↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブラザーズ・ロペス ~インク・オブ・トゥルース~  作者: めそこここ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/57

第五十五話 新月の夜に二人

 ノワールの荷物が――少しずつ、まとめられていく。


「これで、最後かな」


 ローズの計らいで――公爵家に、婿入りする者として、生活に慣れるようにと、ノワールの住まいは――インク・オブ・トゥルース社から、アストリア邸へと移ることになっていた。


「兄さん、寂しくない?」


 ノワールが、荷造りの手を止めて尋ねる。


「あいにく、俺には予定があってな。寂しさを感じる暇がない」


 ブランが、軽く答えた。


「はいはい。」


 ノワールは、呆れながら事務所を出ようとする。その後ろ姿にブランが、声をかけた。


「ノワール。この写真――お前が持っていけ」


 そう言って渡したのは――事務所の机に飾ってあった、あの写真だった。

 幼いブランとノワールとグリース――三人が一緒に写った、あの一枚の写真。


「え……」


 ノワールが、驚いた様子で、その写真を見つめる。


(兄さんが、大事にしていた写真なのに……)


 その様子に――ノワールは、微かな違和感を覚えた。


「公爵家で、寂しくなったら――これでも見て頑張れ」


「……子どもじゃないんだから」


 ノワールが、笑い飛ばそうとする。


 だが――ブランは、真面目な顔のまま続けた。


「お前に持っておいて、もらいたいんだ」


 その声には――冗談では済まされない真剣さがあった。


「……分かったよ」


 ノワールは、その写真立てを鞄の中にしまった。



 ◇



 ノワールを見送った後――ブランは、静かに事務所を見渡した。


 机の上には――いつも、あった写真がなくなっている。

 事務所の中には――いつも、そこにいたノワールの姿もない。


 その静けさが――ブランの胸に染み込んでいった。


「そろそろ……行くか」


 ブランは、コートを羽織った。



 ◇



 再び――エスプリへ。


 日の落ちた街には――家路を急ぐ人々の姿しかなかった。


 住宅街へと向かう人々とすれ違いながら――ブランは、人気のない貯水池へと足を進めた。


 やがて――目的の場所に、辿り着く。


 そこには――一つの人影があった。


「遅いぞ、ブラン」


 その声に――ブランの心臓が、大きく跳ねた。


 そこに、立っていたのは――紛れもなく、あの日、馬車に乗り込む姿を見送った、あの男だった。


 ブランと同じ髪の色。

 ブランと同じ瞳の色。


「ノワール……」


 ブランの声は――掠れていた。


 新月の夜の暗闇の中――水面だけが、街頭の灯りを映し、静かに揺れていた。


 十年ぶりに、対峙する兄弟の間には――言葉にできないほどの長い沈黙が横たわっていた。


「おまえ……今まで……どこで……いや、まずは、本当にノワールなのか?」


 ブランは、震えていた。

 今まで、何度も何度も、夢に見た再会とは違った。言いたい言葉の一つも、うまく出てこなかった。


「グリースじゃない『ノワール』さ」


 男は、皮肉っぽく、笑った。


「なぜ、生きていたことを知らせなかった!」


 ブランは、ノワールの襟元に掴みかかった。

 ノワールは、その手を振り払う。


「知って、どうする?」


 ノワールは冷たい視線で突き放す。


「俺たちは、今まで、ずっと、おまえを探して……」


「ああ、だから、警告しただろう」


 ブランの脳裏に、各社に送られた怪文書の記憶が蘇る。


「やはり、あれは、おまえが……」


 ブランは、再び、ノワールに掴みかかった。


「ブラン、おまえこそ、どうした?いつから、グリースをこんな危険なことに引きずり込むようになった?」


 その言葉で、ブランは逆上した。

 静かなエスプリの貯水池に、鈍い音が響いた。

 ブランの拳がノワールの顎を捉えた。


「っ……」


 ノワールがよろけて、後ろに下がる。


「誰のせいで、こうなっている!」


「壊れた母さんのために、グリースにおまえのふりをさせて……」


「俺たちが、今まで、どんな思いで……」


「思い?」


 ノワールが、低く笑った。


 その笑い声には――狂気にも似た、乾いた響きがあった。


「俺の思いを、おまえは聞いてくれたか?」


 ノワールは、静かに口の端の血を拭った。


「あの日――俺は、ただ、グリースを助けたかっただけだ。『金の卵』の話を聞いた時――俺は、本当に信じたんだ。あれで、グリースが助かるって」


「それは……」


「大人になった今なら、馬鹿なことしたって、分かってる」


 ノワールが遮った。


「でも、あの極限状態で――誰かがすがりつける藁(わら)を見せてくれたんだ。当時の俺は必死に掴んだ。」


「なのに、ブランは……」


 ノワールの声が、初めて震えた。


「……」


 ブランは、何も言えなかった。


「分かってる。おまえも、必死だったって」


 ノワールが、静かに続けた。


「でも、あの時の俺は――まだ、子どもだった。どうしていいか、分からなかった」


