第五十三話 世間という名の劇場
王都の社交界では――ローズとノワールの婚約の話題が、連日、囁かれていた。
「アストリア公爵家が……平民出身の男を婿に迎えるって?」
「しかも、あの出版社の探偵でしょう?」
驚きと戸惑いの声が、扇の陰で次々と囁かれる。
だが、擁護する声も少なくなかった。
「仕事の評判は良いみたいだ。国民扶助法の調査でも、大きな功績を上げているそうだ」
「能力があるなら……悪くはないのでは?」
貴族たちの間では――「平民だからという偏見」と「出自ぐらいなら問題はない」という二つの意見に分かれていった。
貴族女性たちの間では――概ね、好意的な評価が広がっていた。
だが、批判の声は、主に男性貴族たちから上がっていた。
「所詮は、平民の成り上がりだ」
「アストリア公爵家も、地に落ちたものだな」
だが、公爵という立場ゆえに、表立ってローズを批判することは、誰にもできなかった。
その空気をノワールは、決して見逃さなかった。
◇
王都の貴族社会には――古くから、二つの議決機関が存在していた。
男性貴族による「貴族会」。そして、その妻たちによる「婦人会」。
仕組みは単純だった。
婦人会で承認された議案が、最終的に貴族会で改めて承認される。
つまり、女性たちの意見は、常に夫たちの承認という一段階を経なければ、通らない仕組みだった。
ノワールは、貴族教育の過程で、この仕組みの奇妙な点に気がついた。
「貴族会と婦人会……両方に、それぞれ、独立した予算が設けられている」
ノワールは、静かに資料を見つめながら呟いた。
「これは、無駄じゃないかな」
ある日の貴族会の場で――ノワールは、静かに提案した。
「契約伴侶制度が施行された、今……もはや、婚姻の形は一つではありません」
「貴族会と婦人会――この二重の仕組みを統一する、時期ではないでしょうか?」
その提案に、多くの男性貴族たちは頷いた。
(統一すれば……当然、貴族会の方が、主体に残るだろう)
(あの若造も、案外、分かっているじゃないか)
誰もが、そう考えていた。
両会の議員数、予算、議案の採決方法を精査した結果――婦人会を母体とする方が、より多くの貴族家の意見を反映できると判断された。
その決定に驚いた、男性貴族の一人がノワールに詰め寄った。
「おい……! これは、話が違うだろう!」
「妻の顔色を伺って……それでも、お前、夫か!」
その剣幕に、ノワールは悪びれることなく答えた。
「妻を支えるのが……夫の役目なので」
そのしれっとした答えに、場はしばらく静まり返った。
だが、誰も覆すことはできなかった。
なぜなら――この統一案そのものに、賛成の票を投じたのは他でもない男性貴族たち自身だったからだ。
◇
この一件は――確実に王都の空気を変えていった。
「国家予算の見直しと……女性の人権の両方を成し遂げたというわけね」
ある貴族女性が、感心したように呟いた。
ノワールを支持する貴族の数は――男女を問わず、静かに増えていった。
そして――婦人会が主体となったことで――これまで、通りにくかった消費者としての女性たちの意見や声が――政策に反映されるようになっていった。
その変化は――平民たちの貴族を見る目にも影響を与えていった。
「貴族も……変わり始めているのかもな」
そんな声が、王都のあちこちで聞かれるようになっていた。
◇
一方、平民の間では――まったく違う種類の噂話が広がっていた。
「あの記者が、公爵家の婿になるんだって?」
「マジかよ! ……じゃあ、俺たちにも、貴族になれるチャンスがあるってことか?」
「公爵家って、平民でもなれるのか?」
夢を見る者もいれば――同時に、危うい誤解も生まれ始めていた。
「努力すれば、貴族になれる」
という美談として消費される一方で――
「じゃあ、俺にも……」
という無責任な幻想を抱く者も、少なくなかった。
この誤解を封じたのは――インク・オブ・トゥルース社、そのものだった。
記事の中で、ノワールが――ただの幸運な平民ではなく、貴族女性たちからの信頼も厚く、今回の婦人会の件だけでなく、優秀に色々な事件を解決してきた実績のある人物であり、次期宰相と目されるアルフォンス・ヴァルメール自らが後ろ盾になっていることを、丁寧に文書に載せた。
