第三十九話 百年目のステップ
「あの、忌まわしい病が――再び、現れたのかもしれません」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、グランフォールから来たという歴史学者のテオドール・バンクスだった。
「病というのは?」
ノワールが尋ねる。
「百年前――グランフォールで、起きた出来事です」
テオドールは、震える手で一冊の古い書物を取り出した。
「『舞踏病』と記録されています。自分の意志では止められない踊り……最初は、たった一人でした。しかし、次の日には二人。……最後には、町の半数の住人が踊り出したと記述に残っています」
彼は、書物の一ページを開いた。
そこには、痙攣するように体を捩じらせながら、踊る人々の挿し絵が描かれていた。
「原因は?」
ブランが、静かに尋ねる。
「麦角菌による幻覚説―。飢餓による精神崩壊説――。宗教的な集団ヒステリー説――。様々な説が唱えられましたが、確かなことは、今も分かっていません」
テオドールは、静かに続けた。
「そして――先日、グランフォールで、また、同じような現象が起きたんです」
「本当に、その病なの?」
ノワールが、慎重に尋ねる。
「最初は、ただの変わり者だと思っていました。……ですが、数日続けて同じ人物が、あの奇妙な踊りをしているのを見かけて」
テオドールの声が震える。
「あの挿し絵と同じ動きなんです」
◇
ロペス兄弟は、テオドールと共にグランフォールへ向かった。
噂の人物は――町の雑貨店で働いている若い男だという。
三人は離れた場所から、その男の様子を観察することにした。
「あれが……」
テオドールが、そっと指差す。
男は、ごく普通に店番をしていた。
客の相手をし、商品を並べ替え、笑顔で会話をしている。
「歴史書では――自分の意志では止まらないんじゃなかったのか?」
ブランが、静かに疑問を呈した。
「そ、それは……」
テオドールが、少し狼狽えたように答える。
「なんせ、百年前の記述ですから。……多少、大袈裟に書かれている可能性もあるでしょう」
三人は、しばらく様子を見守っていた。
やがて、日が傾き始め、店の閉店時間が近づいてくる。
男が、店の看板を下げ鍵を閉める。
そして――辺りを見回すと、突然、動きが変わった。
「な……なんだ、あの踊りは……」
ノワールが、思わず声を漏らす。
男は、小刻みに体を跳ねさせながら、通りを進み始めた。
その、動きは明らかに普通の歩行とは違っていた。
「曲もなしに、あんな変な動きできますか?」
テオドールが、震える声で続ける。
「し、しかも、かなりの速さで移動している……」
ブランが、静かに目を細めた。
「お、追うぞ!」
◇
三人は、男の後を追いかけた。
男は、跳ねるような、体を捻らせ独特の動きで、通りを進んでいく。
やがて、男は小さな公園の隅で足を止めた。
息を切らせながら、その場に座り込む。
「あ、あの」
ノワールが、静かに声をかけた。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか?」
男は、驚いた様子で顔を上げた。
「な、なんですか突然?」
「先ほどの……その、踊りについて」
ノワールが、慎重に切り出す。
男は、一瞬、きょとんとした顔をしていたが――やがて、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「ああ……あれ、見られてたんですね」
「実は――」
男は、照れくさそうに続けた。
「先日、プロポーズが成功したんです。長年、想っていた人に」
「それは、おめでとうございます」
テオドールが、思わず拍手する。
「それで、あまりに嬉しくて……つい、スキップでもしようかと思ったんですが」
男は、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そこで、気づいたんです。……僕、生まれてから、一度も、スキップをしたことがないって」
「……え?」
三人が、揃って、聞き返す。
「スキップのやり方が、分からなくて……。見よう見まねでやってみたんですが、なんか違って……。それで、その日から――こっそり、練習していたんです」
男は、少し決まり悪そうに続けた。
「仕事帰りのこの時間なら、人通りも少ないので、誰にも迷惑がかからないかなと思って」
三人は、しばらく言葉を失っていた。
◇
事務所に、戻る道すがら――テオドールは、深く肩を落としていた。
「歴史の謎が現代なら解明できる、そう思ったのに……」
「まさか……舞踏病どころか、スキップの練習だったとは」
ノワールが苦笑した。
「――百年前のあの記録は、本当に、麦角菌だったのか。それとも、宗教的な、ヒステリーだったのか……」
テオドールが、静かに呟く。
「あるいは……」
ブランが、静かに口を開いた。
「もしかしたら――集団スキップだったかもな」
「……それは、さすがに、無理があるのでは」
テオドールが、思わず苦笑した。
「いや、どうだろう。どこかの国では、天からお札が降ってきたって集団で町を練り歩いて踊ったっていう伝記も残っているらしいよ」
ノワールが口角を上げながら言った。
◇
数日後、王都に出回った記事には、これまでとは違う、軽やかな筆致でこう記されていた。
『百年前、グランフォールを、震撼させた「舞踏病」。
その正体を確かめるべく、我々は現地へと赴いた。
結果、判明したのは――少なくとも、今回の「再燃」の正体は、ある青年の生まれて初めてのスキップの練習だった、ということである。
プロポーズの成功に、心を躍らせた青年の喜びのステップは、傍目のは奇妙な踊りに映っていたようだ。
百年前の真相は、今もなお謎に包まれたままである。
だが、もし、あの記録もまた誰かの不器用な喜びの表現だったとしたら――。
歴史とは、時に、案外、微笑ましいものなのかもしれない。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
事務所に戻った、ワールが、ふと口を開いた。
「兄さんって、スキップできる?」
「……できるに、決まってるだろう」
「じゃあ、やってみせてよ」
「本当に、いいのか?」
ブランが、即座に答えた。
ノワールはしばらく黙ったあとに口を開いた。
「……やめておこうっか」
王都の空には、いつも通り、穏やかな夕暮れが広がっていた。




