第五十五話 新月の夜に二人
ノワールの荷物が――少しずつ、まとめられていく。
「これで、最後かな」
ローズの計らいで――公爵家に、婿入りする者として、生活に慣れるようにと、ノワールの住まいは――インク・オブ・トゥルース社から、アストリア邸へと移ることになっていた。
「兄さん、寂しくない?」
ノワールが、荷造りの手を止めて尋ねる。
「あいにく、俺には予定があってな。寂しさを感じる暇がない」
ブランが、軽く答えた。
「はいはい。」
ノワールは、呆れながら事務所を出ようとする。その後ろ姿にブランが、声をかけた。
「ノワール。この写真――お前が持っていけ」
そう言って渡したのは――事務所の机に飾ってあった、あの写真だった。
幼いブランとノワールとグリース――三人が一緒に写った、あの一枚の写真。
「え……」
ノワールが、驚いた様子で、その写真を見つめる。
(兄さんが、大事にしていた写真なのに……)
その様子に――ノワールは、微かな違和感を覚えた。
「公爵家で、寂しくなったら――これでも見て頑張れ」
「……子どもじゃないんだから」
ノワールが、笑い飛ばそうとする。
だが――ブランは、真面目な顔のまま続けた。
「お前に持っておいて、もらいたいんだ」
その声には――冗談では済まされない真剣さがあった。
「……分かったよ」
ノワールは、その写真立てを鞄の中にしまった。
◇
ノワールを見送った後――ブランは、静かに事務所を見渡した。
机の上には――いつも、あった写真がなくなっている。
事務所の中には――いつも、そこにいたノワールの姿もない。
その静けさが――ブランの胸に染み込んでいった。
「そろそろ……行くか」
ブランは、コートを羽織った。
◇
再び――エスプリへ。
日の落ちた街には――家路を急ぐ人々の姿しかなかった。
住宅街へと向かう人々とすれ違いながら――ブランは、人気のない貯水池へと足を進めた。
やがて――目的の場所に、辿り着く。
そこには――一つの人影があった。
「遅いぞ、ブラン」
その声に――ブランの心臓が、大きく跳ねた。
そこに、立っていたのは――紛れもなく、あの日、馬車に乗り込む姿を見送った、あの男だった。
ブランと同じ髪の色。
ブランと同じ瞳の色。
「ノワール……」
ブランの声は――掠れていた。
新月の夜の暗闇の中――水面だけが、街頭の灯りを映し、静かに揺れていた。
十年ぶりに、対峙する兄弟の間には――言葉にできないほどの長い沈黙が横たわっていた。
「おまえ……今まで……どこで……いや、まずは、本当にノワールなのか?」
ブランは、震えていた。
今まで、何度も何度も、夢に見た再会とは違った。言いたい言葉の一つも、うまく出てこなかった。
「グリースじゃない『ノワール』さ」
男は、皮肉っぽく、笑った。
「なぜ、生きていたことを知らせなかった!」
ブランは、ノワールの襟元に掴みかかった。
ノワールは、その手を振り払う。
「知って、どうする?」
ノワールは冷たい視線で突き放す。
「俺たちは、今まで、ずっと、おまえを探して……」
「ああ、だから、警告しただろう」
ブランの脳裏に、各社に送られた怪文書の記憶が蘇る。
「やはり、あれは、おまえが……」
ブランは、再び、ノワールに掴みかかった。
「ブラン、おまえこそ、どうした?いつから、グリースをこんな危険なことに引きずり込むようになった?」
その言葉で、ブランは逆上した。
静かなエスプリの貯水池に、鈍い音が響いた。
ブランの拳がノワールの顎を捉えた。
「っ……」
ノワールがよろけて、後ろに下がる。
「誰のせいで、こうなっている!」
「壊れた母さんのために、グリースにおまえのふりをさせて……」
「俺たちが、今まで、どんな思いで……」
「思い?」
ノワールが、低く笑った。
その笑い声には――狂気にも似た、乾いた響きがあった。
「俺の思いを、おまえは聞いてくれたか?」
ノワールは、静かに口の端の血を拭った。
「あの日――俺は、ただ、グリースを助けたかっただけだ。『金の卵』の話を聞いた時――俺は、本当に信じたんだ。あれで、グリースが助かるって」
「それは……」
「大人になった今なら、馬鹿なことしたって、分かってる」
ノワールが遮った。
「でも、あの極限状態で――誰かがすがりつける藁を見せてくれたんだ。当時の俺は必死に掴んだ。」
「なのに、ブランは……」
ノワールの声が、初めて震えた。
「……」
ブランは、何も言えなかった。
「分かってる。おまえも、必死だったって」
ノワールが、静かに続けた。
「でも、あの時の俺は――まだ、子どもだった。どうしていいか、分からなかった」
「寒い夜の中――金を取り返そうと彷徨って。そして――組織に拾われた」
「あいつら……」
ブランは、拳を握りしめた
「優しかったよ」
ノワールが、静かに目を伏せた。
「温かい飯をくれた。寝床をくれた。……誰も、俺を責めなかった」
「だから、何の連絡も、寄越さなかったのか!」
ブランが、声を荒げた。
「ふっ、ははは」
ノワールが、堪えきれずに笑い出す。
「な、何がおかしい?」
ノワールの様子にブランは怯んだ。
「あの後、保険金という名目で良い生活を送って、大学まで出て、インク・オブ・トゥルース社なんて洒落た出版社まで作ったあの金。あれは、組織の金だ。」
「おまえらが人並み程度の生活が送れたのは、組織のおかげなのに、本当に何様だ?」
ブランは混乱のあまり言葉を失った。
(失踪した父親の保険金……あれが、組織の金?)
