 社交界では壁際に隠れ、会話もろくにできず、華やかさもない。おまけに、君の取り柄だった治癒魔法も大したことがないと判明した」
ミュレナの指先が籠の持ち手を強く握った。
治癒魔法については、少し事情が違う。彼女は治癒術師として魔法院の末席に籍を置いているものの、一般的な治癒術式が不得手だった。その代わり、植物や魔力そのものを活性化させる珍しい力を持っている。しかし、その能力は地味で、評価試験でも数値化しにくい。
ヴァルドは以前、「僕だけは君の価値をわかっている」と言っていた。
どうやら、わかってはいなかったらしい。
「それに比べてリゼッタは伯爵家の令嬢で、火炎術の才能もある。僕の隣に立つなら、こういう女性でなくては」
リゼッタが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「ごめんなさいね、ミュレナさん。でも、愛される努力をしなかったあなたにも責任があると思うの」
胸に刺さる言葉だった。それでもミュレナは、言い返す言葉を探して口を開きかけ、結局閉じた。
そのとき、背後から低く穏やかな声がした。
「朝からずいぶん面白い余興をしているね」
人垣が、潮が引くように割れた。
黒銀の長衣をまとった男が歩いてくる。背が高く、灰青色の髪を無造作に後ろへ流し、長い脚でゆったりと石畳を踏んでいた。端正な顔立ちには気怠そうな微笑が浮かび、片手には革手袋を持っている。
ゼルヴェイン・クローディス。
二十八歳にして王国魔導騎士団総監、侯爵位、王室特務顧問を兼任する男だった。北方戦役を三か月で終結させ、王都を襲った魔獣災害では一晩で結界網を再構築したという逸話まである。仕事は異様に速く、剣も魔法も一流。財産も地位も容姿も揃っているため、社交界では「結婚したい男」の筆頭に挙げられる一方、誰にも本気にならないことで有名だった。
ミュレナは彼を見るなり、さらに小さくなった。
実は彼女の直属の上司である。
「総監閣下……」
「おはよう、ミュレナ。今日はいつもより小さいね。縮んだ?」
「縮んでません」
「そう? 僕には手のひらに乗りそうに見えるけど」
こんな状況なのに、いつもの調子でからかわれる。ミュレナがむっと頬を膨らませると、ゼルヴェインは満足そうに目を細めた。
それから、ようやくヴァルドへ視線を移した。
「それで、ネイガン卿。君は今、彼女の治癒魔法が大したことがないと言ったのかな」
「え、ええ。事実でしょう。評価試験では三級判定ですから」
「なるほど。数字は読めるらしい」
ヴァルドがほっとした直後、ゼルヴェインは薄く笑った。
「だが、報告書は読めないようだ」
「何を……」
「ミュレナ・フィオルは治癒術師として三級。魔力活性術師としては測定不能。王立研究院が先週、彼女の術式を『王国唯一の原初活性術』と認定した。国家機密指定だから公表前だったが、君は婚約者なのに、彼女が三年間何を研究していたか一度も尋ねなかったのかな?」
ざわめきが広がった。
ミュレナ自身も目を丸くする。
「えっ」
「君も知らなかったの?」
「測定不能だから、失敗したのだと思っていました……」
「君はもう少し自分に興味を持とうか」
ゼルヴェインは呆れたように言いながら、ミュレナの頭を軽く撫でた。大きな手のひらに髪を押さえられ、彼女はますます栗鼠めいた顔になる。
ヴァルドは青ざめていたが、まだ虚勢を張った。
「だとしても、婚約と仕事は別です。僕には選ぶ権利がある」
「もちろん。好きにすればいい。僕はむしろ感謝している」
「感謝?」
「ああ」
ゼルヴェインはミュレナの肩へ自然に手を添えた。
「ようやく空いたからね」
今度こそ、正門前が完全に静まり返った。
ミュレナだけが意味を理解できず、ぱちぱちと瞬きをしていた。
◇
「……空いた、とは、何がでしょう」
