第五十話 クロックムッシュを食べるまで
夜が白んで間もない頃――。
慌ただしく、インク・オブ・トゥルース社の扉がノックされた。
髪はボサボサで寝巻き姿のままのブランが、扉越しに相手を確認する。
「俺だ!ヴィクトルだ。」
ブランが扉を開けると、憲兵隊の制服姿のヴィクトルが立っていた。
「こんな時間に、どうした?」
「トリッシュ・ルーデスが自殺を図った……」
ヴィクトルの言葉に、ブランの目が大きく見開かれる。
「釈放されていたのか?」
「黙秘を貫いて勾留期間を迎えた後、王国保安局の二十四時間監視下に置かれていた。それで、自殺に気づけたんだが……今のところ、病院に搬送されたという情報しか入ってない」
◇
前日、深夜――。
王都メディカルケアに、救急搬送されてきたのは――一人の、若い女性だった。
「薬物の、過剰摂取だ」
運び込んできた王国保安局員が、慌ただしく、告げる。
「身元は?」
当直医が、静かに尋ねる。
「トリッシュ・ルーデス。……いや、マリー・デュシャンの名でカルテが残っているかもしれない」
その名前に、処置室の隅で書類を整理していたベルジェの手が止まった。
「新聞に載ってた……」
「午後の外出から戻った後、部屋の灯りが点かないことに不審に感じ、訪ねたら……この状態だった。」
王国保安局員が続けた。
「この薬を過剰摂取したようだが、どのくらいの錠数を服用したのかは分からない」
ベルジェは、空のケースを保安局員から受け取ると、処置室に入っていった。
「意識レベル、低下。……とりあえず、生理食塩水で様子見だな」
処置を終えたベルジェが、誰に言うでもなく告げる。
トリッシュは、点滴に繋がれたまま、ベッドの上で寝ていた。
「こんな安物の薬じゃ、あんたの願いは叶えられないだろうな」
「目が覚めたら、死んだつもりで生まれ変われよ」
「病院の近くに出来た喫茶店のクロックムッシュ食べたことあるか? 旨いぞ! あれを食べずに死ぬのは馬鹿だ」
ベルジェの一方的な話し声に反応して、トリッシュのまぶたがうっすらと開く。
「……さっきから、うるさい」
トリッシュが、掠れた声で呟く。
「おう、目が覚めたか? 気分はどうだ?」
ベルジェが、あっけらかんと尋ねる。
「最悪……」
トリッシュは、静かに目を伏せた。
「なんで、助けたのよ……」
「患者に、貴賎はないからな」
ベルジェが、堂々と答えた。
「俺の前に寝転んでる人間は、みんな同じだ」
トリッシュは、しばらく、何も言わなかった。
◇
翌日から、ベルジェは当直のたびに、トリッシュの病室に顔を出すようになった。
「クロスワード、得意か? ここが分からなくてな」
ベルジェが、勝手に椅子を持ち込んで座る。
「六文字の横の言葉で……『秘密裏に行われる取引』」
「……興味ない」
トリッシュが、そっけなく答える。
「そうか。……じゃあ、次な。『昔、親しかった相手』」
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、これ分かったぞ。『暗躍』だ」
ベルジェは、トリッシュの反応など、まったく気にする様子もなく、一人で喋り続けた。
クロスワードの話。
今日の病院食の話。
ミスターレグナードのコンテストの話。
マフィアのボスに執刀した時の話。
トリッシュは、最初は、その様子に呆れていた。
だが――日を追うごとに、そのあまりにも、一方的な"平常さ"に――少しずつ、心が緩んでいくのを感じていた。
(この男……私が何者か、知っているはずなのに)
(なんで……何も聞いてこないの?)