「やっぱり、それだけ優秀な人物ってことか」
記事のおかげで、ノワールが幸運だけで公爵家に入った人物ではないという事実が、静かに世間に浸透していった。
予想外の反応をしたのは女性たちだった。
「ローズ様、思い切ったわね」
女性たちの間では――また、別の感情が広がっていた。
公爵令嬢ではなく、すでに公爵家当主。
その立場にある彼女が――政略結婚の駒として、生きるのではなく――自らの意志で、結婚相手を選んだという事実。
「家のために、政略結婚をするしかないと思っていたけれど……」
「人生って、自分で決めていいものだったのね」
その選択は、多くの女性たちにとって、密かな支えとなった。
「自分で道を開き、結婚相手を選んだ公爵夫人」
という評判が貴族の女性中心に広まっていった。
だが、一般の庶民の間では――さらに、違う物語が新たに作られていった。
「今、話題の公爵令嬢と探偵って、事件を通して知り合ったんだろ?」
「公爵令嬢が、探偵に惚れたんじゃないか?」
「公爵夫人に見初められる美男子らしい」
真相を知らない人々の間で、勝手な恋愛ストーリーが、次々と作り上げられていった。
やがて、二人の姿絵やモチーフを題材にした、小説や演劇まで開催されるようになり――その世論は、さらに、後押しされていった。
王都の経済を支える商人たちも、この話題は無視できなかった。
「この、結婚……ただの男女関係じゃないぞ」
商人たちの間では――また、違う視点での憶測が飛び交っていた。
「アストリア家が、情報産業に手を伸ばすのか?」
「インク・オブ・トゥルース社に、公爵家の資金が入るのでは?」
「いや、逆だ。……インク・オブ・トゥルース社が、公爵家の情報網を使うようになるのかもしれん」
その憶測が広まるにつれ――ノワールだけでなく、兄であるブランにまで、腰が低くなる商人が続出するようになった。
「ロペスさん! お噂は、かねがね……」
ブランは、その態度の変わりように――ただ、苦笑するしかなかった。
◇
インク・オブ・トゥルース社では、いつもの面々が集まっていた。
「ノワール様、ねえ」
今日も貴族教育へ向かうノワールを見ながら、ブランが軽口を叩いていた。
「兄さん、それ、絶対わざとだよね」
「事件現場では平気な顔してるノワール・ロペスが、貴族教育には、今にも音を上げそうな顔をして……」
ヴィクトルが、面白そうに続けた。
「ロペス弟、貴族の礼儀とか大丈夫なのか? 失礼にあたらないと、いいが……」
ベルジェが、心配そうに口を挟む。
「ベルジェさんには……言われたくないよ」
ノワールが、げんなりした様子で答えた。
「僕だって、好きで貴族になるわけじゃないからね」
ノワールは、講習に通うべく荷物準備が終わると、それだけ言い残して、事務所を出た。
その言葉とは裏腹にノワールは、マナー講習を一度も休むことなく、通い続けていた。
その根性に――後ろ盾となったアルフォンス・ヴァルメールも、講師を引き受けたエミール・ヴァルメールも――いつしか、まるで、自分の子どもを見守るような気持ちになっていた。
「頑張ってますね、ノワールさん」
エミールが微笑んだ。
「もう少しで、カドリールも完璧になりそうです」
「ありがとうございます」
ノワールが、汗を拭いながら答える。
「これだけ、頑張っているんだ。二人とも、幸せになってほしい」
ノワールの様子を見に来ていたアルフォンスが、静かに呟いた。
「私たちが、そうなれたように」
エミールも静かに頷いた。
王都のあちこちで様々な思惑と噂と、そして、応援が交差していた。
「ノワール、レッスンお疲れ様。夕食にビストロブノワに行かない?」
「汗流してからでもいい?」
「そんな堅苦しい店じゃないわよ?アラカルトの種類が豊富なの」
「もう、お腹ペコペコだよ」
その渦の中心にいる当のノワールとローズは――そんな世間の喧騒をどこか遠くに感じながら、二人の時間を重ねていた。
王都には――下弦の月が、静かに浮かんでいた。
満月から、もう随分とその姿は小さくなっていた。




