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その場所で貴方を待つ  作者: 水無月とおる
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変わる試衛館



 それからしばしの間平穏な日々が続いた。

 だが一方で勝太はせわしなく動くことが多くなった


 しょっちゅう周助の部屋の呼び出されている。




 そのことをアヤメが宗次郎に話すと宗次郎は少し考えて


「もしかしたら正式に近藤家に入るのかも。」

「正式に?」

「若先生は正式には近藤家の人間じゃないんだ。まだ前の家での名前の勝太を名乗っているだろう?でも近藤家は武家だから武士になるなら正式襲名しないとだめなんだ。」

「そう、なんだ…。」

「だから、もうそろそろ襲名しようって話をしてるんじゃない?」

「襲名したら、名前を変えるの?」

「うーん、変えるんじゃない?」


 その言葉にアヤメは少しひるんだような態度を見せた。しかしすぐに持ち直し


「そっか。」


 と一言呟いた。

 その様子をみて宗次郎は正直うろたえた。アヤメは普段から自分の本音をあまり口にはしない。だから口調のわずかな浮き沈みで彼女の微妙な気持ちを判断しなければならなかった。長い付き合いの宗次郎も気を付けなければわからないささやかな動きだ。気分の変動を察することができても、彼女が何を考えているかはわからない。

 だが前後の会話から察することができないわけではない。


「アヤメ、大丈夫だよ。若先生が襲名したからってアヤメがなにかしないといけないわけではない。」

「…。」


 アヤメはそれには返事はしなかった。ただわずかに目を伏せ口元に柔らかな笑みを浮かべただけだった。


 宗次郎にはこの様子の彼女に何かできるか見当もつかない。きっと敬助ならば、アヤメをうまく慰めることもできるのだろう…。そう思うと、宗次郎の胸はちくり痛んだ。



「おや二人してどうしたんだい?」


 そんな二人の後ろから穏やかな声がかけられた。


「源さん!」

「源兄。」


 源三郎が二人をのぞきこむように立っていたのだ。


「ずいぶん空気が重たいじゃないか。若いのに陰気くさいぞ。」

「源さんこそその言い方おじさんくさいですよ。」

「いやな言い方だなあ。気にしているのに。それでどうしたアヤメ。ずいぶんと顔色の悪い。」

「…なんでも、ない。」


 アヤメはそれだけ言うと席を外して出ていった。その後ろ姿を驚いた表情で見送る源三郎は声を潜めて残った宗次郎に問うた。


「どうかしたのかい?」

「若先生がもしかしたら襲名するかもと伝えたらああです。何か思うことがあるのでしょう。」

「ほう…。そんなことを気にするなんて、相変わらず繊細な子だな。まああの子の立場だとそうならざるを得ないんだろうけど。」

「…ねえ源さん?そんなにアヤメは…不安に思わないといけないような立場なのかな…。」

「宗次郎…。」


 宗次郎の複雑な表情を見て、源三郎は心の中で嘆息を吐いた。この社会の制度や規範はとても納得できるものではない。だがそこに一々疑問を投げかけるほど源三郎は若くはない。しかし宗次郎はまだ年若く、自分がとうに問いかけることをやめてしまった問いにも果敢に挑む。その意志に対して自分にできることは誠実に答えを出し、彼が納得できるまで付き合うことだ。上から規範を押し付けることはできない。


 迷いや葛藤といった表情を見せる宗次郎はずいぶんと大人びた。彼は今過渡期にあるのだ。大人になるための。

 そしてアヤメも同様にその過渡期にある。しかし彼女は宗次郎に比べれば嫌な世界を見てきたはずだ。親に殴られ声を失い、そして身分はないも当然。彼女は何も言わないが、寺子屋や道場の子供らに残酷な言葉を投げかけられたことも少なからずあったはずだ。それでも彼女は純粋さを失わない。その健気さはどこまでも危うい。その危うさを宗次郎はどこかで感じ取っている。そしてアヤメを繋ぎとめる術を求めていている――。


「なあ宗次郎。どうきれいごとを言っても、この世界に身分はある。原則として生まれた身分は偽れず、商人の子が養子を組んだり婿に入って身分を変えてもそれは理不尽に蔑まれる。そういう社会なんだ。今はね。

そんな中で、捨てられたどこの子とわからない娘はまるで朝露のように儚く危うい。アヤメはね、そんな自分の立場が、嫌になるほどわかっているんだ。一応世間には近藤家の養子のような形をとってはいるものの、実際はそうではない。その身の危うさ、いま生きる日常がいかに不安定なものなのか。お前には少し理解は難しいだろう。もちろん私も想像しかできないがね。」

