第四十話 組織の裾野
「以前は、お世話になりました」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、次期宰相と言われる有力議員アルフォンス・ヴァルメールの秘書エミール・ローランだった。
彼が事務所を訪れたのは、アルフォンス・ヴァルメール議員の冤罪事件以来だった。
「エミールさん、お久しぶりです」
ノワールが、笑顔で迎える。
その視線が、エミールの左手の薬指に留まった。
「エミールさん……結婚されたんですか?」
「ええ」
エミールが、静かに微笑んだ。
「おかげさまで」
それだけの短いやり取りだった。
その指輪の輝きに、ノワールは静かに目を細めた。
「おめでとうございます」
彼の幸せそうな表情は全てを物語っており、それ以上は深くは聞かなかった。
◇
「今日、伺ったのは、主人……いえ、閣下から直々の頼みごとがあってのことです」
エミールが、静かに本題に入った。
「アルフォンス様は、今、新たな取り組みとして――国民扶助法の制定に、力を入れておられます」
「国民扶助法?」
ブランが尋ねる。
「はい。貧困層への公的な支援制度です。……その、準備のために資力調査を行っていたのですが」
エミールは、静かに続けた。
「ここ数年の、統計に――違和感が見つかったのです」
「違和感?」
「世帯数の減少が――貧民街と言われる南区を中心に、明らかに不自然な数字が出ているのです」
ブランとノワールは、顔を見合わせた。
「同じ政党のグランド侯爵から、『インク・オブ・トゥルース社なら、何か分かるかもしれない』と伺いまして」
エミールが、静かに頭を下げた。
「調査をお願いできますか?」
◇
ロペス兄弟は、王都の統計資料を丹念に洗い始めた。
「死亡者数は……」
ブランが、資料をめくりながら呟く。
「この減少を説明できるほど、増えていない」
「転出届の数とも――一致しないね」
ノワールが、別の書類を確認しながら続ける。
「孤児院への収容数も、変わっていない」
「じゃあ……」
ノワールの声が、微かに震えた。
「南区から消えた世帯は――どこに、行ったの?」
ブランは、しばらく資料を見つめたまま、答えなかった。
◇
二人は、いくつかの消えた世帯の記録を辿った。
「これを見てくれ」
ブランが、一枚の書類を指差す。
「この世帯――記録上は『南区から転居』となっている」
「でも……」
ノワールが続ける。
「転居先の住所が見当たらない――世帯、そのものが消えている」
別の記録も同じだった。
転居先には、どの家族も辿り着いていない。
だが、書類の上では――確かに、家族は南区からいなくなっている。
「これは――」
ブランが、静かに口を開いた。
「戸籍が売られている……」
「まさか……」
「世帯主の戸籍を丸ごと売買する。……そして、家族も別の場所へ移されたことにしておく」
ブランの声が、低く続いた。
「だが、実際には――誰も転居していない」
「存在しているのに……」
ノワールが、掠れた声で、続けた。
「行政上は、存在しないってこと?」
「ああ」
ブランは、静かに頷いた。
「人間そのものが――社会から消されているんだ」
◇
これまで、ロペス兄弟が追ってきた組織の姿は――個人の失踪事件を通してだった。
詐欺。身分詐称。戸籍の不正な売買。金融犯罪。人身売買。
一つ一つの事件が、点として、積み重なってきた。
だが、今、目の前にあるのは――その点の、集合が作り出す、もっと、大きな輪郭だった。
「今まで、僕たちが見てきたのは……」
ノワールが、静かに呟く。
「氷山の一角に過ぎなかったのかもね」
ブランは、何も答えなかった。
ただ、机の上に広げられた、大量の統計資料を静かに見つめていた。
◇
「これは……」
ノワールが、ふと口を開いた。
「アルフォンスさんが助けようとしている国民扶助法……皮肉だよね」
「どういう意味だ?」
「助けようとしている国が――助けるべき人間を把握できていないんだ」
ブランは、静かに頷いた。
「そういうことになるな」
◇
数日後、王都に出回った記事には、これまでとは違う静かな、しかし、確かな緊張感を帯びた筆致でこう記されていた。
『国民扶助法の制定に向けた調査の過程で――一つの深刻な異常が見つかった。
貧民街と言われる南区を中心に――統計上、消えた世帯が存在する。それは、一世帯だけではない。
死亡でも転居でもない。……ただ、行政の記録から、静かに消えている人々がこの国には存在する。
彼らは、この国でに生きている。
だが、国家はその存在を把握できていない状況である。
差し出したその手が届く前に――すでに、多くの人々がこの国のシステムから、静かにこぼれ落ちている。
これは、貧困問題以前に、家族単位で人間そのものが、社会から消されているという問題である。
この真実をしった国は、希望の光で照らして、闇の中から消えた人々を探している。
もちろん、我々は、この闇の輪郭を追い続ける。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
記事が王都に出回ってから、数日後――事務所に戻ったブランは、静かにその記事を見つめていた。
「これで……」
ノワールが、静かに口を開いた。
「向こうにも伝わったよね。……僕たちが、ここまで、近づいてきているって」
「ああ」
ブランの声が、低く答えた。
「国が動き出したということは――向こうもビジネスを続けることができなくなる」
事務所の中は、いつもと変わらないインクと紙の香りが広がっていた。
その当たり前の静かな日常が終わろうとしていることを、ロペス兄弟は知らなかった。




