第94話 糸との訣別
膝から崩れ落ちる。
表情が絶望に染まる。
僕はカドヴィくんの反応を見て思った。
(いまさらそこなのか……)
正直、不愉快な気持ちが抑えられなかった。
いや、不愉快というよりは呆れと少しの憤り。
そして、どうしようもない虚しさが相混ぜになった感情だった。
だってそうだろう。
あの時、彼は確かに己の正義を振りかざしてあの断罪騒ぎを起こしたんだ。
その結果、ここに立つことになったのがカドヴィくんなのだ。
その間に、彼は母と向き合い、語り、己の行いを振り返る時間はいくらでもあったはずだ。
なのに。
それでも今この瞬間まであの断罪に至った自身の動機やあり方そのものについては疑いを抱いていなかったということがわかってしまったからね。
正直、母との問答で口を挟まず、感情を抑え、文字通り血のにじむような努力で耐えていた姿を見て、僕は少しだけ感心していた。
でも、心の底では彼はいまだに自身は間違っていなかったという思いがあったからこその絶望。
僕としては、そのほうが信じられなかった。
(それほどまでに、あの卑屈くんは依存させる何かがあったということか)
同時に、レシクという男が人をそこまで依存させるほどの能力があったということに舌を巻く。
最初に出会った時から、僕は小物っぽいなとは感じていた。
態度も振る舞いも、格好すらも。
だが、人をここまで依存させる力を持つ小物など存在しない。
もしかすると、巨人族の男を嗾けた軽率さも、僕らを過小評価した判断も、全ては計算ずくであったかもしれない。
レシクの逃亡を一時的に許したのも計画のうちではあったが、この辺りまでグランバル氏は見抜けているのだろうか。
いや、今はそれを考えるのはよしておこう。
まずは目の前の出来事の行く末を見届けてからだ。
「……俺は……正しく……なかったのですか……?」
カドヴィくんが声を震わせて問いかける。
今までの震えとは、意味が違う。
今までは空気に飲まれまいと耐え忍ぶもの。
そして王との向き合う。
立ち向かう勇気の震えでもあった。
でも、これは違う。
怯えだ。
頼るものが、支えてきたものがなくなった時の震えだ。
そう、幼子が親を見失った時のような。
あの時と変わらない姿……。
思わずアルフリーダさんを見る。
彼女もまた、瞳が揺れていた。
だが、その手は祈りのために結ばれて、足も強く地に結ばれている。
心配はある。
それでも、いまは息子の戦いだ。
そこに親が飛び込むのわけにはいかない。
それが王との約束。
そして、子離れのための試練。
彼女もまた、戦っていた。
そして、アルフリーダさんに託された王は……短く、冷たく言った。
「知らぬ。」
そんなことに興味はない。
私が知るものか。
その一言には、何もない。
怒りも
憐れみも
慰めも
何ひとつ含まれていない。
ただ知らぬものは知らぬのだという無を示している。
その清々しいまでに何も混じらない一言に、カドヴィくんの呼吸が止まる。
「正しさがどこにあったのかを誰かに委ねていた、その根源がここにいない今、余に知るすべはない。」
だが、リアナの言葉は突き放しではない。
むしろ、徹底した道理だった。
カドヴィくん正しさを定めていたのは従者レシク。
その従者本人がいない今、正しさの所在など誰にもわかりはしない。
なのに、何故私に聞く?
リアナはただその道理を言葉にしただけだ。
知らないものは知らない。
リアナは偽りなく答えること求めた。
偽りなく答えよと求めた者として、自身もまた偽りなく答えているだけだ。
だが、カドヴィくんにとっては。
正しさという柱が幻想だったと気づいたばかりの彼にとって、その幻想を暴いたリアナの存在は、唯一の真実の象徴に見えてしまったのだろう。
だから、彼は縋るように問う。
「では……俺は何を信じれば。
何を正しさとすればよいのでしょうか……?」
言葉が、問いかけが、新たな主を求めるように。
目の前で光放つリヴェリアスという存在に己を委ねようという意志を持ち始める。
従者レシクという支柱が崩れ、空白になった心の穴を埋めるために。
カドヴィくんの視線は燦然と輝くリヴェリアスの王へと向かう。
光に縋るように。
救いを求めるように。
新たな正しさを与えてくれる存在として。
「俺に正しさを、与えてください。
変わりに命を……。
俺の全てを捧げます……だから……どうか……!」
違う。
それは、献身でも忠誠でもない。
ただ、自らの正しさを新たな依存先に委ねるだけのみっともない懇願だ。
それはだめだ。
それは、何も変わらない。
主を変えるだけ。
依存先を変えるだけ。
何より、ここにいる騎士たちにとって、それは王への依存という万死に値する不敬。
王に命を捧げるとは、王の道を共に歩む覚悟を示す言葉であり、正しさを委ねるという意味から最も遠い言葉だ。
