第四十三話 秘匿と隠蔽の間
その日の朝――王都中の新聞という新聞に、同じ見出しが躍っていた。
『ロペス兄弟の弟はもう死んでいる』
インク・オブ・トゥルース社にも、その朝刊は届いていた。
「これは……」
ノワールが、震える手で新聞を握りしめる。
「差出人不明の怪文書が――各社一斉に送られたようだ」
ブランが、他紙を確認しながら答えた。
一部の新聞は、送られてきた原文の写真をそのまま載せていた。新聞や本といった印刷物の文字を切り抜き貼られた怪文書は、文字の不揃いさが余計に気味の悪さを引き立てた。
どの新聞の記事も、具体的な根拠を何一つ示していなかった。
ただ、その一文だけが、扇情的に書き立てられていた。
「……これって」
ノワールが、静かに呟いた。
「どっちだと思う?」
「どういう意味だ?」
ブランは、短く答えた。
だが、その表情には――ノワールが気づかないほどの微かな緊張が滲んでいた。
「僕に対しての殺害予告か、それとも……」
ノワールの問いに、ブランは答えなかった。
「とりあえず、しばらく出歩くな」
その日の夕方――ブランは、買い出しのために王都の街を歩いていた。
ノワールを事務所に残したのは、安全確保するためだけではなかった。ブラン自身、一人で、考えを整理する時間が必要だった。
(俺が、ヴィクティムズ・イン・リムボーの集会で話したからか、それとも――)
「あの……」
不意に、小さな声がかけられた。
振り向くと、そこには、見知らぬ幼い少年が立っていた。
「これ、渡すように頼まれた」
少年は、そう言うと――一枚の折り畳まれた紙をブランに手渡すと、あっという間に、人混みの中へと消えていった。
「おい、待て――」
ブランが、呼び止めようとしたが、間に合わなかった。
ブランは、その紙を開いた。
そこには、記されていたのは四文字だけの言葉だった。
『妹を守れ』
ブランの、手が止まった。
周囲の喧騒が、一瞬、遠のいたように感じられた。
(誰が……これを)
(なぜ、"妹"だと知っている)
彼の脳裏に――あの日の記憶が鮮明に蘇った。
◇
「ゲホゲホ、兄ちゃ……」
苦しそうに咳き込む少女。
「大丈夫だ、グリース!今、ノワールが鶏を買いに行ってる。今日は、肉たっぷりの母さんお手製のリゾットだ」
幼いブラン少年が、グリースという妹の手を握る。
「それにしても、ノワールのやつ、なにやってんだ」
なかなか帰ってこない弟に、苛立つブラン。
ちょうど、その時、扉が開いた。
「グリース! これで病気が治るぞ」
真冬の気候に冷えきったノワールが、何かを大事そうに抱えて帰ってきた。
「……ノワール、鶏はどうした?」
「兄ちゃん、見てよ。この金の卵! これを食べれば、どんな病気も治るんだって。グリースに早く食べさせよう」
「バカか!おまえ、あの金は我が家にある全財産だぞ」
「だから、この金の卵を……」
「おまえは、騙されたんだ!」
「騙された……? でも、病気が治るって言ってたし、金色の卵なんて見たことないから、本当かも……」
ブランは苛立ちながら、ノワールが大事そうに持っていた金の卵を奪い取ると、その塗料を爪で削り剥がし取る。
「よく見ろ! 普通の卵に色づけを施されただけだ」
「嘘だ……だって、あの人が……」
「今すぐ、返してこい!」
ブランはそう言うと、ノワールに卵を押し付けて、寒空の下に追い出した。
ノワールが出てから、しばらくしてから、母親が帰宅した。
「ご近所さんが、解熱剤と食べ物を分けてくれたのよ」
母親がスープ暖め直している間、ブランは窓の外を見ていた。
(アイツ、どこまで行ってるんだ)
時計の針がゆっくりと一周、二周と長針と短針が交差する。薬が効いたのか、グリースの寝息は穏やかだった。
「ねえ、ブラン。ノワール、帰ってくるの遅くない? どこまで買いに行ってるのかしら」
ブランは、ばつが悪そうに、金の卵のことを伝えた。
母親の顔色が変わる。
「……それ、いつの話?」
当時、この手の誘拐の話は、連日新聞でも取り上げられていた。母親の頭の中をよぎったのだろう。
母親がすごい形相で、ブランの肩を掴んで尋ねた。
「母さんが帰ってきた、少し前……」
ブランの声が、震えていた。
「アイツ、詐欺師の言葉を信じたんだ。……グリースの命がかかっている時に! だから、俺、金を取り返してこいって……」
