第91話 もっと純粋な願いで
「一つの領の母を名乗るか……」
リアナはひとつ、静かに息を吐いた。
そっと目を閉じ、短い間を置く。
再びゆっくりと目を開く。
「それは、余と王として向き合う。
そう理解してよいか?」
その視線は、先ほどまでのものとは違っていた。
巻き込まれたものに対する憐憫でも弱き者への慈悲でもない、別の色を秘めていた。
リアナの視線の意味は言葉通りである。
王として同じ高さに立つ者であるか問いかけるものだった。
メイキドルアという領の民を代表してこの場に立つとは、すなわち領主としての責を負うべき立場であると宣言したようなもの。
それ故にリアナははあえて王と表現したのだ。
ただ、その表現に周りの騎士たちの雰囲気が凍り付く。
彼女たちにとって、唯一無二の大国リヴェリナの王はリアナ、ただ一人だ。
その彼女から「其方は余と同じ王であるか?」とアルフリーダさんは問われたのだ。
甚だ不遜なり。
視線は言葉より雄弁である。
静かな王の間に残った問いかけが全てを語る。
汝、我らの王と対等を名乗るか。
「……いいえ、私は王ではありません。」
アルフリーダさんは、否定する。
だがそれは、この空気に飲まれたものではない。
身を守るための反射でもない。
静かにリアナの言葉を受け止め、考え、その上で自分は王ではないと答えた。
その答えに、騎士たちの剣呑な雰囲気が少しだけ和らぐ。
ただ、問いかけした王自身はその答えに眉を顰めていた。
「……一つの領の母を名乗り出ておいて、王を名乗らぬとはどういうことだ?」
その声は、怒りとは別のもの。
理が通らぬことを問う王の声だった。
アルフリーダさんは胸に手を当て、静かに断言する。
「我が領の王たる者。
それは、我が夫、グランバル=アーシェスタスただ一人です。」
再び王の間に冷たい空気が満ちる。
王はいる。
王たるべき資格がある者がいる。
その答えに、ギリィ……と奥歯をかみしめるような音が響いた気がした。
その音の発生源はもちろん、近衛騎士団長エフィリスから発せられたものだ。
握りしめた拳に力がこもり、今にも無礼討ち御免であると激昂し、抜剣しそうだ。
唯一無二の王たる者に対し、別の王の存在を仄めかすなど、甚だ不遜なり。
「――では、其方は王の代理か?」
エフィが動くより早く、リアナは片手を挙げて制しながら問いかけを続ける。
その一見軽そうに挙げられた手には、手出し無用の重い令が宿っていた。
これは彼らを問うための場。
彼らに釘をさすための場。
リアナのみが彼らの意志と対峙すると決めていた場。
僕との約束を果たすために成立した、謁見と申し開きの場。
不遜も、侮りも、命乞いも。
全てはリアナの責任で動かす。
リアナの判断で決める。
王の意志は固く、揺るがない。
それ故の王である。
傲慢。
しかし、その責を負うべきものはただ王ひとりのみ。
その命を絶つべきと判断するのは騎士ではなく、王である。
故に、強い令をもってエフィを引き下がらせた。
不遜の裁きのために騎士が剣を抜くべきではない。
王が言葉で真意を測るべく、意志を切り分けるのだ。
最後に残る、その人物の黄金の意志を見定めるために。
「いいえ、偉大なる王よ。私は『母』なのです。」
胸に手を当てて、強く母を繰り返すアルフリーダさん。
「……許す。続けよ。」
言葉を挟まず。
問いを重ねず。
王はただ続きを待つ。
語る資格を与えた沈黙だった。
「メイキドルアには、今も何も知らぬ民がおります。」
アルフリーダさんは王の慈悲を噛みしめ、それ故にその想いの芯を強く語ろうと身を乗り出した。
「彼らは、リヴェリナを知りませぬ。
それどころか、メイキドルアの現在を知りませぬ。
それは、我が夫が全てを明らかにする前に片付けるために始めたからです。
故に、民は何も知らずに裁かれようとしておるのです。」
「だとすれば、民に罪はないと訴えるためにここに残るということか?」
その問いに、アルフリーダさんは首を振る。
「いいえ、いいえ。リヴェリアス様。」
その声は震えていない。覚悟が支えていた。
「罪はメイキドルアの領主たる我らアーシェスタス家が生み出したもの。
故に、メイキドルアもまた同じ罪を負うのです。」
その言い草に、リアナは眉を顰めた。
彼女の言い分は、何も知らない民の罪を生み出した領家の罪すら民に押し付けるように聞こえた。