トリッシュは、ベルジェの素振りに、落ち着かなかった。
◇
ある夜――ベルジェが、いつものように、クロスワードを解きながら、椅子に座っていた。
「あんたさ」
トリッシュが、ぽつりと口を開いた。
「なんで、私のこと、気味悪がらないの?」
ベルジェが、クロスワードから顔を上げる。
「私が、何したか、知ってるんでしょ?」
「まあ、新聞を読むからな」
「なのに……普通に、話しかけてくる」
トリッシュの声が、微かに震えた。
「私が育った世界は、違った」
ベルジェは、何も言わず、ただ、耳を傾け続けた。
「最初の頃は……みんなで助け合って……仲が良い家族みたいだったの」
トリッシュが、静かに語り始めた。
「私が入って、しばらくしたら……少しずつ変わってきた」
トリッシュの声には、どこか乾いた、諦念が滲んでいた。
「私なんて、今は……ただの駒の一つ。使えなくなったら、それで終わり」
「私が失敗した途端――私を亡き者として扱った。王国保安局にマークされているお荷物……用済み。一人ぼっちよ」
トリッシュは、両手を見つめた。
「そもそも、上の連中は……誰のことも、人として見てない。見てるのは……役に立つか、立たないか」
トリッシュの声が、掠れる。
「そういう組織……になってた」
しばらく、沈黙が続いた。
トリッシュは、天井をぼんやりと見つめながら――独り言のように続けた。
「昔は、人目を避けた農村みたいな雰囲気だったの。……変な言い方だけど、居心地は悪くなかった」
「でも……」
トリッシュの声が、少し遠くなる。
「リーダーが倒れて、その息子が跡を継いで……すべてが変わったの」
「若いグループを中心に――お金を稼ぐことばかりが、大事になっていった」
「そのうち……古い考えの人たちと新しいやり方を押し進める人たちで、意見が二手に別れてね」
「新しいリーダーは……古い人間を組織から、排除していった。私を可愛がってくれたジョーンじいちゃん。あの人も……その頃、いなくなった」
「私たち、子どもは……」
トリッシュが、目を伏せた。
「強い者に従うしかなかった」
その言葉には――諦めと微かな悲しみが滲んでいた。
ベルジェは、それでも何も言わなかった。
ただ、静かに、クロスワードのペンを動かし続けていた。
「暗い話して、悪かったわね」
トリッシュが、悲しそうに笑った。
「あんたに話しても、しょうがないのにね」
ベルジェが、ようやく顔を上げた。
「この病院の近くにある喫茶店のクロックムッシュ食べたことあるか? 」
「旨いぞ」
その、あまりにも素っ気ない返しに――トリッシュは、思わず小さく笑った。
「……それ、夢の中でも聞いた気がする」
「食いたくなっただろう?」
「食べてみたくなった」
トリッシュが意識を取り戻して、初めてのやりたいことだった。
◇
数日後、ベルジェは、いつものように、事務所に立ち寄っていた。
「なあ、ベルジェさん。トリッシュ・ルーデスっていう女性が、あんたの働いている病院に、入院してないか?」
ブランが、いつものように、ソファーに寝転ぶベルジェに尋ねる。
「俺は、医者だ。患者のプライバシーについては話せん」
ブランが、静かに溜め息をついた。
「だが、友人のトリッシュは元気だ」
ベルジェが、あっけらかんと答えた。
「……友人?」
ブランは、しばらく、ベルジェの顔を見つめていた。
「その『トリッシュ』って、トリッシュ・ルーデスか?」
「ああ。トリッシュは、今、自分は一人ぼっちだと思っている。そこから、やり直せるかは自分次第だ」
ベルジェの真意は――ブランにも、掴みきれなかった。
ただ、トリッシュが一人ぼっちということは、組織から切られたということが分かった。
「何かあったら、言ってくれ」
「おう」
ベルジェは、軽く答えると――寝転がりながら、夕刊に目を落とした。
窓の外には――居待月が浮かんでいた。
満月から、少しずつ――その光は欠けていく。