母親は、それだけ聞くと家を飛び出した――。
家の中に残されたブランとグリースの呼吸だけが部屋に響く。
母親が戻ってきたのは、深夜を回っていた。
体についた雪は溶け、髪は雪にまみれていた。
「母さん!」
ブランが母親に駆け寄った。
その時の母親は、いつもの母親ではなくなっていた。泣き腫らした目からは正気が失われ、ボソボソと呟く声はノワールへの謝罪だった。
「私がノワールにお金を持たせたから……私のせいだわ……」
(母さんは悪くない、俺が金を取り返してこいって激昂しなければ……)
ブランの頭の中では、母親にかける言葉が浮かんでいたが、それを口にする勇気がなかった。
「……」
その時のブランは、このあとに起こる母親の変化を予想してなかった。
ロペス兄弟の本当の悲劇は、翌朝に始まった。
「ノワール! 帰ってきたのね。心配したわ」
母親の声に目が覚めたブランは、声がする方へ向かった。
ブランは、その光景に絶句した。
そこには、病み上がりのグリースが母親に抱きしめられていた。何より奇妙だったのは、グリースがノワールの服を着せられていたことだった。
「母さん、何言ってるんだ。グリースだよ」
ブランは、母親の腕を揺さぶりながら言った。
「お父さんも消えて、グリースが病気で亡くなって……お母さんには二人しかいないの」
その言葉と母親の表情に、ブランは絶句した。
まだ少年だったブランと幼いグリースに残された選択肢は、母親の妄想の世界に付き合うしかなかった。
「グリース。母さんのために"ノワール"になってくれ」
「どうして?」
高熱でうなされ何も知らなかったグリースの言葉は、ブランの小さな胸をえぐる。
「本物の"ノワール"は悪い人に誘拐された。母さんは、そのことで、おかしくなっちゃったんだ」
ブランは、自分が伝えられる最大限の真実だけを口にした。
いつもと違う兄の様子に、幼いグリースも何かを感じ取ったようだった。
「分かった。"ノワール兄ちゃん"ごっこするね」
あれから、父親にかけていた莫大な保険金が、ロペス家に入った。幼い妹を医者に診せる金にも困っていたのが嘘のように、生活は一変した。二人が大学まで進学できるくらい生活水準があがった。
しかし、ノワールの行方は一向に分からなかった。そのため、幼いグリースが成長しても『"ノワール兄ちゃん"ごっこ』は続き、結局、母親が亡くなるまで演じ続けた。
今、ブランの隣で――「ノワール」として、共に事務所を支えている人物は一夜の呪いで姿を変えられた悪夢の成れの果てだった。
病から奇跡的に回復した、幼い妹。
だが、母親を守るために――彼女は、失踪した兄の名前を引き継ぐことになった。
その事実を――ブランは、これまで誰にも明かしたことはなかった。
◇
王都の喧騒の中で、ブランはメモを握りしめる
なぜ――このメモの送り主は、それを知っている。
(組織なのか)
(それとも……)
ブランの手の中にあるメモが、熱を持っているような錯覚に陥る。
ブランは、静かにその紙をポケットの奥底に閉じ込めた。
そして、決意した――。
(グリースには……何も言わない)
怪文書のことも。
このメモのことも。
そして――本物のノワールが、生きている可能性が出てきたことも。
妹を、これ以上、危険に晒すわけにはいかない。
これは、自分一人で抱えるべき重荷だとブランは腹に決めた。
◇
事務所に、戻ると――ノワールが、心配そうな表情で待っていた。
「兄さん、大丈夫? 顔色、悪いよ」
「……ああ、少し考え事をしていただけだ」
ブランは、静かにそう答えると――例のメモをしまった上着を、クローゼットの奥に押し込んだ
「怪文書のこと、あまり心配しない方がいいよ」
ノワールが、優しく微笑む。
「きっと、世間は、僕たちがジャーナリストとして、誰かの反感を買ったって思うはずだから」
その言葉に――ブランは、何も答えられなかった。
ただ、静かに頷くだけだった。
◇
その時――事務所の扉が、静かにノックされた。
「お邪魔するわよ」
姿を見せたのは――ローズ・アストリアだった。
「ローズさん?」
ノワールが、驚いた様子で顔を上げる。
「良かった……無事なのね」
ローズは、静かにノワールを見つめた。
「あなたたちに――話があるの」
その表情には、これまでにない真剣な決意が宿っていた。




