第90話 影は主より離れて王の命を拝する
「余は、寛大である。」
口火を切ったのはリアナだ。
それは赦しを告げるようでありながら、宣言のようであり、先に断りをいれるかのような響きを持っていた。
「形式より内容を。
情より理を。
修飾より実直を。
これらがあれば、無礼や不敬を問わぬ。」
静かに、しかし絶対の威をもって言い切る。
「故に――虚偽なく応えよ。」
その瞬間、大広間の空気がひとつ、深く沈んだ。
リアナの言葉は、ただの前置きではない。
我が前に立つ者は、己のすべてを偽ることを赦さぬという宣告だった。
その言葉の意味に気づいたグランバル氏の肩が、わずかに反応する。
「余は、寛大である。」
リアナは、繰り返えした。
それは念を押すように、大事なことを刻みつけるように。
その声音は、赦しを与えるようでありながら、同時に覚悟を問う刃でもあった。
「余の威が、其方らの言葉を、心を。不要に押さえつけることを理解している。」
人は弱い。
特に刃を突き付けられているときは。
「故に――一度は赦す。」
だからこその赦し。
王の威に屈して楽になるなという意味でもあり、恐怖に飲まれて媚びるなという戒めでもある。
果たしてそれは譲歩なのかと問われれば、わからない。
望む言葉を引き出す横暴な王にとっては、これは卑劣な手段。
しかし、寛大な王にとっては真実を追求するための最低限の条件だった。
「余の問いかけに誠実に応えよ。
保身のための言葉は許さぬ。」
身を案じるなら、正しく応えよと。
これは慈悲に見えて無慈悲だ。
言葉を飾り立て、煙に巻くことを禁じる。
同時に、正しい答えが王にとって不愉快でも、その答えに殉じよと要求されているのだから。
グランバル氏の表情が引き締まる。
「そして、忠告をひとつしよう。」
それを見届けたからなのだろうか。
リアナはわずかに顎を上げた。
その仕草は、相手を見定めるようであった。
「余は、主を護る為の虚言を理解する。」
その言葉は、この場にいるたった一人。
影として立つ男に向けられていた。
影は嘘だ。
だが、王はその嘘を否定しない。
なぜなら、忠義が生む嘘は悪ではないと理解しているからだ。
「故に、この場にある資格なしと自らの意思を持って去ることを許す。」
資格。
身分を偽り、影としてこの場にいる彼の資格を問う。
主の代わりではない誰かとして、この場に残ることの是非。
リアナはそれを、彼自身の意思に委ねた。
「当然ながら、余は知っている。だからこそ、理解する。」
だが。
そう区切って影たる者の眼を、真正面から覗き込んだ。
「理解は示すが……、この場にいるべきものがいないことは不快である。」
リアナの声は冷たくもなく、怒りもない。
当然の感情を述べているだけだった。
この場にいなければならぬものがいない不快。
その行動が向き合うためと理解した上で、それでもリアナがどう感じたのかを口にする。
王というより、隣人としての不快。
純粋なる思いを口にしていた。
「直答を赦す。伝えよ。汝の主に。」
だからこそ、リアナは影を指し示し、影としての新たな責務を命じた。
主の影としての任務を全うできない代わりに、主に伝えるという役目を与える。
「事が終われば、詫びを入れに来い。とな。」
その言葉を受け、影は静かに目を閉じた。
葛藤
思案
疑念
この王の言葉の真意を測るように。
影は迷っていた。
この場で応えなければならぬこと。
その上で、選択の余地はほぼない。
その命を受け入れるということは、主に背くことになる。
影としては失敗だ。
ふと、彼は後ろに目線を向ける。
そこには顔を青くしながらも、懸命にこの場で前を向き続ける夫人。
そして、自分を影と見破れず、正体を知って驚愕する主の息子。
押し通せば、この主の大切な者たちまで巻き込む。
