第七話 霧の向こうの異世界
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、旅商会に勤める真面目そうな青年、エイドリアン・ローウェンだった。
「信じてもらえないかもしれませんが……」
彼は、そう前置きすると、テーブルの上に一枚の木の板を置いた。文字らしきものが、縦に刻まれている。
「僕は、異世界から帰ってきたんです」
ノワールが、思わず噴き出しそうになるのを堪えた。
「……詳しく、聞かせてくれ」
ブランは、木の板を手に取りながら、静かに促した。
「僕は、旅商会で地方旅行プランの企画を担当しています。新人企画として、国境近くの秘境を巡るツアーを考えていて……その下見に、一人で向かったんです」
「『霧谷秘境探訪ツアー』、というやつだね」
ノワールが、企画書の控えを覗き込みながら言う。
「はい。ですが、目的地に近づくにつれ、深い霧に包まれて。気づけば、道に迷っていました」
エイドリアンは、その時の恐怖を思い出すように、身を震わせた。
「霧の中を彷徨って辿り着いたのは、見たこともない町でした。人々は、僕の知らない言葉を話し、見たこともない衣装を身にまとい、文字も、見たことのない縦書きの記号のようなもので……」
「金は使えたか?」
ブランが尋ねる。
「いえ、それが……僕の持っていた紙幣を見せても、誰も受け取ってくれませんでした。代わりに、質屋の主人が、この木の板――『木簡』と呼ばれるものを渡してくれて。それを見せれば、宿や食事の代金代わりになる、と」
「質屋の主人の名前は?」
「ハンス・ベルガー、と名乗っていました」
「宿では、どうだった?」
「宿屋の娘さんが、親切にしてくれました。でも、訛りがとても強くて、何を言われているのか、ほとんど理解できませんでした」
「何か特徴は?」
「会話の中でミラ・フォルン、と聞こえました」
エイドリアンは、両手で顔を覆った。
「三日ほど彷徨って、ようやく元の道に戻れました。……あれは、間違いなく、異世界だったんです」
ブランは、木簡を光にかざし、じっくりと観察した。
「文字は、確かに見慣れない形をしている。だが、異世界の物とは言いきれない」
「どうして?」
「木材の質だ。この国の北東方――国境付近でよく採れる木材と、木目が一致する」
「へえ、まさか木簡鑑定士にでも転職する気?」
ノワールが茶化しながら、机の下から地図を取り出す。手際の良さは、からかいの軽さとは裏腹だった。
「まあ、依頼人の前で『異世界かもしれない』とか言い出すよりは、俺は現実的な方に賭けるがね」
ブランが、木簡を光にかざしたまま、視線だけをよこす。
「賭け、ね。勝つ時しか賭けないのに?」
ノワールは呆れた顔をして地図を広げた。
「北東方向の霧谷、ね……。国境付近に、そういう地名があったはずだ」
二人は、国境地帯の地図と、古い行政記録を調べ始めた。
「あったよ」
ノワールが、古びた文書を指差す。
「『ミストヴェイル』。国境近くの、閉鎖的な集落だ。数百年前の文化を、今もそのまま守り続けている、という記録がある」
「特徴は?」
「木簡や石碑による記録文化。縦書きの独自文字。強い方言。独自の民族衣装。……一致するね」
ブランの目が、鋭くなる。
「時計は?」
「未だに日時計が使用されているって記録にある。ミストヴェイルでは、時間を、日の傾きや影で計っているらしい」
「残念ながら、異世界じゃなさそうだな」
ブランが、静かに呟いた。
「実在する、この国の一部。ただ、誰も気にかけてこなかった集落――」
◇
ロペス兄弟は、エイドリアンを伴い、実際にミストヴェイルへと向かった。
国境近くの山道を進むと、確かに深い霧が立ち込めている。そして、霧を抜けた先にあった景色は、色彩豊かな光景だった。
一般の家屋とは異なり、屋根には赤や青、黄色などの鮮やかな原色が塗られていた。独特の意匠を凝らした衣装を纏う人々。縦書きの木簡を掲げた店の看板。
「ここ、です……」
エイドリアンが、震える声で言う。
「確かに、異国情緒が溢れたところだね」
「ああ。しかも、ここまで結構な距離だ。依頼人が異世界に来たと勘違いするのも頷ける」
質屋の前に立つと、店主が顔を出した。
「この前の旅人さん、時計まだありますよ」
返ってきたのは、この国の流暢な共通語だった。
「え……共通語が話せるんですか?」
「私は外から移住してきたので、共通語が話せます」
エイドリアンが、目を丸くする。
「ハンス・ベルガーさんですね」
ブランが、静かに尋ねた。
「はい、そうですが……」
「彼が以前、ここに立ち寄った時のことを覚えていますか?」
