2章第18話 命を拾った者
朝の柔らかな光が、わずかながら窓から差し込み、室内を静かに包んでいた。ソラは麻酔の効果から覚め、重いまぶたをゆっくりと開けた。
ソラは腹をさすってみた。
痛みはない。どうやら手術はすでに終わっているようだ。
「ふぁー、起きたのね」
あくびをしているアビゲイルの顔が見えた。彼女はデスクの前に座って作業をしている。ソラが起きていることに気付いた彼女は椅子から立ち上がり、ソラの元に歩いてきた。
「縫合は問題なく終わったよ」
そう言いながら、注射器とカプセル錠剤をオーバーテーブルの上に置いた。
「はい、これ。複合薬剤と栄養カプセルよ。栄養カプセルは朝昼晩に1回3錠摂取すること」
ソラは彼女の説明に嫌な予感を感じた。
「栄養カプセル? もしかして、しばらくご飯食べちゃダメってことか?」
「そ、縫ったとはいえお腹に負担はかけたくないからね」
食事の楽しみが消えたことにしょんぼりしてしまう。ソラはカプセルを口に放り込み、飲み込む。無味無臭なそれは食事した気にしてくれない。
まあ、これで動けるんなら安いもんだろう。そう言い聞かせることにした。
ソラはため息をつきながら複合薬剤を注射した。注射器の側面に付いたタイマーが動き始めた。これが0になる前に再使用する必要があるらしい。
そうこうしていると廊下から足音が聞こえてきたことに気付いた。その音は次第に大きくなり、やがて病室の扉が軋むように開いた。ソラが視線を向けると、そこにはウミがいた。
「……ソラ? 目を覚ましたの!」
ウミは一瞬、立ちすくんだ後、ぱぁと明るい表情が咲いた。
「ああ、そこの名医のおかげで、もうバッチリだよ」
ソラとウミの視線が同時にアビゲイルに向けられる。
ソラの“約束覚えているよな”という視線とウミの“彼は本当に大丈夫なのか”という視線に挟まれた彼女は
「まあ、治療は問題なく終わったわ。経過観察は必要だけど動けはするわ」
と少し濁しつつ答えを返した。
「そう? ならいいんだけど……でも本当に大丈夫?」
「ああ、彼女はプロだね。ほらこの通り、元気さ」
ソラは心配させまいと座ったまま軽くストレッチしてみせた。昨日までの腹部の痛みはなく、アビゲイルの手術は完璧らしい。
ソラの頭にふと疑問を抱いた。
「そういや、僕って誰にここまで運ばれてきたんだ?」
意識を取り戻した直後はそんなこと考える余裕がなかった。今、周囲を見渡す中で、彼はふとその疑念にとらわれた。ウミが運んできたとは考えにくい。彼女は侵蝕耐性があまり高くないし、戦闘力に至っては皆無だ。もし、侵蝕区域に飛び込んで怪物に襲われればひとたまりもない。かといってルインズに遭遇しないように慎重に動けば、身体が侵蝕に耐えられない。かと言ってこの辺りに知り合いもいない。侵蝕区域に入り、瀕死のソラを拾い、アビゲイルの元へ連れていった人間とは誰なのだろうか。
その答えは意外とすぐにわかった。
「……それはあたしよ」
と聞き覚えのある女性の声。声の主に視線を向けると、そこには銀髪ロングヘアで透き通った水晶のような瞳を持つ女性が立っていた。
「ティナか?」
ソラは彼女の名前を呼ぶ。声の主は水色のトップスに大きめの革ジャン、灰色のプリーツ付きミニスカートといういつもの格好をしたティナだった。言われてみれば彼女はグリッド129、研究所のあるグリッド130に居た。近くにいる唯一の知り合いだったわけだ。
「ティナに感謝することだね。この子がいなけりゃ、あんたは死んでたんだから」
とアビゲイル。
「一体何があったんだ?」
ソラの記憶は研究所の外に放り投げられたところで途切れている。痛みと寒さ、それから暗闇。気がついたときには、すでにここに運ばれていた。
だからこそ、何があったか気になって仕方ない。
「それはね——」
ティナは指先で銀の毛先を弾き、過去の扉を開いた。
ティナとウミの話によって、3日前の出来事が蘇る。
「ソラ! 返事して! ソラ!」
ウミが倒れた彼の名前を叫ぶ。ホークと言うコードネームを使わねばという意識すら今の彼女には無い。彼女の言葉に対しての返事は来ず、帰ってくるのは危険域を彷徨うバイタルデータだけ。このデータがかろうじて彼の命が繋がっている事を知らせてくれるが、このままではそのデータすら得られなくなる。
どうにかしないと、でもどうやって?
ウミは荒い息を整えながら、必死に考えていた。
うちが助けに……うちには無理だ。
自分の非力さはウミ自身が理解していた。ソラはハヤブサから戦闘に関する特訓を受けていたが、ウミはからっきしだ。無力な自分に涙が出てくる。でも、他の方法を考えなければ。
救助を呼ぶ?……うちらは仕立て屋だから正規の救助は使えない。……かといってこの辺りのフィクサーやラヴェジャーにも詳しくない。助けを呼べたとしてもその頃には時間切れだろう。加えて、ソラが意識を失っているので、模擬侵蝕区域の補正データが欠損し、どんどん正確性を失っている。時間をかければかけるだけソラを助けられる可能性が失われる。その事実がさらにウミを焦らせた。
もう誰も失いたくないのに……。うちはソラに……。
その時、ウミに舞い降りる天啓の如き、ひらめき。ハッとしたように慌ててウォッチアイを操作して、唯一、頼れるかもしれない存在“ティナ”を選択した。
呼び出し音が鳴る。永遠のように感じた数秒の後、通話が繋がった。
『もしもし? なんかあったの?』
「ティナ、ソラが! すぐ来て——」
ウミが被せるように捲し立てる。ティナは何が何だかわからないといった様子で
『は? 空? ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ!』
と返す。ウミは言葉を止めて、深呼吸で一度落ち着こうとする。
「ごめん、ホークが敵にやられて今すぐ助けが必要なの」
ウミは早口に要点を述べた。
それを聞いたティナはなんとなく急を要する事態であることを理解した。
『今から行くから場所を送って!』
通話の奥から慌ただしく動く音が聞こえてきた。
ウミは急いで位置情報をティナに送った。
『この距離なら、10分で着いてみせる。……イーグルはそれまでに経路計画を作って』
「わ、わかった」
ウミは崩れつつある模擬侵蝕区域と観測データから安全にソラの元へと辿り着ける経路計画の作成にとりかかった。