「そんなもの、いらないのに。」

「そう言える自分を大事にしなさい。成長していろんなものを抱え込むと人は保守的になる。私も含めてね。」

「源さん、も?」

「ああ。」

「じゃあ、源さんも、アヤメは身分の低い子だと思っているの…?僕たちとかかわる人間じゃないって。」

「そんなことはないよ!だが私は身分や世間体を顧みない恋などはできないほどには年はとっている。お前はまだ若い、その恋心、大事にね。」

「うん…。」

 あまり納得のいっていない様子でうなずく宗次郎の頭をなでる。

 彼は今、素直に自身の恋心を認めてしまったことにも全く気が付かないで考え込んでいる。源三郎にはその青さがとてもまぶしいものに感じられた。ああ、自分にもかつては身分を笠に着る奴らを憎く思い、何の疑問もなく商人らを馬鹿にしていた大人に疑問を抱いていた時期があったのに。いつの間に自分も「大人」になってしまったのだろう。


「敬助さんもそういう意味では私より、子供なんだろうな…。」

「え?なんていったの?」

「いや、なんでもないよ。」


 宗次郎をかわしてそっと席を外す。



「全く、理不尽な世の中だよ。」


 そんなことしか言えない自分は無力だ。




 そしてその数日後、勝太が勇という名前を背負うことが決まった。








「おめでとう。」

「おめでとうございます。若先生!」


 道場に祝いの声が響いている。その輪の中心にいる勝太――否、勇は少し照れくさそうに、後ろ頭を掻いて笑顔で応じている。歳三も少し離れた場所で嬉しそうに勝太の様子を見つめている。


「ありがとう、みんな。だがまだ正式に襲名したわけではないんだ。」


 そんな勝太を微笑みを浮かべてアヤメと敬助は見ていた。


「勝兄ちゃん、嬉しそう。」

「まあそりゃあねえ。」


 正式な襲名披露はだいぶ先になるだろうとのことだったが、それまでに勇という名前を呼ばれ慣れろと周助は言った。

 勝太の、否、勇の気質を考えれば確かにしばらくそういう期間を設けなければ中々その名に馴染まないだろう。

 というわけで道場の皆にも勇と呼ぶようにとの達示が言い渡された。そしてそれはアヤメも例外ではなく


「アヤメ、これからはその呼び方はよしなさい。」


 フデからアヤメに厳しい言葉が飛ぶ。アヤメが顔をこわばわせる。


「す、すみません…。気を付けます。」

「義母上。まあいいじゃないですか。」


 勝太がたしなめるが、フデも引かない。


「いいえ、こういうことはきっちりしないと。皆さんも早く勇さんと呼ぶのに慣れてください。それにアヤメ、あなたは他の方々への呼び方も改めたほうがいいでしょう。」

「え?」


 アヤメがびくびくした様子だ。その様子にフデも少しひるんだようだったがそれでも先を続ける。


「いつまでもそうやって子どものような口の利き方ではいけません。”兄ちゃん”とかそんないい方は止めなさい。ちゃんと勇さんと呼びなさい。ほかの方々に対しても同様です。」

「おフデさん。」


 敬助が割って入るがフデも引くそぶりは見せない。


「アヤメ、あなたもいつ結婚してもおかしくない年齢です。もうそろそろ自分の将来を見据えた言動をとらなければ。貴女の年齢なら縁談がまとまっていてもおかしくはないのですから。」

「縁談って…話を急ぎすぎるんじゃねえか?」


 周助がそう漏らすとフデは周助に鋭い視線を浴びせた。



「何を知っているんですか。こんなぼろ道場の、しかも跡取りでもない子どもがもらえる縁談などたかが知れています。しかもアヤメはここの養子ですらないんです。もう少し真剣に考えてください。」



 フデは決して身分が高い家の出ではない。それゆえの苦労をアヤメにさせたくないという彼女なりの配慮だろう…。アヤメもそれをわかっているのか、黙っている。だが遠慮がちに口を開いた。


「あの、でも私なんかと縁談を持とうなどという家はそうはありません…。それなら自分で生計が立てられるよう、このまま善庵先生のところで修行を積んだほうが…いいと思うのです。」


