第五話 焼き付いた真実
インク・オブ・トゥルース社の扉を、震える手で開けたのは、王都の老舗写真館「フェルマン写真館」の店主、オスカー・フェルマンだった。
「た、助けてください……」
几帳面で口が堅いと評判の男が、顔面蒼白で立ち尽くしている。
「落ち着いてください。何があったんですか?」
ノワールが椅子を勧めると、オスカーは震える声で絞り出した。
「人を殺した写真を、見てしまったんです」
事務所に、一瞬の静寂が落ちた。
「詳しく聞かせてくれ」
ブランが、静かに言う。
◇
本日、午前九時――。
オスカーの写真館に、一人の女性客が訪れた。
「ホリデーに主人が撮った写真なんだけど、週末に兄弟たちが集まるから急ぎでお願いしたくて」
開店直後に来たのは、王都憲兵隊員であるロイド・ハルトマンの妻エミリアだった。
「フェルマンさん、急でごめんなさいね」
「いえいえ、お得意様ですから」
「ありがとう。夫にはカメラを買い換える時はフェルマンさんのお店で言っておくわ」
エミリアは屈託なく笑い、フィルムを預けて帰っていった。
◇
その日の夕方――。
客足も途切れてきたので、いつも通りオスカーは暗室に籠り始めた。
「そうだ、ハルトマンさんの現像は急ぎだった」
フィルムを現像液に浸す。
しかし、そこに浮かび上がってきたのは――ホリデーの写真とはほど遠いものだった。
拘束された女性だった。
衣類には乱れた形跡があり、擦過傷のようなものが見受けられた。
「な……」
オスカーは見間違いかと思い、別の写真を見た。
血痕らしきものが飛び散った床。
山中の暗い茂み。
動かなくなった人の姿。
一枚、また一枚。現像バットに浮かぶのは、次第に地獄の様相を帯びていく。
大量の遺体写真。何度も、何度も繰り返される、拘束と死の記録。
そして、最後の一枚――。
オスカーの手が、止まった。
そこに写っていたのは――従姪のソフィア・フェルマン。
数ヶ月前から行方が分からなくなっていた、あの子だった。
「ソフィア……?」
声にならない悲鳴が、暗室に響いた。
その時だった、写真館の扉が叩かれた。
「今日、妻が持ち込んだネガを返してくれ」
立っていたのは、息を切らしたロイド・ハルトマン本人だった。
真面目で、市民からの評判も高い王都憲兵だ。
だが、その時のオスカーの目には、その笑顔が別人のものに見えた。
「は、はい、少々お待ちを……」
オスカーは震える手を必死に抑え、棚の奥から、同じメーカーの別の――まだ現像していない未使用のフィルムを取り出した。
「こちらで、よろしいでしょうか?」
ロイドは、フィルムを受け取りながら、じっとオスカーの目を見た。
「中は、見ましたか?」
心臓が、凍りついた。
「……見て、ません」
声が震えているのが覚られないよう、必死に堪えて答えた。
「そうですか」
ロイドは、それ以上何も言わず、静かに店を出て行った。
オスカーは、先ほどのネガフィルムとまだ乾ききっていない写真を持って、インク・オブ・トゥルース社に向かった。
◇
「なるほど……」
ブランは、オスカーから預かった写真の束を、一枚ずつ机に並べた。
オスカーの証言通り。急いで持って来たのだろう。
写真には指紋や引っ掻き傷がついていた。
「ネガが残っている以上、犯人は必ず回収に来るだろう」
「本物のネガを渡さなかったのは、正解だったね」
ノワールが、写真を覗き込みながら言う。
「でも、いつまでも誤魔化せない。ロイドは、いずれ気づく」
「だからこそ、急ぐ必要がある」
ブランは、写真の細部を一つ一つ検分していった。
背景に映り込んだ木々の種類。
山の稜線。遠くに霞む建物の屋根。地面に落ちる影の角度。写り込んだ靴跡。
そして、遺体のそばに落ちていた、布の切れ端。
「影の角度からして、これは夕方に撮られている。木の種類は、王都近郊でも北の高地に多い品種だ」
「この建物の屋根……」
ノワールが指差す。
「これ、王都北のバー『黒鳥亭』の近くにある見張り小屋じゃないかな」
「黒鳥亭?」
「男女が出会いを求めるバーだよ」
「場所が絞れたな。」
ブランは、現地へ向かった。
手元の灯りでは遠くまで見渡せない。
街の方向を見て、ライトアップされた黒鳥亭の看板を探した。
「写真の位置から考えると北西に二十メートルくらいか」
ブランは写真と景色を照らし合わせた。
写真と同じ倒木。
同じ岩。
同じ木。
自分の腕を伸ばして親指や人差し指を立てながら距離を図る。
「……ということは写真の通りなら遺体はここか」
ブランは数か所に円匙を差し込んだ。三か所目だけ、不自然に土が柔らかい。
「ここか……」
ブランは土にまみれながら、掘り進めていくと、やがて円匙が固いものに当たった。
慎重に掘り返すと、中から白骨が出てきた。
「予想通りだ」
ブランは白骨の一部を証拠袋に入れると王都憲兵所へ向かった。
「やあ、隊長さん」
そう呼ばれた王都憲兵隊長――ヴィクトル・グランジェは、露骨に嫌そうな顔をした。
「ロペス……今度は何の事件だ?」
ブランは証拠袋を机の上へ置いた。