「寒い夜の中――金を取り返そうと彷徨って。そして――組織に拾われた」


「あいつら……」


 ブランは、拳を握りしめた


「優しかったよ」


 ノワールが、静かに目を伏せた。


「温かい飯をくれた。寝床をくれた。……誰も、俺を責めなかった」


「だから、何の連絡も、寄越さなかったのか!」


 ブランが、声を荒げた。


「ふっ、ははは」


 ノワールが、堪えきれずに笑い出す。


「な、何がおかしい?」


 ノワールの様子にブランは怯んだ。


「あの後、保険金という名目で良い生活を送って、大学まで出て、インク・オブ・トゥルース社なんて洒落た出版社まで作ったあの金。あれは、組織の金だ。」


「おまえらが人並み程度の生活が送れたのは、組織のおかげなのに、本当に何様だ?」


 ブランは混乱のあまり言葉を失った。


(失踪した父親の保険金……あれが、組織の金?)


 ノワールは、呆然とするブランを見つめた。

 

「だいたい、さっきから俺のせいにしているけど、ブランが母さんのためにグリースに俺の名前を背負わせたんだろ?」


 ブランはキッとノワールを睨みつけた。


「挙げ句――お前は、グリースに危険が及ぶ組織の捜査を手伝わせている。……ブランは、本当に兄弟想いだな」


 項垂れるブランの洋服の襟を、今度はノワールがつかんだ。


「だから、警告してやったんだ」


 その言葉に、ブランは息を呑んだ。


「『弟はもう死んでいる』――あれは、脅しじゃない」


 ノワールの声は静かだったが――底知れない悲しみを湛えていた。


「本当のことを、言ったに過ぎない」


「お前たちが知っている『ノワール』は――もう、この世のどこにもいない」


「今、ここにいるのは――組織の道具に成り下がった男だ」


「それでも……」


 ブランが、静かに続けた。


「お前は、俺の弟だ」


「……甘いな」


 ノワールが、静かに笑った。


「その甘さが――お前やグリースを殺すことに、なるかもしれないのに」


 貯水池の水面が――風もないのに微かに揺れていた。

 新月の闇の中――二人の影だけが、そこにあった。


「……だったら」


 ブランは、拳を握り直した。


「だったら、俺がお前を止める」


「止める? どうやって」


「――俺が許すと思うか?」


 次の瞬間、ブランの拳が、再びノワールの頬を捉えた。


「……お前は、何も分かってない」


 今度は、ノワールの拳が、ブランの腹にめり込んだ。


「俺だって――帰りたかったんだ!」


「だったら、どうして帰ってこなかった!」


「帰れると思ったのか!」


 ノワールの声が、夜の貯水池に響く。


「あの日、俺が持っていたのは――金の卵だったんだぞ!」


「……!」


「それを信じた俺を、お前は置いていった!」


「だから、取り返そうとした!」


「グリースを巻き込んでか?」


「巻き込ませたのはお前だ!」


「俺は守ろうとした!」


「俺だってそうだ!」


 互いの拳が、相手に繰り返し打ち抜いた。

 衝撃に、ノワールの身体がよろめいた。

 次の瞬間、ノワールはブランの髪を掴んで頭突きをした。

 ブランの視界が、一瞬、白く弾けた。

 ノワールの拳が、ブランの頬を打った。

 ブランの身体が、大きくよろめく。


「……っ」


 口の中に、鉄の味が広がった。

 ブランは、血を吐き捨てると――笑った。


「それでいい」


「何がだ?」


「お前は――怒れ。俺を責めろ!」


「あの日、俺が鶏を買いに行けば良かったんだ!俺が……」


 そう叫んだ、ブランの膝が――ふいに、力を失った。

 その場に崩れ落ちるブランの姿を見たノワールが、ふらふらになりながら、貯水池の転落防止柵に腰を下ろす。


「ここまでだ、ブラン。最後に教えてやる。俺が組織について行ったのは、それだけじゃない。……親父がいたんだ。」


 ノワールが真っ暗な夜空を見上げる。


「おまえたちにも、時間をかけて、ヒントは出してあげたんだ"V、I、L"って」


 ブランの頭の中で、母親が父親を呼ぶ声がする。


「ウィリアム!ウィリアムったら!もう『ビル』!」


(ヴィルとビル……)


 ブランの頭の中で――何かが繋がった。


「親父……?」


 ノワールが、ゆっくりと立ち上がった。


「そうだ。……気づくのが、もう遅い」


 その声には――安堵とも諦めともつかない、静かな響きがあった。


「待て、ノワール!」


 ノワールは、答えなかった。


 そのまま、両手を広げて貯水池の柵を越えようとする。


「ノワール!」


 ブランが、とっさにノワールの腕を掴んだ。


「離せ、ブラン!」


 ノワールがもがくように、腕を振り払おうとする。


「離すか!」


 ブランは、その力に負けじと、腕に力を込めた。


「お前を、手放したことを――何度、後悔したと思ってる」


「今度は……絶対に、離さない!」


 二人の体が、水面に、沈んでいく――

 バシャン、と大きな水音が、夜の闇に響いた。

 波紋が幾重にも広がり、街灯の欠片を静かに揺らしていく。

 その波紋が――少しずつ、少しずつ、収まっていく。

 やがて――エスプリの貯水池に、再び静寂が訪れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。