総監執務室へ連れてこられてから十分後、ミュレナはようやく尋ねた。
ゼルヴェインは机の向こうで書類に署名をしながら、顔も上げない。
「婚約者の席」
「誰のですか?」
「君の」
「誰が座るんですか?」
「僕」
羽根ペンがさらさらと紙を走る。
ミュレナは椅子の上で固まった。
窓の外では秋の雲がゆっくり流れている。執務室には古い紙と珈琲の香りが漂い、壁際には戦略地図や魔導器が整然と並んでいた。何もかもいつも通りなのに、彼女の頭の中だけが大混乱だった。
「……冗談ですよね?」
「君に求婚するのを三年待った男に、なかなか残酷なことを言う」
ゼルヴェインはようやく顔を上げた。
いつもの飄々とした笑みがある。しかし、その灰紫色の瞳だけは少しも笑っていなかった。
「三年?」
「君が婚約したのが三年前だろう」
「はい」
「その二週間前、君は魔法院へ入った」
「はい……」
嫌な予感がして、ミュレナは椅子の上で身を縮めた。
「初日に迷子になって僕の執務室へ入り、僕の机の下にいた」
「それは忘れてください!」
ミュレナは両手で顔を覆った。
当時、建物の構造を覚えられず、泣きそうになりながら廊下をさまよっていた。人の気配が怖くなって無人の部屋へ入り、さらに誰かが来たので咄嗟に机の下へ隠れたところ、その「誰か」が執務室の主だったのである。
「忘れるわけがない。僕の人生で、机の下から『ここには誰もいません』と自己申告されたのはあれが最初で最後だ」
「恥ずかしい……」
「可愛かったよ」
「からかわないでください」
「からかってない。あの瞬間から気になっていた」
ミュレナの手がゆっくり下がる。
ゼルヴェインは書類を閉じると、椅子から立ち上がった。机を回り込み、彼女の前へ来る。その長身が近づくだけで、ミュレナは反射的に背筋を伸ばした。
「ところが、声をかけようと思った矢先に君の婚約が決まった。家同士の約束で、君も承諾したと聞いたから、横から奪うのはやめた。僕は案外、行儀がいいんだ」
「……ご自分で言います?」
「誰も褒めてくれないからね」
彼は笑い、ミュレナの手から菓子籠を取った。
「これ、ネイガンに渡す予定だった?」
「はい。でも、もう要らないと思います」
「なら僕がもらう」
「全部ですか?」
「全部」
「十個ありますよ」
「一つも他人にやらない」
妙に断固とした言い方だった。
ゼルヴェインは木苺のタルトレットを一つ取り出し、ためらいなく口に運ぶ。しばらく咀嚼したあと、目元が柔らかくなった。
「美味しい」
その一言が、ひどく嬉しかった。
ヴァルドは彼女の菓子を食べても、もっと甘くしろ、見栄えを良くしろと注文をつけることが多かった。ミュレナは婚約者に喜んでもらいたくて、そのたびに作り方を変えていた。
「……本当に?」
「僕は君に嘘をつかないよ。必要なら、残り九個を今ここで食べて証明してもいい」
大真面目な顔で、彼は菓子籠を自分のほうへ引き寄せる。
「お昼ご飯が入らなくなります」
「心配してくれる?」
「上司ですから」
「そこは婚約者候補だから、と言ってほしかったな」
「まだ候補にもなってません」
思わず返すと、ゼルヴェインが楽しそうに笑った。
「そういうところ、好きだよ」
あまりにもさらりと言われ、ミュレナはまた耳まで赤くなる。
「返事は急がせない。ただし、一つだけ覚えておいて。僕は君が思っているほど善良でも淡白でもない。君が自由になったと知った以上、もう遠慮する気はないから」
彼の指が、ミュレナの頬に落ちていた髪をそっと耳へかける。
「覚悟しておいて、小栗鼠」
「その呼び方は禁止です」
「では、僕の可愛いミュレナ」
「もっと駄目です……!」
逃げるように顔を伏せた彼女を見て、ゼルヴェインは機嫌よく二個目の菓子へ手を伸ばした。
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