ノワールは、呆然とするブランを見つめた。
「だいたい、さっきから俺のせいにしているけど、ブランが母さんのためにグリースに俺の名前を背負わせたんだろ?」
ブランはキッとノワールを睨みつけた。
「挙げ句――お前は、グリースに危険が及ぶ組織の捜査を手伝わせている。……ブランは、本当に兄弟想いだな」
項垂れるブランの洋服の襟を、今度はノワールがつかんだ。
「だから、警告してやったんだ」
その言葉に、ブランは息を呑んだ。
「『弟はもう死んでいる』――あれは、脅しじゃない」
ノワールの声は静かだったが――底知れない悲しみを湛えていた。
「本当のことを、言ったに過ぎない」
「お前たちが知っている『ノワール』は――もう、この世のどこにもいない」
「今、ここにいるのは――組織の道具に成り下がった男だ」
「それでも……」
ブランが、静かに続けた。
「お前は、俺の弟だ」
「……甘いな」
ノワールが、静かに笑った。
「その甘さが――お前やグリースを殺すことに、なるかもしれないのに」
貯水池の水面が――風もないのに微かに揺れていた。
新月の闇の中――二人の影だけが、そこにあった。
「……だったら」
ブランは、拳を握り直した。
「だったら、俺がお前を止める」
「止める? どうやって」
「――俺が許すと思うか?」
次の瞬間、ブランの拳が、再びノワールの頬を捉えた。
「……お前は、何も分かってない」
今度は、ノワールの拳が、ブランの腹にめり込んだ。
「俺だって――帰りたかったんだ!」
「だったら、どうして帰ってこなかった!」
「帰れると思ったのか!」
ノワールの声が、夜の貯水池に響く。
「あの日、俺が持っていたのは――金の卵だったんだぞ!」
「……!」
「それを信じた俺を、お前は置いていった!」
「だから、取り返そうとした!」
「グリースを巻き込んでか?」
「巻き込ませたのはお前だ!」
「俺は守ろうとした!」
「俺だってそうだ!」
互いの拳が、相手に繰り返し打ち抜いた。
衝撃に、ノワールの身体がよろめいた。
次の瞬間、ノワールはブランの髪を掴んで頭突きをした。
ブランの視界が、一瞬、白く弾けた。
ノワールの拳が、ブランの頬を打った。
ブランの身体が、大きくよろめく。
「……っ」
口の中に、鉄の味が広がった。
ブランは、血を吐き捨てると――笑った。
「それでいい」
「何がだ?」
「お前は――怒れ。俺を責めろ!」
「あの日、俺が鶏を買いに行けば良かったんだ!俺が……」
そう叫んだ、ブランの膝が――ふいに、力を失った。
その場に崩れ落ちるブランの姿を見たノワールが、ふらふらになりながら、貯水池の転落防止柵に腰を下ろす。
「ここまでだ、ブラン。最後に教えてやる。俺が組織について行ったのは、それだけじゃない。……親父がいたんだ。」
ノワールが真っ暗な夜空を見上げる。
「おまえたちにも、時間をかけて、ヒントは出してあげたんだ"V、I、L"って」
ブランの頭の中で、母親が父親を呼ぶ声がする。
「ウィリアム!ウィリアムったら!もう『ビル』!」
(ヴィルとビル……)
ブランの頭の中で――何かが繋がった。
「親父……?」
ノワールが、ゆっくりと立ち上がった。
「そうだ。……気づくのが、もう遅い」
その声には――安堵とも諦めともつかない、静かな響きがあった。
「待て、ノワール!」
ノワールは、答えなかった。
そのまま、両手を広げて貯水池の柵を越えようとする。
「ノワール!」
ブランが、とっさにノワールの腕を掴んだ。
「離せ、ブラン!」
ノワールがもがくように、腕を振り払おうとする。
「離すか!」
ブランは、その力に負けじと、腕に力を込めた。
「お前を、手放したことを――何度、後悔したと思ってる」
「今度は……絶対に、離さない!」
二人の体が、水面に、沈んでいく――
バシャン、と大きな水音が、夜の闇に響いた。
波紋が幾重にも広がり、街灯の欠片を静かに揺らしていく。
その波紋が――少しずつ、少しずつ、収まっていく。
やがて――エスプリの貯水池に、再び静寂が訪れた。




