第四十五話 三層の防御
その日、インク・オブ・トゥルース社には厳粛な空気に満ちていた。
次期宰相と言われるアルフォンス・ヴァルメール議員が、事務所のソファーに腰掛けて、ノワールの出した珈琲を飲んでいた。
新聞やポスターでは何度も見かけた顔だが、実際、目の前にしたアルフォンスには存在感があり、ロペス兄弟も軽口が叩けない雰囲気を纏っていた。
「まずは……私の冤罪を晴らしてくれて、ありがとう。君たちのおかげで、ようやく契約伴侶制度も施行された。」
アルフォンスは、左手の薬指のリングを触りながら言った。
「本来なら、もっと、早くにお礼に伺うべきだったのが……君たちも、ご存じの通り、国家は今、消えた世帯を追うことで忙しくてね。つい、不義理を働いてしまった」
そう言って微笑むアルフォンスは、驚くほど気さくな人柄だった。緊張に包まれた部屋の空気が変わる。この不思議と人を惹きつける魅力が、宰相まで登り詰めたカリスマ性なのだろう。
「アストリア公爵より、婚姻するにあたり、後ろ盾になって欲しいと頼まれた。私としても、縁のある君たちだからこそ、喜んで協力したい」
アルフォンス・ヴァルメールが、静かに告げた。
「それで……ノワール・ロペス。私が君の後ろ楯になったとしても、公爵家にふさわしい人間になれるかは、君次第だ」
アルフォンスが、机の上に分厚い貴族名鑑と資料を置く。
ノワールが、資料に目を通す。
そこには、貴族たちの家族の経歴や趣味嗜好といった、プライベートな内容がびっしりと記載されていた。
「公爵家で生きていくのなら、これを頭に入れるように。それと……君はダンスは踊れるか?」
ノワールは、資料をめくる手を止め顔を上げる。
「ワルツなら……」
「アストリア公爵をエスコートするなら、他のダンスを覚えろ」
「ダンス……?」
「たかが、踊りと思うな。貴族のマナーは付け焼き刃で誤魔化せても、華は自分で磨くしかない」
大輪の華のようなアルフォンスに言われると、ノワールは何も言い返せなかった。
「心配するな、とっておきの講師を用意している」
アルフォンスが含みのある笑みを見せた。
◇
翌日、ノワールが指定された場所に出向くと、そこにいたのは――アルフォンスの秘書であり、公私をサポートする夫、エミール・ヴァルメールだった。
「お待ちしておりました。ノワールさん」
物腰の柔らかいエミールの姿を見て、安堵したノワールだったが、一時間後には、その考えを改めた。
「ノワールさん、背筋伸ばして! ……もう一度」
インク・オブ・トゥルース社で見たエミールとは、別人のような熱血ダンス講師のように指導する。
「エミールさん、正直……仕事より疲れるんですけど」
ノワールが、肩で息をしながら答える。
「実は、私から、主人にお願いしたんです」
エミールは、いつものように、静かに微笑んだ。
「私たちは、この大きな借りが返せるのは、今しかないと思っています。主人は、アストリア公爵とノワールさんの結婚式の立会人になるのを楽しみにしているくらいです」
エミールは、静かに続けた。
「そんな大袈裟な」
「いいえ。あなたたちのおかげで、私たちは――今の幸せを手にできたんです。せめて、これくらいは」
その日から、ノワールの貴族教育が本格的に始まった。
貴族名鑑の暗記や、パーティーでの立ち居振る舞いのようなマナーは――ノワールにとって、意外にも苦にならなかった。
「普段の仕事で、やってきたことだから」
ノワールが、涼しい顔で言う。
「社交界に潜り込むのも、慣れたものだし」
「さすが、ですね」
エミールが、感心したように頷いた。
問題は――ダンスだった。
以前、アルフォンスが言っていた通り、こればかりは一夜漬けという訳にはいかない。
「ノワールさん、ダンスは一人で踊るものじゃありませんよ! ちゃんと、リードして」
「はい!」
ノワールが、荒い息の下で答える。
「でも……このバロックダンスってやつ、なんですか、この複雑さ」
メヌエット。ガボット。クーラント。
優雅なステップと、幾何学的な移動の決まりごと。
そして――四組のカップルが向かい合い、隊列を変えながら、踊るカドリール。
「もう一度、頭から!」
エミールの厳しい声が飛ぶ。
ノワールの体は、日を追うごとに、ボロボロになっていった。
