2章第16話 現実への帰還
意識が現実へ帰ってくる。けれど、それは目覚めというより、暗闇の底からゆっくりと浮上するような感覚だった。
全身が鉛のように重く、ひどく寒い。喉は乾ききっていて、息をするたびに鈍い痛みが腹部に広がる。
自分が寝かされているのはベッドの上……病院か? いや、どこか違う。
天井の照明はくすんだ黄みを帯び、壁の塗装は所々剥げている。医療機器は揃っているが、ラベルが禿げていたりと新品ではなさそうだ。消毒の匂いに混じって、古い金属とオイルの匂いが漂う。正規の病院というより、廃施設を改造したような……そんな場所だった。
「目が覚めたかい?」
聞いたことのない女性の声。
ソラは視線を巡らせ、声の主を探す。白衣を着たピンク髪の女性が椅子に腰かけ、タブレットを操作していた。
「あんたは?」
乾いた喉から掠れた声が絞り出された。
「アビゲイルよ。まあ、ここの主と思ってくれて構わないわ」
女医はタブレットから目を離し、おさげを揺らしてこちらに近付いてきた。
ソラは身体を起こそうとする。
「今は動かない方がいいよ。ひどい傷だったからね」
ソラは腹に手を当てた。血は出ていないが、鈍い痛みが傷の存在を知らせてくる。
「どうにか縫合して、人工血液を輸血したから今は大丈夫だけど下手に動くとまた開くよ」
そう言って、アビゲイルは腕を組んだ。
「そうだ、ウミ……僕が運び込まれた時、女の子がついてきてなかったか?」
「ウミ? イーグルって子なら、無理矢理帰らせたけど……」
しまった。
ソラは起きたばかりのせいか、今は仕事の名前を使わなければならないことを失念していた。傷のせいか頭がぼんやりしてる。
「あー、その子で合ってる。イーグルはよく海の話をするから……」
ソラは適当な言葉で誤魔化してみた。
どうやら、適当にひねり出した言い訳に、アビゲイルは特に疑問を持たなかったようだ。
「あの子、君のことがよっぽど大切なのね。ほとんどずっとここにいたわよ、目が覚めるまでずっといそうな勢いだったわ」
アビゲイルは肩をすくめる。彼女は心電図やらなんやらの端末に目を通し始めた。
ソラは窓の外へ視線を向ける。そこにあるのは漆黒でほとんど光が入ってきていない。
傷の痛みか、時間の経過か、意識の霧が晴れ、はっきりしてくる。徐々に思考が動き始める。ぼんやりしていた記憶が次第に輪郭を取り戻し、倒れる前の出来事が浮かび上がってきた。
人体実験の研究所、被験体との戦闘、腹を貫かれて……エマを奪われた。
まさかエマが被験体だったとは。戦いに慣れていたのも、研究所で見せたあの様子も今なら納得できる。ただ彼女は自分が334である事を否定し、その記憶に苦しめられていた。まるで実験記録を見た瞬間、記憶が突然、産まれたかのように……。単に忘れていたのか……いやそんなことはないはず……。
「……くそっ」
傷のせいか上手く考えがまとまらない。ソラは髪の毛をかきむしり苛立ちを表に出す。
とにかく、彼女の出自を知っていればこの依頼に巻き込むなんてことはしなかった。だから、今はっきりとしているのは
——エマを助ける。
エマがどんな過去を持っていようと、それを知ったからといって見捨てる理由にはならない。……それにまた、実力不足で親しい人を失うのはごめんだ。
ソラは首を動かし周りを見る。無機質な部屋に乱雑に置かれた治療器具、いくつかの簡素なベッドがあるが他に患者はいない。
「アビゲイルさん、1つ頼みがある」
ソラが口を開くと、アビゲイルは端末の操作をやめて彼の方を向いた。
「アビーでいいよ、それで? 頼みは何?……まあ十中八九、ろくでもない話なんでしょうけど」
アビゲイルはジト目をソラに向けた。その目はこちらを見透かしているというより、何を言ってくるか予想した上で呆れているようだった。
「どうにかしてすぐ動けるようにできないか?」
その言葉を聞いたアビゲイルはため息を1つ吐き、
「だと思った。……どーして、侵蝕区域に関わる奴は命拾いしたのに自分から捨てにいくのかしら」
と半ば呆れ、半ば慣れた様子で言った。




