第八話 沈黙を強いる声
インク・オブ・トゥルース社に、一人の女性が飛び込んできた。
「お願いです……主人を、助けてください」
リディア・フィッシャーは、涙をこらえながら、震える声で訴えた。
「夫は、以前まで、優しい父親でした。娘のことを、目に入れても痛くないほど可愛がっていて」
「今は、違うんですか?」
ノワールが、静かに尋ねる。
「はい……。少し前から、急に、様子がおかしくなったんです」
リディアは、堰を切ったように語り始めた。
「電灯は、政府の盗聴器だ、と。家の中では灯りを点けるな、と。人間は一生で話せる言葉の数が決まっている、無駄口を叩くと寿命が縮む、と……」
「家族にも?」
「はい。会話を禁じられました。灯りを点けようとすると、手を上げられることも……」
リディアの声が、震える。
「娘のエマは、学校でも話さなくなりました。近所では、『呪われた一家』と噂されて……。もう、どうしたらいいのか」
ブランとノワールは、静かに顔を見合わせた。
ノワールは、リディアの向かいに座り、否定も断定もせず、ただ静かに耳を傾け続けた。
「大変でしたね。いつ頃から、様子が変わりましたか?」
「三ヶ月ほど前です。仕事で、大きな失敗をしたと聞いた、その少しあとから」
「何か、きっかけになるようなことは」
「……分かりません。ただ、ある日突然、『誰かに見られている気がする』と言い出して。それから、日に日に、酷くなっていきました」
「娘さんの様子は?」
「最初は、お父さんの言うことを、素直に聞いていました。でも、今では、家でも学校でも、ほとんど言葉を発しません。話すと、寿命が縮む、と、本気で信じているみたいで」
ノワールは、一つ一つ、丁寧に話を聞き取っていった。
その一方で、ブランは、腕を組んだまま、静かに呟いた。
「これは、思い込みだけでは終わらない」
◇
ブランは、王都中を歩き回った。
訪ねたのは、古くからの修道院。
長年、王都の患者を診てきた老医師。
治療院に残る、古い診療記録。
「同じような症状を、以前にも見たことがある」
老医師の一人が、遠い記憶を辿るように語った。
「『王に監視されている』と訴えた者、『隣人が毒を盛っている』と怯えた者、『家族が、偽物にすり替わった』と信じ込んだ者……」
「その方々は、今は?」
「多くは、適切な治療を受けて、落ち着きを取り戻したよ。……当時は、悪霊憑きだ、呪いだと、随分と誤解されたものだが」
ブランは、記録を丹念に読み込んだ。
症状の形は違えど、根底にあるものは、よく似ていた。
「呪いでも、悪霊でもない」
ブランは、確信を持って呟いた。
◇
ブランは、リディアのもとを訪れ、静かに告げた。
「これは、悪霊のせいではありません。もちろん、呪いでもありません」
その言葉にリディアは愕然とした。
「でも、過去にも、同じような症状を示した人たちがいました。記録に残る患者は皆、治療によって改善している。適切な治療を受ければ、良くなる可能性は十分にあります」
リディアは、目を見開いた。その目には希望が宿っていた。
「では、あの人は……病気、なんですか?」
「専門の治療を受けるべき状態です」
ノワールが、静かに続けた。
「だから、ご主人を、責めないであげてください」
「ご主人自身も苦しいはずです」
リディアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私、ずっと、夫が変わってしまったことが、悲しくて、怖くて……。でも、夫自身が、一番怖い思いをしていたなんて、考えたこともありませんでした」
◇
ロペス兄弟は、リディアを伴い、王立治療院を訪ねた。
応対したのは、精神を専門に診る治療師、エリアスだった。
「詳しく診察してみなければ断言はできません。しかし、お話を伺う限りでは、治療が必要な状態である可能性があります」
エリアスは、穏やかな声で、リディアに向き直った。
「奥さん、病は恥ではありません。ご家族だけで、抱え込まないでください」
「私たちに、何かできることはありますか?」
「まずは、ご主人に、治療を受けてもらうことです。時間はかかるかもしれませんが、一人で抱えるより、必ず良い方向に向かいます」
ブランとノワールは、それ以上、何も言わなかった。
自分たちにできるのは、真実を明らかにし、専門家へと橋渡しをすること。そこから先は、専門家の領分だった。
「あとは、任せてください」
エリアスの言葉に、二人は静かに頷き、事務所へと戻っていった。
◇
数ヶ月後――。
トーマス・フィッシャーは、治療院に通い続け、少しずつ、以前ほど妄想に振り回されることがなくなっていた。
娘のエマは、再び、友達と笑い合いながら遊ぶようになった。
そして、ある日の夕暮れ。
フィッシャー家の食卓には、久しぶりに、家族三人の笑顔が揃っていた。
その食卓には、灯りが、ともっていた。
「灯りが、こんなに温かいものだったなんて……」
トーマスは、涙を流しながら、そう呟いた。
エマが、そっと父の手を握った。
「お父さん、お話ししてもいい?」
トーマスは、大きく頷いた。
「ああ。……聞かせておくれ」
小さな声が、久しぶりに、その家に響いた。
◇
数日後、王都に出回った告発本には、こう記されていた。
『人は、理解できないものを、呪いと呼ぶ。
だが、恐れだけでは、誰も救えない。むしろ、病そのものより恐ろしいのは、偏見の目である。
真実を知ること。耳を傾けること。そして、助けを求めること。
それこそが、一人の人生と、家族を救う、第一歩なのである。
すべての闇に光が訪れんことを――。ブラザーズ・ロペス』
この記事は、これまでとは違う静かな反響を呼んだ。
同じように、大切な人の変化に苦しんでいた読者たちから、事務所に、いくつもの相談が寄せられるようになった。
ロペス兄弟は、その一つ一つに耳を傾け続けた。