「……ですから、私はメイキドルアの母でなくてはならぬのです。」
だが、アルフリーダさんの言いたいことは、その先にあった。
「母は、家族と共にあって、その喜怒哀楽の全てを共に分かち合うのです。
領家の喜びを示す祭りで子たちと踊りましょう。
我が領の子を蔑むものに、共に怒り、立ち向かいましょう。
隣人を無くした時、亡骸を葬り、悲しみを分かち合う子の隣で共に泣きましょう。
飢えぬ毎日を楽しく生きる子と、共に笑いましょう。」
民を子と呼び、その全てを分かち合う。分かち合うが故に、民もまた、領の罪を共に背負う。
「メイキドルアは罪を侵しました。
その責めを見届け、子に伝える。
過ちと共に生きる。そして……」
まっすぐに王を見て、アルフリーダさんは言い切る。
「成した後、子の前で身を投げましょう。」
その言葉は、領の母としての死の覚悟だった。
息子の罪ではない。
領の罪を、領の母として背負い、その果てに自らの命で示す覚悟。
しんと静まり返る王の間。
リアナは流石に額に手を当てて悩んでいた。
本気であることは伝わった。
ただ、覚悟が悲壮すぎるのだ。
「……そうか。相分かった。」
長く息を吐きながら、リアナは言葉を紡ぐ。
「散る覚悟、潔し。
だが、それは母たる役目ではないな。」
そして、リアナの選んだものは。
覚悟の否定ではなく、役割の否定だった。
「子の前で命を散らす母をみて、子は何を思うかに至っておらぬ。」
そして王の理ではなく、人の道理を問うことに切り替えた。
「役割に殉じた母は、満足できるかもしれぬ。
だが、子はリヴェリナを憎むであろうな。」
リアナの厳格な王の雰囲気がそっと和らいだ。
その言葉は、覚悟の重さに寄り添いながらも、怨嗟の始まりはもっと感情的なものだと諭すようだった。
「親の覚悟に対して、子はまず親が生きていて欲しいものだ。
親が、子の無事を願うようにな。」
そう言って、リアナはアルフリーダさんに振りかえるように促す。
役割を否定されたアルフリーダさんが茫然と後ろを振り返ると、そこには涙流れるのを必死に拒みながらも、母を想う子の悔しそうな顔があった。
悔恨を抱く気持ちすらおこがましいというのに、それでも母が子の前で死を語ることを止めたい衝動に駆られながらも踏みとどまろうとしている子がいた。
「カドヴィ……。ダメです。
貴方に、アーシェスタス家のものに、そんな顔をする権利なんて……」
「権利ではない。心が叫ぶんだよ。」
口調すら砕いてリアナは人の理を。
止まらない感情のありかを、王ではなく、一人の人間として説く。
「ですが、ですが。
それでは、私はアーシェスタスに。
あの人に。あの人の愛する地に。」
リアナに人の道理を説かれたことで、これまでずっと押し込めてきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「何も残せないまま、何も成せないまま、ただ母であるというだけの無力なもので終わってしまいます……」
その声は震えていた。
気丈に戦ってきたアルフリーダさんのありのままの、本当の弱さが滲んでいた。
ただグランバル=アーシェスタスを愛する者として。
ただ彼の隣で愛された者として。
無力な自分という存在に、飲み込まれてしまいそうだったものを奮い立たせていた。
母として、何かをしたかった。
妻として、何かを残したかった。
捧げられるものがない自分でも、せめて命をもってならと。
そう願ってしまった。
その言葉は、役割ではなく、心の奥底から出た偽りなき言葉だった。
「……終わるかどうかを、母が決めてはいかんよ。」
俯き、涙をこぼすアルフリーダさんの頭上に、リアナの声が静かに落ちてきた。
叱責ではない。慰めでもない。
母という存在の本質を思い出させる声だった。
「母なら強く、笑って何があっても大丈夫と子に示し続けねば。」
母ならば。
その言葉に、アルフリーダさんの肩が震える。
その震えは恐怖ではなく、母としての自分を思い出した痛みだった。
「終わるかもしれない。
子の過ちを正すために、打たれる覚悟も必要かもしれない。」
リアナの声は厳しい。
だが、その厳しさは突き放すためではない。
「それでも、子に対して母はここにいます。
だから、安心しなさいと笑って伝える。」
その言葉に、アルフリーダさんの呼吸が止まる。
死ぬ覚悟ではなく、生きて立ち続ける覚悟を求められている。