「仕事の何倍もキツいなんて……貴族って意外と楽じゃない……」
ノワールが、帰宅早々にソファーにへたり込みながら呟いた。
「身分の垣根を越えて、みんなが俺たちに協力しているんだ」
ブランは、ノワールを諭すように言った。
「僕だって、それは分かってるよ……っていうか、兄さんは日中、何しているのさ」
ノワールが唇を尖らせて言った。
「俺か? 俺は……」
◇
その日――ブランは、王都週報の編集部を訪ねていた。
「久しぶりだな」
編集長が、懐かしそうに笑った。
「怪文書のことで、来たんだろう?」
「話が早くて助かる」
ブランは、静かに資料を机に広げた。
「弟の婚約について――大々的に、報じて欲しい」
「噂のロペス兄弟の弟か――」
編集長は、資料に目を通すと――やがて、にやりと笑った。
「こいつは……」
彼の目が輝いた。
「独占大スクープじゃないか」
「協力してくれるか?」
「当たり前だ、表紙と巻頭に特集を組んでやる」
編集長は、興奮した様子で続けた。
「身分違いの恋――、公爵令嬢と記者の婚約……こんな美味しい話、逃すはずがない」
ブランと、編集長は――事実と創作を織り交ぜながら、一つの物語を作り上げていった。
「貴族女性を狙った、あの既成事実婚事件……」
ブランが、静かに口を開いた。
「あの時、狙われたのがローズだった。……それを守ったのがノワールだ」
「そこから、二人は愛を育んだのか――」
編集長が、メモを取りながら聞いている。
「そして、最近の組織の調査でも――国民扶助法に取り組んでいるヴァルメール議員やグランド侯爵と協力し、大きな功績を上げている」
ブランが続ける。
「身分差を越えた英雄、というわけだ」
編集長は、ペンを走らせながら呟いた。
「事実、七割……解釈、二割……演出、一割といった、ところか」
(普段の俺たちは、嘘の中から真実を見つけるのが仕事だが、今回は逆だ――)
「今回の怪文書は、身分差の恋への嫉妬から生まれたゴシップだ」
ブランが、静かに告げた。
「俺は、弟の幸せを誰にも邪魔されたくないんでね。民衆からも祝福され、貴族も反発出来ない盛大な記事を頼むよ」
「ずいぶん難易度上げるじゃないか」
編集長の笑顔がひきつる。
「王都週報なら、可能だろ?」
「ああ、任せてくれ」
編集長が、感心したように、呟いた。
これは、ブランがノワールを守るために立てた三層の防御策だった。
一つ目は――民衆。『身分違いの恋を、実らせた二人』として、好意的な世論を作る。
二つ目は――貴族。『ローズを犯罪から守り、王国のために働いた男』として、『どこの馬の骨だ』という反発を抑える。
ローズ自身が、ノワールを選んだという事実まで積み上げれば、貴族がノワールを露骨に批判することは、そのままローズの選択を否定することになる。
そして、ノワールが簡単に手を下せない権力下にいることで、組織もノワールに近づけなくなる。
怪文書の内容を世間の目を逸らし、ノワールを守るための――世論、そのものを作る方法だった。
◇
数日後――王都週報の一面を大きく飾ったのは――ローズ・アストリアとノワール・ロペスの婚約を伝える記事だった。
『公爵令嬢と記者――運命の恋』
華やかな、見出しの下に――ローズが狙われた事件から始まる二人の物語が、ロマンチックに綴られていた。
そして、ノワールが、ヴァルメール議員やグランド侯爵と共に、王国を揺るがす事件の調査に貢献してきたことも、"英雄談"として大きく書き立てられていた。
「これ、誰のこと……」
その記事を手にとったノワールが、静かに呟いた。
「まるで、他人のゴシップ読んでる気分だよ」
「英雄……誰が?」
ノワールが、少し呆れたように、記事を読み返す。
「これも、おまえたちの婚姻のためだ。靴ずれを無駄にしたくないだろ?」
ブランが鼻で笑った。
「作戦の意図は理解したよ」
「民衆。貴族。……そして、組織」
ブランの視線が、記事の見出しへと戻る。
「三つのピースが――すべて、綺麗にはまった記事だ」
窓の外には、いつもと変わらない王都の夕暮れが広がっていた。
ロペス兄弟が、インク・オブ・トゥルース社で過ごせる最後の日へのカウントダウンが始まった。
その影を知るのは、ブランだけだった。