 そんな彼女の言葉に敬助は正直驚きを禁じ得なかった。アヤメが自分たちを含めて大人に反論することなどほとんどないのだから。


 勝太もそう感じたのか目を見張っているのがここからでもわかった。歳三も左の眉をわずかにあげた。


「そのことですが、こちらにも伝手はあります。あなたはむしろ家事やらをもっと覚えなさいな。」


 しかしアヤメの反論をフデは一蹴してしまう。


「わ、私なんかが嫁げば近藤家の恥になります。」

「だからずっと独り身でいるとでも言うのですか?馬鹿なことばかり言わないで。」

「…ですが。」


 アヤメは結局口を噤んでしまった。左之助はアヤメとフデとを見比べて二人にはわからないように溜息を一つ吐くと、少しおどけた口調でこういった。


「なんならアヤメ、俺と結婚するか。」

「左之さん!」


 その左之助の軽口に対して声を上ずらせて反応したのはアヤメでもフデでもなかった。


「何だ宗次郎、慌てた声を出して。」

「え、いや…あの。」

「だいたいお前アヤメのことになるといつも俺に怒っているよな…って。」


 勢いよく立ち上がった宗次郎は左之助の驚いた顔と周りの大人の反応を見てすごすごと座りなおした。アヤメも目を見開いている。

 そんな宗次郎の様子を見て左之助は何か悟ったのか、にやりと口角をあげた。


「ほうほうほう…。」

「な、何ですか左之さん。」

「いーや、別に。」


 完全にからかいの色を含んだ左之助に宗次郎は警戒する。


「左之さん、なんか変なこと考えているでしょう。」

「なんだよ、俺がそんな意地の悪いやつに見えるのか?」

「見える…。」


 宗次郎は半眼で左之助を怪しむ視線を送った。


「酷いなあ。」

「そういう前にそのゆるみきった顔をどうにかしろ。」

「いて!」


 そう横やりを入れたのは新八だった。左之助の頭を軽く小突くと深く溜息を吐いて呆れの感情を隠さない冷たい視線を左之助に送る。



「なんだよぱっつあん。」

「なんだじゃない。アヤメ殿、申し訳ない。左之助が変なことを言ったね。気にしないでくださいな。」

「は…い。」


 アヤメは何が起こったのかよくわかっていないようで首をかしげている。そしてさらに源三郎が助け舟を出す。


「すまないアヤメ、酒が切れそうだ。新しく温めて持ってきてくれるかい。」

「あ、はい。」

「宗次郎も手伝ってやれ。」

「え?」

「頼むよ。」

「はい…。」


 突然の申し出に戸惑いながらもアヤメは腰を上げてからになった徳利を預かって出ていった。すぐに宗次郎も続く。



 そんな二人を見送ってから源三郎は苦笑いで左之助にこう言った。


「あまり若者をからかわないでくださいな。」

「いや、からかっているつもりはないですよ!でもやっぱりそうなんだな…。恋か。宗次郎め、青いな。」

「気が付くの遅いな…お前。」


 新八はあきれた声をあげた。


「え、しんぱっさん、気づいてたのか?」

「見てればわかるだろ。お前が鈍すぎるんだよ。」

「ええ、そうか?」

「いや宗次郎の視線とか結構わかりやすいぞ。」

「確かにわかりやすいが余りからかわず優しく見守ってやってくださいな。」

「面白そうなのになあ…。」

「左之。」



 新八の責める口調を左之助は首を(すく)めてかわした。


「でもいいなあ。いつからだ。宗次郎の奴。」

「ずっとさ。ずっとあんな感じだ。」

「へえ。でも言っちゃ悪いがアヤメはまるで気付いていないように見えるが。というかあの子は…。」

「こら左之!それ以上は無粋だ。」

「おっとしまった。」



 左之助はまだいたずらな笑みを浮かべたままだ。そんな左之助を新八と歳三は冷たい視線で貫き敬助は困った表情で見ていた。





 * * *


 一方アヤメと宗次郎は一緒にみんなの酒を用意していた。湯を沸かして熱燗の準備をする。


「左之さんっておかしな人。」


 準備をしながらアヤメはくすくすと笑って宗次郎に同意を求める。


「おかしな人っていうより頭のおかしな人だ…。」

「え、なんて?」

「なんでもないよ。気にしないで。」

「そう?」



 アヤメは沸かした湯を使って酒の入った徳利を温め始めた。1人でさっさと作業を進めてしまうアヤメに宗次郎は


「僕、何にもしてないや。」

「さっき徳利にお酒淹れるの手伝ってくれたじゃないの。」

「それだけだけどね。」


 苦笑する宗次郎の様子がおかしかったのかアヤメはふふふと笑みを零した。しかしすぐに何かを思い出したのか笑みをひっこめた。


「どうしたの?アヤメ。」

「私のせいでさっきはせっかくのお祝いに水を差したわ。」

「そんな!違うよ!」

「…。宗ちゃんんのことも、宗ちゃんって呼べなくなるのかしら。」

「そんなことはないよ!大丈夫だって。だって僕は他の人より歳若だしね。姉上だって僕のことは宗ちゃんって呼ぶんだから。」

「でも宗ちゃんだっていつかは元服して名前を変えちゃうわ。そうなれば宗ちゃんじゃなくなるもの。」

「アヤメ…。」

「前は嫌だったのに。子供でいることが。大きくなったら道場のみんなに近づけると思っていたけど…。…大人になるって悲しいね。」

「アヤメ…。」

「ふふ、変なこと言った。ごめんね宗ちゃん。さあ、お酒持って行かなくちゃ。」

「…。」


 笑ってごまかすアヤメの手を宗次郎は思わずつかんだ。


「宗ちゃん…?」

「アヤメ…。僕約束するよ。将来元服して名前を変えても、アヤメが僕のこと、宗ちゃんって呼び続けられるようにする。絶対。約束。」

「宗ちゃん…。」


 宗次郎の言葉に、アヤメは眼を見開いて動きを止めた。色素の薄いアヤメの瞳に映る自分の姿を宗次郎はただ見つめていた。そこに映る自分は第三者が見れば笑ってしまうであろう、滑稽に見えるほど真剣で切羽詰まっている。

 つかんでいたアヤメの手を一度放してその小指を自身のそれと絡める。

「約束するよ。」


 アヤメは絡められた自分の小指を見つめていたがふっと笑みを零した。そして眉尻を下げて淡く微笑んだ。


「ありがとう…。」




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