第89話 謁見 王の降臨
「僕も立ち会って欲しいと言われたときは、足が竦みました。」
緊張で身体を固くしながらも、シルバナくんは背筋を伸ばしながら扉の前に立つ。
部屋を貸して欲しいと言われてミリアルデ家が用意したのは大広間。
屋敷の中で最も大きく、最も格式のある部屋だ。
だが今、その扉はミリアルデ家のものではなくなっていた。
閉じた扉の向こうから伝わるのは、家人すら寄せつけぬ威風。
見慣れた扉の紋様のはずなのに、知らない圧がある。
それは、扉の前に立つ騎士二人の存在感だろうか。
それとも、扉に掲げられたリヴェリナの紋章の存在だろうか。
どちらにせよ、ミリアルデ家の人間の誰一人として、ここに近づけない。
近寄れない。
騎士が威圧したからではない。
リアナが禁じたわけでもない。
ただ、ならぬと解る。
ここは、ミリアルデの家でありながら世界を隔てている。
自然と、家令も使用人もそれを察していた。
「怖い?」
「鼓動が痛く感じるほどに。」
額に汗を滲ませながら、シルバナくんが声を震わせる。
リアナは言った。
「見届けよ」と。
それは、ミリアルデの代表として立ち会うべしという使命。
それは、知らぬ世界を感じて欲しいというリアナの厚意。
そして、何より。
「リヴェリナの王を見せてやろう。」
リアナはそう言って笑った。
その笑顔に、シルバナくんは呼吸が止まりそうだった。
言葉がそのままの意味ではないことがすぐに分かった。
込められる温度が、鋭さが、迫力が物語る。
これはつまり――プライドの咆哮。
リヴェリナの王たる姿をその目に焼き付けよというある種の恫喝に近い。
だからこそ、シルバナくんは顔を真っ青にしながらも無言の首肯で応えるしかなかった。
「――リアナ様はずっと手加減してくださっていたのですね。」
シルバナくんがてのひらを見つめながら、呟く。
自らの不甲斐なさを嘆くような響きだ。
「そこを含めて、リアナの器なんだ。
あの子はそうやって積み上げてきた。
そうしなければ、王には至れないと信じて進んだリアナの道なだけだよ。」
僕の言葉に、慰めてくださってありがとうございますと力なく返すシルバナくん。
でも、違うんだ。
慰めというよりは、道が違うというのが偽りない本当の言葉なんだ。
リアナの生き方は、リアナしかできない。
「その怯えや震えは恥ではない。」
ただの慰めではないんだ。
「それでも不甲斐なかったら、明日から誇れる自分の姿を目指せばいいから。」
「……はい。」
その返事は弱々しい。
まだ、力はない。
それでもいい。
今は、肯定してくれればそれでいい。
確かに前へ進もうとする意志が生まれてくれればいいんだ。
シルバナくんが深い深呼吸をしたのを確認してからぽつりと告げる。
「飲まれないでね。」
「え?」
それが僕からシルバナくんへ贈る、これからの出来事を乗り切る最後の助言だった。
怯えてもいい。
震えてもいい。
居たたまれない気持ちになってもいい。
でも、見届けるべきだと思った。
今日、シルバナくんは王国を知る。
その経験は、必ず彼をもっと成長させてくれるだろうから。
騎士に手を挙げる。
それを合図に扉が開く。
乾いた空気に、草原のような香りが混じった空気が乗せられている。
爽やかで僕には懐かしい風が、横を駆け抜けた。
きらびやかな光が溢れる。
白銀と鋼鉄の双璧が光を照り返す、冷たく澄んだ光。
赤と金の旗が揺れ、床には深紅の絨毯がまっすぐに伸び、壁には見慣れぬ幕が飾られている。
ミリアルデ家の一室ではない。
ここは、異国の王の間だ。
空気が違う。
温度が違う。
重力すら違うように感じる。
シルバナくんが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
大広間は確かにミリアルデ家のものだ。
だが、そこを支配するのがミリアルデではない。
世界を塗り替える圧倒的な威がこの場を支配していた。
王はまだ姿を見せていない。
それなのにここはすでに「リヴェリナ」だった。
その異様な空間の中心、白銀と鋼鉄の双璧に挟まれて立たされている者たちがいる。
全てを受け入れたように静かに佇むはアーシェスタス筆頭「グランバル」。
隣に顔を青くしながらもその場に自分の足で立つ勇気を選び、毅然と前を向くアーシェスタスの母「アルフリーダ」。
そして……。緊張感は感じられるものの、あの時と比べればどこかに落ち着きと迷いが薄れた「カドヴィ」。
彼の瞳には、覚悟の灯のような光が宿っていた。
念のため、腹の温度を視る。
鼓動は激しく、腹の底は熱い。
しかし、四肢の末端までに熱は宿り、唇は震えていない。
この状況に面食らってはいるものの、入ってきた僕を一瞥しつつも、恨みや戸惑いは感じず、直ぐに前に向き直っていた。
この様子ならば、死なばもろともという最悪の覚悟をしている可能性は限りなく低い。
熱く滾りはしているものの、それは自暴自棄の捨て身さとは違う。
ただ逃げず、立つための覚悟がなされている。
馬鹿な真似を考えている気配がないことに、僕はひとまず安堵した。
彼らは一切拘束されていない。
服装もみすぼらしくなく、仕立てもきちんと整えられている。
そう、名目上彼らは囚われの身であるというのにだ。
