第五十二話 愛ゆえに
王都に戻った、その足でブランはローズに面会を申し入れた。公爵であるにも関わらず、ローズ・アストリアは、その場でブランを屋敷に招き入れた。
「こんな時間にすまない」
時計の針は、すでに深夜を指していた。
「あなたは、義兄になるんだから気にしないで」
ナイトガウンを羽織ったローズは、普通の女性に見えた。
アストリア邸に着くまで、ブランはローズを言いくるめるつもりだった。
しかし、ローズが家族として受け入れてくれている様子に、ブランは静かに打ち明けた。
「これから、ノワールに危険が迫るかもしれない」
ブランは、ロペス兄弟の秘密をローズに打ち明けた。
それは――ノワールを、ローズに託すことを意味していた。
――ローズは、しばらく、何も言えなかった。
「……ノワールは、ずっと、偽りの自分を背負って生きていたのね」
「……結婚は、中止するか?」
ブランの声には、"否定して欲しい"という切実さが滲んでいた。
「まさか。逆に、はっきりと分かったわ。私がノワールに共鳴したのは運命ってね」
ローズは、微笑みながら言った。
「もし、俺に――何かあった時は」
「言わなくても、いいわ」
ローズが、静かに遮った。
「あなたがノワールを思うように、私にとってもノワールは特別な存在なの」
ブランは、静かに頭を下げた。
「あなたも一人で背負い込まないで。お義兄さん」
ローズは、その後――何もなかったかのように、静かに微笑んでいた。だが、その胸の内では――ブランに、何かあった時、自分がグリースを支えなければという静かな決意があった。
◇
その日を境に――ローズのノワールへの態度は、少しずつ変わっていった。
「ノワール、無理はしないで」
「ノワール、今日は、もう休んでいいわ」
「ノワール、あなたはもう公爵家の人間よ。危ないから、一人で出歩かないで」
ノワールも、最初は、ローズの優しさだと思っていた。
しかし、日を追うごとに――その気遣いは、過剰になっていった。
◇
ある夜会で――事件は、起きた。
「まあ、ノワール様は、随分と大事にされているのね」
意地の悪い貴族の女性が、扇の陰で囁いた。
「まるで、赤ん坊のように扱われて」
周囲の笑いが、ノワールの耳に突き刺さった。
その夜、アストリア邸に戻ると――ノワールは、静かに口を開いた。
「ローズさん」
「何?」
「僕は……」
ノワールの声が、微かに震えていた。
「あなたにとって、都合のいい存在なのは――分かっているんです」
ローズが、目を見開いた。
「偽装結婚の相手として。……秘密を共有できる、便利な存在として」
「ノワール……」
「でも、最近のローズさんは過保護すぎる――今日、僕の思い過ごしじゃないと分かった」
ノワールの声が、途切れた。
「僕は……分からない。あなたにとって、一体、僕は何なんだろうって」
◇
ローズは、しばらく無言だった。
彼女の、心の中には――ブランから、打ち明けられた、あの不安が渦巻いていた。
(もし、あなたに何かあったら……)
ローズは、その思いを口にはしなかった。
それを口にすれば、ブランとの約束を反故することになる。
それだけではない。ノワールがブランと一緒に、その危険の中に飛び込んだら――。
「ノワール」
ローズは、まっすぐにノワールを見つめた。
「あなたは、もう――他人じゃないわ」
その声には、これまでにない強さがあった。
「私は、あなたのために――命を差し出すつもりで、結婚するの」
「それ、は……」
「都合のいい相手だからじゃない」
ローズが、静かに続けた。
「あなただから――そう、思えるのよ」
◇
ノワールは、しばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。
「僕には……」
ノワールは、静かに口を開いた。
「どうして、あなたが、そこまで、僕を想ってくれるのか――正直、分からないんです」
その言葉は飾らない、素直な疑問だった。
「恋とは、そういうものよ」
ローズが、静かに微笑んだ。
「理由なんて、後から、いくらでも見つかる。……でも、始まりは、いつも分からないものなの」
「僕は……」
ノワールは、静かに目を伏せた。
「まだ、恋というものが――分からないんです」
その声は、掠れていた。
「でも……」
ノワールは、ゆっくりと顔を上げた。
「もし、これから、恋というものを――知ることがあるのなら」
その瞳には、これまでにない、静かな確かさが宿っていた。
「あなたが――いい」
その一言に、ローズの頬が少しずつ染まっていく。
やがて――彼女は、少し照れながら呟いた。
「……ずるい人ね」
ローズは、溜め息混じりに笑った。
「そんな言い方――反則よ」
◇
その夜――事務所に戻ったノワールは、いつもより、穏やかな表情をしていた。
「兄さん。僕、ローズさんと――ちゃんと、話せたよ」
「そうか」
ブランは、静かに頷いた。
その表情には――安堵とも、罪悪感ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。
(お前が幸せなら……それだけで思い残すことはない)
ブランは窓から、覗き込む更待月を見ていた。満月から、もう随分とその姿は小さくなっていた。
窓の外には、王都のいつもと変わらない夜が広がっていた。
ブランの中に――安心と寂しさ、そして――これから起こる出来事への緊張が、静かに共存していた。