それどころか、王の機嫌を損ねれば、領ごと滅ぶ。
「……御心に、感謝を。必ず主に伝えます。」
影の覚悟は決まった。
それは、影であることを捨てるということ。
偽り続けられなくなるとしても、ここで自分が降りたほうがよいと。
影を任されたものとしては失敗。
されど、その後に訪れるリヴェリナの王の機嫌を損ねる無意味さ。
押し通すことで、主の大事なものたちもまとめて裁かれる可能性。
そして、この王が信用に足る人物であると持ち帰れること。
ならば、命運を委ねるべきは今この時ではない。
ここで影は自我を持ち、王の命を受け入れた。
「良き臣下だ。褒めて遣わす。
もし裁かれるとなれば、我が国に来い。」
リアナはそう告げながら、自然と手を伸ばした。
その、覚悟に敬意か。
あるいは、その忠義が惜しく感じたのか。
一人の人間としての温度が、そこにはあった。
「ありがたきお言葉。
しかし、良き臣下は主を変えませぬ。」
影はその手を取らなかった。
失敗は失敗だ。
影になり切れぬ自分に手を伸ばしてくれるリアナに感謝はする。
だが、そこで手を取るは忠義の名折れ。
影の帳を取り払われたアーシェスタスの臣下は、膝をつき最敬礼をもってそれに応えた。
リアナはそれに対して満足げに、ただ短く「うむ」と頷いた。
王の手を取らぬ不敬は問わぬ。
真実をもって影は応えた。
なれば、その忠義を見送るのみ。
その意志が徹底されたこの場に、彼の不敬を咎める者はいなかった。
影は身を翻す。
流れるように騎士の1人が横に付き、王の間を退出する道を示した。
影はこの場に留まる資格なし。
不名誉なる響きはあれど、リアナは影の忠義を称えた。
ここで自身が本物だと強弁し、命を捧げる無意味さを理解しているのも確か。
だが影は何より、リアナの言葉を信頼した。
この王なら、まっすぐ主自身が向き合ったほうが良い結果になるであろうということを疑わなかった。
グランバル氏の影たる彼が、舞台から降りるとき。
彼には次の舞台が約束された。
王の言葉を伝えるという役目を、彼はどう感じているのだろうか。
少なくとも、僕には内心を推測する以上のことはできない。
その真意を顔に出して測らせるような存在が、主の影には成れるわけがないのだから。
***
「資格なき者は去った。続けよう。」
リアナは淡々と告げた。
ひとつの結論が下され、去ったものの空白が埋まる前に、次の問答は始まる。
リアナは身を硬くするアルフリーダさんへ視線を向けた。
「直答を許す。
夫人よ。其方は何故ここにいるのだ。」
それは、先ほどの問いかけよりもっと純粋な疑問のようであった。
責めるでもなく、疑うでもない。
それはただわからぬものを明らかにしたいというまっすぐな問いであった。
アルフリーダさんは、震える息を整え、しかし迷いのない声で答えた。
「リヴェリナ女王よ。私はこの場に残る責務がございます。」
その答えに、リアナは少し考える素振りを見せる。
「責務……責務か。」
顎に指を添わせ、ひとつ間を置く。
「アルトゥスから事情は聴いている。
其方に負うべき責はないと私は考えるが?」
責めとは引き起こした出来事に対して負うべきもの。
故に、アルフリーダさんという一人の人間が負うべきものはない。
リアナはそう判断した。
だが、それに対して夫人は頭を振って否定する。
「いいえ、息子をこうしてしまった責務があります。」
その言葉に、隣のカドヴィくんが唇を噛む。
それは悔しさというより、情けなさを噛みしめるような表情だった。
彼自身は否定したい言葉を紡ぐことはできない。
それを否定する権利も、恥と思う資格すらないのだから。
「それは違うな、夫人よ。」
否定の声は、別のところから飛んだ。
それは、これから自身の罪を裁く相手。
ほかならぬ、リアナ自身の口から飛び出したものだった。
