第五十一話 クッキー缶の中の家族
「あんたに、頼みがあるんだけど」
病室で、トリッシュが、静かに切り出した。
「なんだ?」
ベルジェが、クロスワードから顔を上げる。
「退院したら、取りに行きたいものがあるの」
トリッシュの声には、これまでにない切実さが滲んでいた。
「故郷に……」
「故郷?」
ベルジェの手が止まった。
「ちょっと王都から離れているんだけど、ラメント村っていう場所なの」
「あいにく、俺は王都生まれの王都育ちだからな。友達に聞いてみよう」
ベルジェは、すぐに、インク・オブ・トゥルース社を訪ねた。
「トリッシュが退院したら『ラメント村』に行きたいって言ってるんだが、場所は分かるか?」
「なんだと?」
ブランが、思わず立ち上がる。
「俺も同行する」
ブランは、迷いなく答えた。
◇
退院後もトリッシュには、王国保安局の監視がついていた。
「すごいな、トリッシュ。貴賓扱いじゃないか」
ベルジェは悪気なく、トリッシュに言う。
「両手に、ミスターレグナードのコンテスト出場者。後ろからは保安局員」
トリッシュは、ちらりと後方を伺った。保安局員たちは、もう、距離を取ることもなく、静かに付き従っていた。結局、彼女が、監視下にあることに、変わりはなかった。
こうして、ブラン、ベルジェ、トリッシュ、そして、保安局員二名――計五人で、ラメント村に向かうこととなった。
「おお……見事に何にもないな」
村の入口に辿り着いたベルジェが呟いた。
「憲兵隊が調査に入ったのだろう……食器や家具類まで押収されている」
かつて、一晩で村人が消え去り、無数の案山子だけが立っていたラメント村。
今は、ただ、朽ちかけた家々だけが、静かに残されていた。
ケシを栽培されていた畑には、立入禁止のバリケードテープが貼られている。
「めぼしいものは見当たらないが……」
ブランが、静かに促す。
トリッシュは迷うことなく、村の外れにある、古い納屋へと向かった。
「ここの……床板」
トリッシュが、震える指で一角を示す。
「剥がして、欲しいの」
ブランは頷くと――持参した道具で、慎重に床板を剥がし始めた。
古びた床板は簡単に取り外せた。――床下に埋められていたのは、一つの錆びたクッキーの空き缶だった。
「これね……小さい頃の宝物箱」
トリッシュの手が震える。
彼女は、その缶を拾い上げると――ゆっくり、蓋を開けた。
中に、入っていたのは――一枚の色褪せた写真だった。
ブランは、その写真を覗き込んだ瞬間――息を呑んだ。
そこに写っていたのは――幼いトリッシュと、ジョーン・スミス、そして、その妻らしき女性だった。三人は、まるで――本当の家族のように、寄り添い笑っていた。
「これは……」
ブランの声が掠れる。
「幼い頃、身売りされた私を……」
トリッシュが、静かに語り始めた。
「ジョーンじいちゃんと、その奥さんが……まるで、本当の子どもみたいに、可愛がってくれてたの」
「あの頃は……本当に幸せだった」
トリッシュの目に涙が滲む。
トリッシュの様子を見ていたブランが、重い口を開いた。
「この男の居場所を知っている。ただ、会っても……あなただと、分からないかもしれない状態だが、それでも……行くか?」
トリッシュは、しばらく、迷っていたが――やがて、静かに頷いた。
ラメント村から戻った、その足で――ブランは、トリッシュをジョーンが入所している介護施設へと連れて行った。
案内された部屋には――車椅子に座ったジョーンの姿があった。
ジョーンの姿を見たトリッシュは、駆け寄った。
「ジョーンじいちゃん!私だよ」
トリッシュは、ジョーンの温もりを確かめるように、ジョーンの手を握りしめた。
ジョーンは、しばらく、ぼんやりと彼女の顔を見つめていた。ジョーンには彼女が、誰かはもう分からなかった。
トリッシュも、そのことは理解しているつもりだった。しかし、彼女の瞳から大粒の涙が落ちていく。
ジョーンは、静かに微笑むと――トリッシュの頭をそっと撫でた。
「よしよし。……良い子ちゃん、良い子ちゃん」
その優しい手つきに――トリッシュは、堪えきれず声を上げて泣き出した。
「ジョーンじいちゃん……ジョーンじいちゃん……!」
ジョーンは、彼女が誰であるかを覚えていない。
それでも――その手は、確かに、記憶の奥底にある、何かを覚えているようだった。
部屋の隅で――その光景を見守っていたブランとベルジェ。
ふと、ブランが横を見ると――ベルジェが、大粒の涙を流していた。
「べ、ベルジェさん……?」
「……うっ、うう」
ベルジェは、声を殺しながら泣いていた。
「なんで、あんたが泣いている……」
「俺は……」
ベルジェが、洟をすすりながら答えた。
「こういうの、弱いんだ」
そのあまりにも、素直な涙に――ブランは、思わず苦笑した。
(当人たちより……泣いてるじゃないか)
施設からの帰り道――トリッシュは、口を開いた。
「私、決めたよ」
「なんだ?」
ブランが尋ねる。
「王国保安局に、証言する」
トリッシュの声には――これまでにない、確かな強さがあった。
「その代わり、条件を出すつもり。……ジョーンじいちゃんと私の保護してもらう」
「本当に、それでいいのか?」
ブランが、静かに確認する。
「うん」
トリッシュは、静かに頷いた。
「あの人を……もう、一人にはさせない。今度は、私が――守る番だから」
◇
数日後――トリッシュは、王国保安局の保護下に移されることになった。
「じゃあな」
ベルジェが、いつものようにあっけらかんと告げる。
「クロスワード、持っていけ」
「先生、やること、なくなっちゃうわよ?」
トリッシュが、静かに微笑んだ。
「餞別代わりだ。もし、何かに迷ったら会いに来い。俺は、いつでもここにいる」
「……私、これから、証人プログラムなんだけど」
「そうだな……だが、心に帰れる場所があった方がいい」
トリッシュの目に、静かに涙が滲んだ。
「私、こんな涙脆くないはずなのに……先生には、泣き顔ばっかり見せているね」
ベルジェは、何も言わなかった。
やがて、ぽつりと呟いた。
「達者でな」
「先生も」
トリッシュは、静かに笑うと――保安局員に、連れられて出ていった。
その背中を――ベルジェは、しばらく黙ったまま見送っていた。
王都の街には――有明の月が静かに細く浮かんでいた。
――もう随分と、月の姿は失われていた。
見えなくなっても、そこには存在している。