共にありて、命散るまで仕えることを誓う。
騎士の前でやってはならぬことだ。
王の間の空気が、何よりエフィの眼光が冷たく輝く。
その一歩は、王の威光を穢す者に裁きを下すための踏み込みだった。
が、リアナはまたしても片手を挙げた。
そして、今度は確かにエフィの眼を見た。
手出し無用。
エフィは歯を食いしばり、その場に踏みとどまる。
その意志は、王としての絶対の命令だった。
そして、その意志を示すかのように、リアナの次の一言から始まった。
「カドヴィ=アーシェスタス。余は誰だ?」
「……は?」
「許す。余の名を表せ。」
リアナは、代わりの正しさを与えない。
与えるつもりはない。
だが、導くことはできる。
少しだけ指さすことはできる。
「……」
「再度告げる。
カドヴィ=アーシェスタス。
余の名をこの場に表せ。」
その声音には、王としての威光ではなく、人としての誠実さが宿っていた。
リアナは与えるだけの王ではない。
与えるべき時にだけ与える。
「……ら、ラセルエア=リアナ=リヴェリアス陛下です……」
でも、それはリアナが選んだ場合だけだ。
「そうだ。
余は唯一無二の大国リヴェリナの王だ。」
リアナは選択する。
リアナは考慮する。
リアナは——大国リヴェリナの王だ。
「問う。
では、貴様は何者だ。
カドヴィ=アーシェスタス。
その名は誰のためにある?」
問いが落ちる。
リアナはリヴェリナのための王だ。
ならば――アーシェスタスの名は、誰のためにある?
「……っ……あ……」
その言葉が意味するところに、カドヴィくんは、ちゃんとたどり着いた。
誰のために生まれ、誰のために立ち、誰のために正しさを掲げるべきなのか。
「あ、ああ……。俺は……私は……!」
ひとつずつ、指を差して確認してあげるような、寛大な王の導きに従って。
「アーシェスタス……
アーシェスタスです……!
メイキドルアのアーシェスタスであります、陛下……!」
その声は震えていた。
だが、確かだった。
ようやく彼は小高い丘から見渡すように、自分が何者であるかという中心にたどり着いた。
己が何者であるかという。「正しさ」の中心である場所に。
その瞬間、涙が頬を伝った。
それは悔しさでも、恐怖でもない。
糸が切れた痛みと、糸のない世界に初めて足を踏み出した人間の涙だった。
これまでの彼の人生は、誰かが整えた道を歩くものだった。
従者レシクが地図を広げ、レシクが道を示し、レシクが正しさを定めてくれた。
だが、この短い時間でリアナが示したのは、整えられていない道ばかりだった。
その道は険しく、痛みを伴い、迷いと恐怖に満ちていた。
けれど、その道こそが自分の足で歩く人生だった。
リアナがしたことは、人生という大きな地図の出発点に大きく印をつけただけだ。
でも、それでよかった。
歩む道のりを知らずに歩いても目的地に到達できるようでは、原点に一人で帰ることができない。
ひとりで帰ることもできないものが厳しい道を歩むことなどできない。
大事なのは、自分の今いる場所と地図、そして何より立ち返ることができる『開始地点』を覚えていることだ。
彼にはそれがなかった。
いつだって隣にいる頼れる従者が自分の地図を見てくれたから。
でも、それでは操られていることとなんら変わりはない。
糸が切れたとき、意志のない人形ならその場に崩れ落ちるだけだ。
だが、彼は意思をもつ人間だ。
糸がなくなっても歩むべき道を歩まなければならない。
糸を操ってくれる人を求めることもひとつの正解かもしれない。
それでも、彼はアーシェスタスだ。
操られるままでは救えない人間がでてくる責任ある立場だ。
だから、糸が断ち切られたならば、自律して動かなければならない。
涙は、糸との別れであり、人形の役割からの訣別であり、自分の意志で歩き出すための最初の一滴だった。
自らが望んだ、自分の中から溢れてきたものだ。
これはどちらかといえば僕の願いかもしれない。
でも、この願いを望んでいる人が他にもいるはずだ。
少なくとも、離れたところで同じ涙を流すアルフリーダさんはきっとそう願っているだろう。
彼女の瞳から零れた涙は、悲しみではなく、息子が初めて自分の足で立ったことへの安堵と誇りの涙だった。
託した願いは、確かに結実した。
カドヴィくんは、従者に操られていたとはいえ、性根は正しさを求める善人だ。
誰かのための正しさという歪みから解放された今なら――いや、これから先の道のりの中でなら、きっとやり直せる。
そんな彼に、リアナはこれ以上何かを示さない。
もう充分だと悟ったのだろう。
リアナは呟くように、ただ一言。
「そうか。」
それだけだった。
だが、そのリアナの口端が少しだけ持ちあげられていたことは。
僕の胸の内にしまっておこうと思った。