「子の罪が親の責と其方はいう。この男は幼子か?」
リアナの否定は、カドヴィくんが心の中で叫んだ否定とは違う意味を持っていた。
言葉は同じでも、向いている方向が違う。
カドヴィくんは母に責はないと言いたかった。
だがリアナは、彼はもう子という立場ではないという理を突きつけた。
「……」
アルフリーダさんは言葉を失う。
カドヴィくんは、息を呑んだまま動けない。
「私がそこな子くらいの歳になった頃、私は既に自分の手で王冠を戴いていた。」
トントンと頭上に戴く王たる証を指で叩く。
その仕草は、誇示ではなく事実の提示だった。
「その覚悟を有するのに、相応しい責務も理も理解できた。」
リアナの語る理。
それは、自身は彼の歳で既に自分の考えを持ち、自分の言動に責任が生じることを理解しているということ。
責任を負う年齢とは、という話だった。
彼女には多くの人がいた。
両親や兄弟親族、友人や王家に仕える者たち。
そして、僕。
支えてくれる者も、導く者も、甘えられる者もいた。
たくさんの学ぶ機会があった。
たくさんの――考えを放棄する機会があった。
それでもリアナは自ら選んだのだ。
自分の判断に責任を持つという道を。
「聞けば、両親も兄もおり、領民と距離が近い機会に恵まれていたそうだな。」
感情のないリアナの視線がカドヴィくんに向く。
「己の考えの元、「正義」を掲げて誰かを排除する行動力もある。」
結果はどうあれ――と、リアナは小さく付け加えた。
その一言に、カドヴィくんの肩がわずかに震える。
リアナはカドヴィくんも自身の足で立っている人間と認めるべきだと判断している。
――だからこそ。
「つまり、親の庇護がなくとも自分の判断に責任が持てる歳に達しているということだ。」
その言葉は、アルフリーダさんの母としての責務を否定するものだった。
カドヴィはもう子ではない。
母が共に立つ理由は、そこにはない。
母が残ることは、子離れできぬ親の我儘にすぎない。
リアナはそう断じた。
残る理由は子のためでは成らぬ。
この場に子はいない。
アルフリーダさんはその言葉に思わず顔を伏せてしまう。
だが。
「夫人よ。もう一度問う。
其方は何故ここに残る責務がある?」
リアナはもう一度問いを投げかけた。
それは、アルフリーダさんが顔を伏せる直前、その瞳の奥に一瞬だけ宿った別の熱を見逃さなかったからだ。
悔しさ。
誤魔化し。
隠していた想いと覚悟がちらりと覗く。
思わぬ繰り返しに、アルフリーダさんの顔がすっと上がる。
先ほどは母の顔だった。
ただし、カドヴィくんの母の顔だ。
「……御下問に奉答致したく存じます。」
もう一度顔をあげたときの彼女の表情は、母ではあるが、息子の母の表情ではなかった。
その声音は震えていない。
覚悟が声を、彼女自身を支えていた。
「許す。偽りなく応えよ。」
「……ここに立てぬ……」
王にも怯まぬその顔から、青さが消えていた。
頬には覚悟の熱が宿り、母の強き素顔が露わになる。
「メイキドルアの子らのためです。」
その言葉は、息子のためではなく、領の子らのために立つという宣言だった。
「メイキドルアの子とは?」
リアナの問いに、アルフリーダさんは胸を張って答えた。
「領にいる全ての民のために、母として立ちます。」
その瞬間、彼女はカドヴィの母ではなく、メイキドルアの母になった。
息子の分だけではない。
陰謀を企て、領を乱し、民を不安に晒した者たちをのさばらせてしまったメイキドルアという地に生きる全ての民。
それらまとめて背負う覚悟。
家族にすら隠していた本当の責務を、領主の伴侶として王に申し開いた瞬間だった。
纏う空気が変わり、王の間に風を吹き込む。
今その時、彼女は息子の罪に寄り添うか弱い母ではない。
領の未来を背負う覚悟をした、強き女性として王の前に立ちはだかった。