ハンスは、エイドリアンの顔を見て頷いた。
「もちろん。彼が質入れした時計はちゃんと保管していますよ」
「質に……入れた?」
エイドリアンは、呆然と呟いた。
「ええ。この町では、外の通貨は受け取らないので」
「それは、何でだ?」
ブランは尋ねた。
「隣国の通貨なら喜んで受け取りますよ」
ハンスは金庫から紙幣を見せた。
ノワールが、紙幣を覗き込んで小さく口笛を吹いた。
「本国の金より、隣国の金の方が信用あるってことか。皮肉な話だ」
「お客様方も、道中の道のりで分かったでしょう?」
ハンスは壁の地図を指差した。
「本国までは、あの険しい道を片道六時間以上。舗装された道を一時間程度で着く隣国の方が、私たちにとっての生活圏なのです」
エイドリアンが、来た道を思い出すように、こめかみを押さえた。
「……確かに、あの山道は、地獄でした」
ハンスは、王国発行の旅券を取り出して見せた。
「本国のお金が使えない代わり、お持ちの品を質に入れていただければ、木簡の札をお渡しして、宿代や食事代の代わりにできるようにしているんです」
「僕は……それを、異世界の通貨か何かだと思って」
「異世界?!まさかー」
ハンスが、少し困ったように笑った。
「私も最初は、何を話しているのか分かりませんでしたよ。ここは方言が強いですからね。だけど、この国の国境付近のただの小さな町ですよ」
◇
宿屋を訪ねると、当時世話をしてくれたという娘――ミラ・フォルンが、恥ずかしそうに顔を出した。
「あの、時ぇ……うち、ちゃんとしゃべっとったんやけど、伝わっとらんかったんかいな」
「霧ぃ深うてなぁ、危ないさかい、一人でほっつき歩いたらあかんでって、うちゃ何回も言うたんよ。ほんでから、身体温めるスープこさえたさかい、ゆっくりしていきや、って」
強い訛りに、エイドリアンが再び目を丸くする。
「……すみません、半分も、分かりませんでした」
ミラは、恥ずかしそうに俯いた。
「彼女は、何と?」
「『霧が深いから、危ないので、一人で外に出ないように、と。それと、体を温めるスープを作ったから、ゆっくり休んでいってほしい』と言ったそうだよ」
ノワールが、通訳するように伝えた。
エイドリアンは、しばらく言葉を失っていた。
「僕は……ずっと、彼女に何か、恐ろしいことを言われていると思って、怖がっていました」
「彼女はただ、あなたを心配していただけです」
ミラは、恥ずかしそうに俯きながら、小さく頷いた。
◇
王都へ戻る道すがら、ブランは机の上に、あの木簡を置いた。
「やっぱり異世界じゃなかったな」
エイドリアンに向かって、静かに告げる。
「君が行ったのは、誰も知らない――『もう一つの文化圏』だ」
エイドリアンは、しばらく黙り込んだあと、深く頭を垂れた。
手の中の木簡を、そっと撫でる。異世界の遺物だと怯えていたその感触は、今はただの、誰かの暮らしの断片でしかなかった。
「……すみませんでした」
それだけ言って、また黙る。何に謝っているのか、本人にもうまく説明できないようだった。
「無理もないさ」
ノワールが、肩をすくめる。
「霧の中で何時間も彷徨って、知らない言葉、知らない文字、知らない習慣に囲まれたら、誰だって怖くなる」
「でも……」
ブランが続けた。
「怖さの正体は、彼らじゃない。あなた自身の中にあった、『知らないもの』への恐れですよ」
◇
数日後、王都に出回った記事には、これまでとは違う、静かな筆致でこう記されていた。
『世界は、一つしかない。
だが、人は自分の常識だけを世界のすべてだと思い込み、それ以外を異質なものとして遠ざけてしまう。
異世界は存在しなかった。存在したのは、自分の常識だけが世界だと思い込む、人間の傲慢さである。
国境の霧が隔てていたのは、土地ではない。
互いの文化を知ろうとしなかった、人々の心の壁だった。
――ブラザーズ・ロペス』
この記事をきっかけに、ミストヴェイルへの偏見と好奇の目は、次第に、素朴な興味へと変わっていった。エイドリアンの企画した「霧谷秘境探訪ツアー」は、後に、正式な文化交流の旅として、王都で静かな評判を呼ぶことになる。
◇
事務所に戻ったノワールが、ぽつりと呟いた。
「僕らも、案外、同じかもね」
「何がだ?」
「知らない相手を、勝手に決めつけて、怖がったり、遠ざけたり――」
ブランは、少し考えてから答えた。
「だからこそ、俺たちの仕事は、いつも『知る』ことから始まる」
窓の外には、王都の穏やかな夕暮れが広がっていた。
霧はいつか晴れる。
だが、人の心の霧を晴らすのは、いつだって、知ろうとする小さな一歩だった。




