2章第4話 月下の影
プールを100%楽しみきった、ソラたちは他の施設も見て回ることにした。
植物園では色鮮やかな花々に圧倒され、しばし異世界に迷い込んだかのような感覚を味わった。レストランでは豪華なコース料理を堪能し、普段では味わえない贅沢なひとときを過ごした。そして、全部で3つあるという温泉のうち、高層階にある露天風呂に立ち寄り、湯気が漂う静かな空間で体を休めた。
こうして、彼らはホテルの豊富な施設を堪能し、気づけば外はすっかり夜になっていた。
ソラとウミは部屋に戻って、窓からの景色を楽しむ。高層階から見る夜の都市の煌めきは今まで見てきたどの夜景よりも圧倒的にだった。
「いやー、楽しかったー」
ウミは伸びをしながら満足そうに呟いた。
「プールは広かったし、植物園も凄かったね! 料理もとんでもなく美味しかったし、温泉もよかったな〜。……あっ、温泉といえばね、エマさん、温泉入る時もチョーカーを外さなかったの。外さないのって聞いたらなんて答えたと思う?」
「外すの忘れてたとか?」
「いつも付けたままだからこれでいいんだって」
「へぇ、エマにとってあのチョーカーは大事なものなのかな」
とソラは言葉を返した。
そのまま、ソラとウミが会話を続けるうちに、夜は静かに更けていった。やがて、ウミはあくびを一つしてベッドに横たわり、ほどなくして穏やかな寝息を立て始めた。ソラはその様子を眺めながら少しだけ微笑んでから、静かに立ち上がり部屋を出た。廊下を歩き、彼は温泉へと向かった。深夜の館内は昼間の喧騒とは一変し、静寂に包まれている。まずは中層階にある柔らかな灯りが揺れる温泉へ足を踏み入れた。静かな湯気が漂い、心地よい湯の香りが立ち込めていた。
ソラは湯にゆっくりと身を沈め、温かな水が疲れをほぐしてくれるのを感じる。数分の間、温泉を楽しんだソラはこのリゾートの1階にある大浴場を目指して歩いた。
普段はシャワーで済ませるため、滅多に入れない湯船を堪能したかったのだ。
湯から上がり、休憩スペースに腰掛けていると、静かな足音が近づくのが聞こえた。そちらに視線を動かすとエマがゆっくりとこちらに向かって歩いてきているのが見えた。
「なんだ、エマも起きてたのか」
とソラが声をかける。
「私はあんまり眠らないでいいから……時間が余ってて、開いてる施設を見て回ってたの。そういうソラは?」
「僕は温泉の入り溜めをね。いつもはシャワーだから入れるうちに入っとかないと」
ソラは小さく微笑む。
「ここ、すごく豪華だね。なんて言うか現実じゃないみたい」
エマが噛み締めるように呟く。ソラはそうだなと同意して頷く。ふと、エマは本当に楽しめていたのか、無理矢理付き合わせているのではないかと不安になった。
「……エマは楽しめたか?」
「うん、こう言う経験は初めてだけど悪くなかった」
とエマは素直に答えた。その言葉にソラはほっとした。急にエマの顔が険しくなった。
「……今の悲鳴?」
エマが小さく呟き、周囲に意識を集中させる。ソラは彼女の言葉が聞き取れず尋ね変えそうとする。しかし、言葉が口から出るよりも先にエマは走り出していた。
「ちょっ、どうしたんだ」
ソラは慌てて声を出すも、エマには届かない。彼女の後を追って、リゾート施設の外に出る。やがてエマが足を止める。そこは観光都市の一角、周りのビルやホログラム装置のおかげで、月の存在感をかき消すほどの明かりが溢れているが人通りは少ない道沿いだった。そこには、一人のOLらしきスーツ姿の女性が恐怖に震えながら、不審者に絡まれている姿があった。OLは転けたのか地面に座り込んでおり、不審者の男から逃れる術を失っている様子だ。
男は、くたびれて破れた服をまとい、髪は乱れ、顔には疲労と焦燥が刻まれていた。口元がかすかに動いて何かを言っているが、声はか細く、途切れ途切れにしか聞こえない。
「……を……す……がくる」
不審者の発した不安定な言葉、その内容はよく分からず、ただ低くうめくような声だけが耳に残る。
ソラは乱れた息を整えながらOLと不審者の間に割り込むように立つ。エマにどう動くつもりか尋ねようと口を開く。エマは一切息を乱した様子を見せずに不審者に飛びかかった。
素早く距離を詰め、不審者の懐に鋭い拳を繰り出す。男はフラつくことなくエマの攻撃をかわし、反撃の蹴りを返してくる。エマはそれをスレスレで避け、鋭い視線で相手を見定めた。互いに繰り出した拳を防御し、反撃の拳を繰り出す応酬。エマは相手を切り崩すために攻撃のペースを上げる。男は押し込まれるように後退するが、その身のこなしは異常なほど研ぎ澄まされており、ガードを崩すには至らない。不審者の反撃がエマのすぐ横を掠める。彼の目には異様な光が宿り、何かに駆り立てられているかのように追撃を繰り出す。
攻守の主導者が入れ替わった。体格差があるとはいえ、あのエマと互角に渡り合い、攻めの主導権を奪えるとはあの男は相当に強い。
エマは攻撃を回避と防御を織り交ぜながら攻めるタイミングを探る。不審者の拳がエマの顔すれすれを掠める。
「……ここだ!」
エマは小さく呟き、すかさずエマはカウンターの肘打ちを腹部に叩き込む。相手の動きが鈍った瞬間を逃さず、懐に潜り込む。そして、そのまま勢いに乗せて腕を極め、男の巨体を背負い投げの体勢に持ち込む。エマが力強く体をひねると、不審者は地面に向かって一直線に投げ飛ばされ、重々しく地面に叩きつけられた。男はうめき声を上げて転がり、うつ伏せになる。そのままエマは相手の背に膝を置き、後頭部に拳を入れる。不審者は意識を失い、動かなくなる。
「……?」
エマは不審者をじっと見つめたまま固まっている。
「エマ? どうした?」
一瞬の沈黙。
「……いや、なんでもない」
エマはそう答えた。ソラは彼女のその態度に不思議さを感じつつも、すぐに気を取り直し、
「とにかく、ここを離れよう。警察が来たら面倒だ」
と促した。エマは少し呆けた様子で頷く。
ソラとエマがその場を離れようとした瞬間、背後から女性の声が追いかけてきた。
「本当に助かりました、何か、何かお礼をさせてください」
不審者に襲われていたOLが声をかけてきた。だが、警察に事情聴取なんてされようものなら、かなりの時間が取られる。それだけでなく、仕立て屋であることがバレれば厄介・面倒なんて言葉では済まなくなる。
「無事でよかったです。お礼は……そうだな、僕らが助けたことをなるべく伏せておいてもらえるとありがたいです」
OLは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに理解したのか、黙って頷いた。
「……分かりました。本当にありがとうございました」
女性は去ってくる2人に深く頭を下げる。ソラは終始無言のままのエマの手を引いてソルティス・リゾートに戻り、部屋の前まで付き添った。その後、ソラも部屋に戻ってベットに身体を沈めた。疲れていたのか何かを考える間もなくソラは眠りについた。