「そういう強さもあってよいのではないか?」
リアナの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
リアナもまた、思い出しているのだろうか。
母の姿を。
「陛下……私は……申し訳……ございません……。」
アルフリーダさんの声は、母としての弱さと、妻としての悔しさと、人としての情けなさが混ざった声だった。
「うむ。」
「母として。
子を、見捨てたくのうございます……。」
その言葉は、これまで必死に隠してきた本当の願いだった。
役割でも、責務でもない。
ただの母の心。
「うむ。」
「そんな理由で、残りたいと願ってよいのでしょうか?」
アルフリーダさんは震える声で問う。
母としての願いが、あまりに小さく、あまりに個人的で、あまりに弱いものに思えてしまうから。
「余は、寛大である。」
三度目の繰り返し。
それは、母の愛を受け入れるという、王の確かな度量だった。
役割ではなく、責務でもなく、覚悟でもなく。
偽りなき言葉を語った者を、王は赦す。
「見届けることを許す。
ただし、口を挟むことは赦さぬ。」
それは、リアナとしての譲歩だった。
そして何より。
「ただ見届けることを選ばぬとなれば、親として子に示しがつかんぞ?」
リアナはニヤリとアルフリーダさんに笑いかけた後、カドヴィくんに視線を送る。
振り返って見れば、彼は唇から血を滴らせながらも顔を伏せていた。
ここで口を出すわけにはいかない。
まだ自分には王に語り掛ける許しを得られていないから。
だからこそ、母の申し開きの最中で、不本意な言葉を投げかけられているときでも彼は黙っていた。
その赤い滴りで彩られた沈黙は、耐えるための成長の証である沈黙だった。
牢に入れられた期間で、カドヴィくんにどんな心境の変化があったのだろうか。
以前の彼なら、王の言葉にかみついたであろう。
命を賭して、無意味に命を散らすような真似をしでかしたであろう。
でも、彼は必死に耐えていた。
母の覚悟を無下にしないため。
母の想いを踏みにじらないため。
そして何より、自分が出しゃばることで母の立場を奪わないため。
必死に自身を傷つけながらも耐えていた。
それは、かつての彼にはなかった強さだった。
「少しはまともに話ができるとよいな?若人よ。」
リアナはパンっと手を打ち鳴らす。
それに合わせて、騎士がアルフリーダさんの横に付き、優しくその身を起こした。
「陛下っ!」
何が起こるか理解したアルフリーダさんの瞳に、怯えが揺らいでいる。
「発言を許可しておらぬ。不敬である。」
だが、エフィは冷たくそう言い放った。
その声は、王の間の空気をさらに引き締めた。
アルフリーダさんは拘束される。
それを見たリアナは、すぐに柔らかく命じた。
「……夫人を下がらせよ。
――くれぐれも、丁重にな?」
「陛下……っ!」
「……見届けよ。
ただし、子の隣では許さぬ。」
有無も言わせぬ断言。
その言葉には、母としての立場を守らせるための距離を設けるという意味が込められていた。
「子離れせよ。
……何より、ここで何も言わずに堪えていられるのならば、子ども扱いはしないほうがよい。」
リアナの視線が、血を滲ませながらも黙して耐えるカドヴィくんへ向けられている。
それを見たアルフリーダさんもまた、ぐっと奥歯を噛みしめた。
子ですらそうやって堪えているというのに、母が取り乱しては子に恥をかかせるようなもの。
王の言葉である以上、これ以上の問答はなにも残さない。
そう判断した彼女は、自分の足で舞台を降りることにした。
身を支えていた騎士も、その足取りが自ら舞台を降りるべく向けられているのを察し、そっと先導へ切り替えた。
向かう場所は奥の席。
そう、シルバナくんと同じ位置。
彼女もまた、これでただの傍観者となった。
「……それでは、最後の謁見と参ろうか。」
冷ややかな視線がカドヴィくんの頭上に注がれる。
全ての騎士たちの雰囲気がより厳格に彩られる。
「……直答を許す。申し開きがあれば述べるが良い。」
その声音は、これまでの直答の許しとは違っていた。
もはやそれ自体が、断罪の是非を問う刃だった。
「言える度胸があるのならば、な?」
リヴェリナへの侮りを語った者。
王の友人を犬と謗った者。
その最期の審問が、静かに、しかし確実に幕を開けた。