なのに、動けない。
抵抗する気すら起きない。
理由は単純だ。
ここに立つだけで、足枷は形を成す。
双璧たる白銀と鋼鉄の騎士たちは、厳格な規律で統率されていた。
その顔には感情の色がない。
狼藉に怒りも、命乞いへの同情も持たない。
ただ、行動を起こせば対を成す。
例え、結果として鮮血が王の間を穢すことになっても。
騎士たちは心を動かされることがない。
全てはリアナのために。
近衛はそのためにある。
だからこそ、拘束などいらない。
ただその場にあればいい。
それが何よりも重い足枷となるから。
慢心ではなく事実。
それを示すは全身から漲るアイズの励起。
それが闘気として空間を満たし、証明する。
ひとりひとりが熟達の術師であり、騎士である。
彼女たちにとって、罪人を拘束するために道具に頼ることこそが恥。
だから、拘束具はない。
縄も鎖もない。
必要ない。
「アルトゥス様。」
双璧から騎士のひとりが進み出る。
聞き覚えのある声。
ルッテだ。
彼女は無駄のない所作で僕の前に立ち、玉座の隣へと先導する。
「アルトゥス様――」
その一方で、ほかの騎士に導かれ、別の場所に案内されそうになるシルバナくん。
縋るような声と、怯えで瞳が揺れ……るが、すぐにぐっと恐怖を飲みこむように歯を食いしばった。
そう、それでいい。
今は耐えるという形でいい。
ただ、ありのままを感じてくれればいい。
言葉はさっき贈った。
僕は無言でただ頷くだけ。
彼は、僕の顔を一度見つめかえした後、ぎこちないながらも堂々とした歩みで騎士に続く。
少し離れた場所に、椅子が用意されている。
代理当主とはいえ、本来の家の代表が大広間の端に追いやられるようにもみえるが、今はしかたない。
今ここは、違う国なのだから。
僕も気持ちを切り替える。
僕も今は、リヴェリナ特使ではない。
アルトゥス=ヴァイツェというリヴェリナ国民のひとりとして。
麦の賢者として、ただ王の傍に立つ。
コツ、コツと広間に靴音が響く。
立ち尽くす3人の横をすりぬけ、まっすぐ玉座へと進む。
ルッテに導かれるまま、玉座の右に立つ。
僕がそこに立つと、反対側にエフィリス王室近衛騎士団長が、鏡写しのように立つ。
左右に並ぶのは、王を支える二本の柱。
そして、時がくる。
「リヴェリナ王国が唯一無二たる偉大なる王!」
エフィの凛とした声が静謐に支配された大広間に響く。
その声は、空気を震わせ、場の全てを王のための支配の間へと姿を変える。
「ラセルエア=リアナ=リヴェリアス陛下のお成りである!」
宣言が落ちた瞬間。
空気が、世界が、重力が。
王のために形を変えた。
僕を含めた全ての人々が頭を垂れ、王の到着を待つ。
――コツ、コツ、コツ
背後から靴音が鳴った。
しんと静まり返った空間に響くその音は、まるで空気そのものを震わせるようだ。
その場を支配する緊張感に合わせて、耳が痛くなるほど明瞭に届く。
リアナが玉座の前で歩みを止める。
エフィが、一度だけトン、と軽く剣の柄で床を叩いた。
その瞬間、一糸乱れぬ動作で、白銀と鋼鉄を纏った双璧の騎士たちが剣を掲げた。
刃が光を受けて一斉に煌めき、その光はまるで王の到来を祝福するかのようだった。
彼女たちは声を発さない。
ただ、その所作だけで臣下としての忠誠のすべてをリアナに捧げていた。
「よい。楽にせよ。」
鈴より確かで、小鳥のように愛らしく、しかし意志の籠った声が響く。
この響く声こそ、リアナの声だ。
その一言で、騎士たちは剣を下ろした。
まるで世界が息をついたように、空気がわずかに緩む。
「国民よ。客人よ。」
リアナは声の表情を変えずに続けた。
「許す。面をあげよ。」
その言葉は、王がこの場を完全に掌握したという宣言だった。
許しの言葉でありながら、逃れようのない支配の響きでその場を満たす。
僕はゆっくりと顔を上げる。
リアナはいつもと違い、薄いヴェールで顔を覆っていた。
若い麦のような青緑の髪は、照明の術具の光を受けてなお、白く輝きを返す神秘的な芽吹きの青。
それは生命の始まりと躍動を思わせる色彩。
ヴェール越しにちらりと見える結ばれた口元は神像のように凛とし、その立ち姿だけで王威が溢れ出す。
無駄のない、鍛え抜かれた身体。
常に励起を絶やさぬ術師としての確かな気配が、少しだけ覗く肌の下で静かに脈打っている。
術を知らぬものは、それを王たる存在感と称えるであろう。
術を知る者は、その緻密で幾重にも紡がれたアイズの鎧に舌を巻くであろう。
それでもなお、女と侮り、軽視するものは……
身をもって思い知ることになるであろう。
「余が、唯一無二の大国リヴェリナの王。」
その声が落ちた瞬間、目にした三人――グランバル、アルフリーダ、カドヴィ――の表情が固まった。
初めてミリアルデ家にて示したときの、王を匂わせながらも立場を気にしないでよいと語ったときの優しさや思いやりはない。
自分はここにいる。
その意味を、理解できるかと問うような存在感。
言葉より雄弁で、確かな説得力を持つ王の姿。
その圧に、彼らはただ心を奪われていた。
「ラセルエア=リアナ=リヴェリアスである。」
初めにその身分を隠してアリヴィエの地に降り立った王は。
確かにそう、名を告げた。




