第67話 実利と栄誉を天秤に乗せて
「ヴァルエルナで麦酒醸造所を、ね。」
「ええ、できれば先んじてヴァルエルナでリヴェリナ式の『下面発酵麦酒』を造りたいのです。」
ミリアルデ家に到着した初日の夜。
食事を終え、今回の件で迷惑をかけたことへのお礼を申し出たところ、
「二人で話したいことがある」と言われ、密談の場が設けられた。
そこで切り出されたのが、この醸造所の話だった。
希望自体はシンプルだ。
だが、内容はなかなかに重い。
確かに、初対面のときに下面発酵麦酒を振る舞ったし、将来的にヴァルエルナでも醸造所を建てたいという相談は受けていた。
だが、「メイキドルアより先に建てたい」となると話は別だ。
これは僕の独断で決めていい範囲を少し超えている。
だからこそ、意図を確認する必要があった。
「今、僕がメイキドルアで荒野の農地化を進めている理由は分かっているよね?
それを踏まえて、ヴァルエルナで先に醸造所を建てたいという意味だと受け取っていいのかな?」
少し試すように問いかけると、トルマド殿はいつもの人懐っこい表情をスッとひっこめた。
何とも真剣な顔で腕を組み、慎重に言葉を選んだ。
「……簡単に言えば、メイキドルアに貸しを作れたこと。
そして、その貸しは時間の経過とともに価値が下がっていく、ということです。」
「……続けて。」
「正直なところ、メイキドルア領の件はアリヴィエ全体の問題ではありません。
アーシェスタス家、そしてメイキドルアの名に残った古傷が開いたに過ぎない。
もちろん、古傷を開いた者が別にいることは承知しています。
ですが現実として、アーシェスタス家はアリヴィエ海邦に迷惑をかけた、という見方ができる。」
そこでトルマド殿は、わずかに身を乗り出した。
「そんな中、ヴァルエルナは『リヴェリナ特使』を保護し、さらに以前からの友好関係によって、アリヴィエとリヴェリナの懸け橋になっている。
この状況を、できれば最大限生かしたい。
そう考えたのです。」
ふむ、なるほど。
これは別に荒唐無稽でも、無理筋でもない。
むしろ、政治的に非常に筋が通っている。
僕はリヴェリナ特使としてミリアルデ家から全面的な協力を得られている。
アリヴィエ首脳部も僕との関係は良好だ。
それに対して、メイキドルアでは内紛が勃発していて、その陰謀に僕は巻き込まれていた。
結果として、僕はその解決に協力したわけだが、当然ながらこれは特使の仕事ではない。
ヴァルエルナ、及びアリヴィエ政府から見れば、メイキドルアがリヴェリナ特使を巻き込んでいるというのは印象が悪いだろう。
そして、その印象の悪さとは、当然僕の心象にも及ぶ。
あ、これは僕という『個人』じゃないよ。
『特使アルトゥス』の心象だよ。
僕は、そのあたりの公私をしっかりわけている。
リヴェリナに利益をもたらすためにもね。
メイキドルアはその『特使アルトゥス』を、既に友好関係を結んでいたヴァルエルナに預けてその心象の改善を図ったと見られてもしかたない。
これはつまり、メイキドルアはヴァルエルナに対して借りを作った。
そういう構図だ。
「もちろん、メイキドルアは今まで率先して国難とその解決のために、身銭を切り、領地での開墾という事業を進めていました。
そのため、アルトゥス様の事業が成功した折には、領内に醸造所を造りたいということ。
そして、アリヴィエでの醸造所1号になりたいと考えていたでしょう。
なにより、その権利を実質的に政府から了承を得ていたはずです。」
「でも、今回の件で迷惑をかけていることは事実だから、その補填として国内醸造所の独占権利を得たいと?」
「いえ、アリヴィエ国の大規模醸造所の権利はメイキドルアのままで。」
おや、どういうことかな。
てっきり、ここで醸造所の独占権を要求するのかと思っていた。
だが、トルマド殿は静かに首を振る。
「私が欲しいのは、最新の『アルトゥス式麦酒醸造所』の設計思想と醸造技術です。」
「……あー。なるほど。つまり……」
僕は身を乗り出して、トルマド殿に耳打ちするように聞いた。
「アリヴィエ国内で最適化された醸造所のフォーマットを作って、それを育てあげたという実績と売る権利が欲しいってことだね?」
少し悪い顔をしてそう言うと、トルマド殿は口端をわずかに上げた。
「流石ですな。
ええ、ヴァルエルナにもトゥガナトに面した森があります。
さらに、水も大河シルヴァリスの支流、エゥルーナがあります。
スタートアップとしては資源も環境も整っている。
メイキドルアより優等生ではありませんか?」
いやはや、トルマド殿は抜け目ないな。
どういうことかと言うと、彼が欲しいのはアリヴィエの麦酒文化の主導権だ。
大規模醸造所の名誉はメイキドルアに譲る。
だが、技術・設計思想・最適化フォーマット・ブランド。
これら未来の価値はヴァルエルナが握る。
つまり――「アリヴィエの麦酒の礎はヴァルエルナにあり」という歴史と実績を先に押さえる。
そのための研究施設という名目を得たいということか。
メイキドルアでは、農地開墾が終わり作物が安定して収穫できるようになってから、ようやく醸造所を建てることになるだろう。
だがトルマド殿の狙いは、その本番の前にヴァルエルナで研究施設という名目の醸造所を建て、そこで先にノウハウを蓄積してしまうこと。
これは非常に賢い選択といえる。
何故なら、麦酒造りというのは原材料があれば出来上がり、なんて簡単なものじゃないんだ。
最も重要なのは、アリヴィエの気候変動への適応、土地に合う酵母の探索、水質と麦質の最適な組み合わせといった現地環境に合わせた最適化の部分だからだ。
そしてこれらは、農地開墾プロジェクトの外側でも検証できる。
これは国にとっても利益が大きい。
というのも、農地開墾の最中に「酒造り」を始めるのは、どうにも外聞が悪い。
今回のプロジェクトはあくまで「食料確保」が名目だ。
そんな中でアリヴィエ国内に大々的な醸造所を建てれば、リヴェリナから見ればこう思われるだろう。
「食料支援のための特使を派遣したのに、酒造りを始めるとはどういうことだ?」
うん、こう非難されても仕方がないね。
しかし、プロジェクト外でならどうだろうか?