「これ……人骨か?」
「ああ。犯人は現職の王都憲兵かもしれない。現場検証を頼む。」
王都憲兵隊長は腹部を擦った。
「お前に関わるとろくなことがない」
ブランはニヤリと笑った。
「容疑者が現職の王都憲兵である以上、王都憲兵隊だけでは公正な捜査ができない。保安局にも協力を要請する。」
翌日、現場の森林公園では王国保安局が捜査を開始した。
◇
一方、ノワールは近年の若い女性の失踪事件を洗い直していた。
黒鳥亭には今日も若い男女が賑わっていた。
ノワールはカウンター席に座ると、バーテンダーに声をかけた。
「最近、若い女性の失踪が多いらしいね」
バーテンダーはシェイカーを振りながら言った。
「毎晩、若い女が何人くると思っている?」
ノワールは溜め息をついた。
その姿を見た常連の女性客がノワールに話しかけた。
「私、毎週バーに遊びに来るんだけど、王都憲兵さんが女性を送る姿は何度か見たわよ。」
「詳しく聞かせてくれない?」
「それだけよ。その時は、職務質問されているのかと思ってたのよ。」
「いや、参考になった。マスター、そのカクテルはこのお嬢さんに」
ノワールは急いでインク・オブ・トゥルース社に戻った。
「あの辺で最後に見かけられた失踪者は全員、若い女性。しかも、全員が店の常連じゃなかった」
ノワールが地図に印をつけていく。
「ここがロイドの家。ここが王都憲兵所。ちょうど中間にあるのが黒鳥亭だ。ロイドはそこの常連客で、店の死角も熟知している」
「被害者たちは覚えている人はどうだ?」
「常連じゃないから、いなくなっても誰も気に留めない。家族が捜索願いを出す頃には、酒の入った客の記憶からすっかり消えているよ」
ブランの目が、鋭くなった。
「用意周到だな」
◇
翌日の深夜――。
フェルマン写真館の裏口に、人影が忍び寄った。
ロイドだった。
ロイドはフィルムをまとめて購入していた。
新しいフィルムをカメラに装填しようとした時、ふと写真館から返却されたフィルムに目をやる。
製造番号のアルファベットが違う――。
「証拠は、燃やすしかない……」
手には、油の入った瓶を持っていた。瓶の中身を戸口に撒き、マッチを擦った、その瞬間――。
「こんばんは。王都憲兵さん」
暗がりから、ブランの声が響いた。
「な……!」
ロイドが振り向くと、そこにはブランとノワール、そして物陰に控えていた王都憲兵隊の応援が立っていた。
「ロイド・ハルトマン。証拠隠滅、そして――複数の女性に対する誘拐、殺人の容疑で逮捕する!」
王都憲兵隊長が声をあげた。
「証拠なんて、どこにある!」
ロイドが叫ぶ。
「あるさ。お前が埋めた遺体も、お前が撮った写真も。」
ブランは、静かに地面に落ちたマッチの火を消した。
「写真は燃やせても、写った真実までは、燃えない」
ブランの声が、夜の静寂に響く。
ノワールが、複製した写真の束と、現場から採取した木の種類、地形の一致、そして被害者たちの足取り調査の記録をロイドの前に突きつけた。
「これをホリデーの写真と思っていた奥さん、気の毒だね」
ロイドは、その場に崩れ落ちた。
◇
取り調べの中で、ロイドの異常な性癖が明らかになった。
彼は、自らの犯行を写真として記録することに、病的な執着を持っていた。犯罪を自分だけの「作品」として残す――。それは、彼にとって唯一の慰みであり、証だった。
妻のエミリアは、家族写真だと思い、何の疑いもなく、いつも通り写真館へ現像を依頼していた。
自らの手で、夫の犯罪を白日の下に晒すことになるとは、彼女自身、夢にも思っていなかった。
◇
数日後、王都に出回った告発本には、こう記されていた。
『人は一瞬会った人との記憶を簡単に失う。
だが、写真はその瞬間を記録して真実を永遠に残す。
王都の王都憲兵として市民に信頼されていたロイド・ハルトマン。
市民を守るはずだった男が残したものは、 勲章ではなく、 ネガフィルムに焼き付けられた女性たちの最期だった。
残酷で悲しい真実は、ネガの中で、静かに生き続けていた。――ブラザーズ・ロペス』
この事件は、王都中に衝撃を与えた。信頼していた王都憲兵の裏切り――。そして、写真という媒体が持つ、残酷なまでの誠実さ。
◇
事件後、オスカーは静かに写真館の暗室の前に立っていた。
「大丈夫ですか?」
様子を見に来たブランに、オスカーは力なく笑った。
「ソフィアの写真を見た時、私は写真を憎みました。あんな残酷なものを、写し出してしまうのかと思うともう……」
オスカーは、壁に飾られた家族写真を見上げた。
「……皮肉なことに、あの写真がなかったら、彼女たちは行方不明者のままだった。あなたが彼女たちに光を当てたんだ」
ブランが静かに言う。
「後悔するのは自由だ。ただ、今日ようやく家族を見つけられた人たちがいることを忘れるな」
オスカーは、頷いた。
窓の外では、王都の街に、いつも通りの夕陽が差し込んでいた。
その光もまた、いつか、誰かのフィルムに焼き付けられるのだろう。
真実も、嘘も、悲しみも、幸福も――。
すべてを等しく、静かに写し取りながら。