麦酒醸造を研究するのはアリヴィエの自由だ。
ただ、特使である僕にそれを要求するわけにはいかない。
表向き、僕は「農地開墾の知見を持つ者」として派遣されているのだから。
だが、ここでトルマド殿は巧妙に切り替えた。
『麦の賢者アルトゥス』に協力を依頼しただけ。
私人アルトゥス=ヴァイツェという醸造家に、だ。
とんでもない屁理屈と言えば屁理屈だが、政治とは往々にしてこういうものだ。
もちろん、メイキドルア側から見れば、これはあまり愉快な話ではない。
彼らが農地開墾を進めているのは、そこに大きな利益があるからだ。
領内の雇用を活性化させたり、将来的な食糧庫としての存在感を強めたり。
当然ながら麦酒を醸造して名産品を造りたいという思惑もあっただろう。
これらを狙っていたのに、研究段階の美味しいところをヴァルエルナに持っていかれるように見える。
不満が出ても当然だし、そもそも許可させないよう動くだろう。
だが、今回メイキドルアはヴァルエルナに対して仲介という迷惑をかけている。
その上で、トルマド殿はあくまで国内醸造所の1号や大量生産施設の権利は求めない方向で着地点を探っている。
これら名誉と実利の大部分はメイキドルアに残したまま、ヴァルエルナには研究施設と小規模醸造所だけを求める。
これは、多分グランバル氏でも断れない。
そもそも足元を狙われていたことに気づいた上で、僕のことを利用して一気に領内をまとめようと画策していたのだ。
ヴァルエルナ、アリヴィエ政府に迷惑をかけるのも承知の上だっただろう。
「……ん?ってことはさ……」
「はは、流石の察しの早さですな、賢者殿。
もちろん、あの狸はそれを最初から差し出すつもりでいたんでしょうな。
醸造所の1号の権利を。」
ああ、ありえる。
いや違うな。
そのくらいの腹積もりじゃないと、こんな大事に巻き込まない。
アリヴィエ政府には帝国の干渉を仲介するムッセタリアの不祥事の証拠を手土産に。
ヴァルエルナに対しては醸造所を差し出すことで、借りを帳消しにする。
そう考えると、今回の騒動での実害は驚くほど小さくなる。
もちろん、醸造所は欲しいだろう。
でも、多分グランバル氏はそれよりもメイキドルアをアリヴィエの食糧庫にすることのほうが大事だと考えている。
なんなら、麦酒の原材料であるアリヴィエの麦の名産地として名を上げるほうが、「アリヴィエ一号醸造所」という名誉よりも実利が高いと見ているんだろう。
何より、それを礼といって惜しげもなく差し出すことで、国に対する忠を重視したという名声が残り、お家騒動での不名誉もかすむだろう。
つくづく、いやらしい政治家っぷりだ。まったく、感心するよ。
「と、そんな前提があってあの狸の意のままというのが気に入らなくなったのです。」
そう言って、トルマド殿が頬を掻いて苦笑いをする。
「ああ、そういうこと。
だから、『醸造研究』の許可という特権だけ手元に残しつつ、大々的には醸造しない、小規模の醸造所を建てたいってことか。」
「そういうことです。
あくまでアリヴィエでの醸造に関してはヴァルエルナが先行しているという実績が欲しいのです。
商品を大量生産したり、アリヴィエ全土に普及させる役目は――
あのジジイにやってもらいましょう。」
ふむ、なるほど。
ヴァルエルナは、アリヴィエ国内初の大規模醸造所という名誉を捨て、その代わりに『ヴァルエルナ麦酒』というブランドを育てる道を選んだ。
自領の作物だけを使い、自領の水と酵母で仕込み、『ヴァルエルナ麦酒』という名を冠した、土地の物語を持つ酒を作る。
大量生産の名誉はメイキドルアに譲る。
だが、文化と技術とブランドの主導権はヴァルエルナが握る。
実に、したたかで、美しい戦略だ。
きっと、あの古狸が一番手元に残したかったもの。
その大事なものだけを貰って幕引きとしようってことか。
なんとも謙虚で、なんとも抜け目のない。
大国に隣接した領土という難しい土地を治める、ヴァルエルナらしい要求だ。




