第三十八話 白鳥の涙
インク・オブ・トゥルース社に、久しぶりに、ローズ・アストリアが姿を見せた。
「相談したいことがあるの」
彼女の声には、以前の気位の高さとは違う――どこか、疲れの滲む響きがあった。
「契約伴侶制度が、成立したのは知っているでしょう?」
「ああ」
ブランが、静かに頷く。
王都では、連日、アルフォンス・ヴァルメール議員が取り組んでいた「契約伴侶制度」――同性・異性を問わず、法的に家族となれることを認めるパートナー制度が可決されたニュースが世間を賑わせていた。
「あなた方のおかげで、あの制度は、ようやく、日の目を見たそうね」
「それが何か?」
「厄介なことに――私の昔の知り合いが、それをきっかけに動き出して困っているの」
ローズは、静かに目を伏せた。
「オデット・マレ。……王立バレエ団の看板ダンサーよ」
「知り合いというのは?」
ノワールが、静かに尋ねる。
「……過去に、少しだけ親しくしていた相手」
ローズの声が、微かに揺れた。
「もう、何年も前に終わった関係よ。……でも、最近、彼女が頻繁に私の周りに現れるようになったの」
「不審な行動が?」
ブランが、静かに続ける。
「屋敷の前を何度も通り過ぎたり。夜会に招かれてもいないのに、姿を見せたり。……もう何年も会っていなかったのに、最近、使用人にまで、私の予定を聞き出そうとしていたと報告があったわ」
「制度が成立したことで――」
ローズは、静かに続けた。
「彼女は、私がようやく自由になれると思ったのかもしれない。……でも、それは違うの」
彼女の声に、初めて強い緊張が混じった。
「私は、公爵位を継いでいる。……もし、この関係が公になれば――」
「あなたの、立場が危うくなるということか」
ブランが、静かに言葉を継いだ。
「……ええ」
◇
ロペス兄弟は、オデット・マレの行動を調べ始めた。
劇場の周辺で、聞き込みを行うと――彼女の最近の様子について、いくつかの証言が集まった。
「オデットさん、最近、稽古中も上の空でね」
劇団員の一人が、心配そうに答えた。
「新聞のある一面ばかり、気にしていて……」
「彼女、独身を貫いてるのよ。誰にも言ったことはないけど……好きな人がいるんじゃないかって、みんな噂してた」
別の団員もそう証言した。
ロペス兄弟は、実際に、オデットの行動を観察した。
彼女は、ローズの屋敷の周辺に何度も姿を見せていた。
物陰から屋敷の窓を見つめる、その横顔には――未練とも執着ともつかない、複雑な情が浮かんでいた。
「制度が成立したことで……」
ノワールが、静かに呟く。
「彼女の中で止まっていた、時間が動き出したのかもね」
「だが……」
ブランが、静かに続けた。
「ローズさんにとっては、それが脅威になっている」
◇
事務所に戻ったロペス兄弟は、対策を話し合った。
「正面から、注意しても逆効果かもしれないな」
ブランが腕を組む。
「彼女の未練を断ち切らせる必要がある」
「それなら……」
ノワールが、静かに口を開いた。
「僕が、ローズさんの恋人のふりをすればいい?」
「……お前が?」
「うん。以前も一度やったことあるし、彼女の周囲の貴族の噂も、後押ししてくれるでしょ」
ノワールが、あっさりと答える。
「僕をローズさんの相手だと印象づければ――オデットさんも、諦めがつくんじゃないかな?」
ブランはしばらく考えていたが、やがて、静かに頷いた。
「……それしかなさそうだな」
この提案をローズに伝えると、彼女は少しの間、沈黙していた。
「……あなたに、そんなことを頼んでいいの?」
「ローズさんを助けたいんです」
ノワールが、真っ直ぐに答えた。
ローズは、そのまっすぐな視線をしばらく見つめていたが――やがて、小さく微笑んだ。
「……お願いするわ、ノワール」
「お任せあれ、ロージー」
◇
数日後、王立劇場で開催される夜会の場に――ローズとノワールは恋人として姿を現した。
腕を組み、寄り添うように歩く二人。
その様子を遠くから見つめる視線があった。
「オデットさんが来てる」
ノワールが、小さく囁く。
「分かってるわ」
ローズが、静かに答えた。
二人は、あえて、オデットの視界に入るように歩いた。
ノワールが、ローズの髪に、そっと、触れる。
ローズが、控えめに微笑んで応える。
その光景を見た、オデットの顔色が――みるみる変わっていった。
「……嘘」
小さな呟きが漏れる。
彼女は、しばらく、その場に立ち尽くしていたが――やがて、逃げるようにその場を去っていった。
◇
後日、ロペス兄弟が再び調査すると、アストリア公爵家周辺、劇団関係者からの情報にも変化が見えた。
「オデットさん、最近、ぱったりとアストリア家の周りに姿を見せなくなったって」
アストリア公爵家の情報を担当したノワールが、ほっとしたように報告する。
「劇団関係者の話でも、憑き物が落ちたように、稽古にも真面目に取り組んでいるようだ」
ブランは、静かにその報告をした。
「ようやく、自分の気持ちに区切りがついたんだろう」
「オデットさんも前向けるといいね」
ノワールが、静かに頷いた。
◇
事件解決後、ローズが事務所を訪れた。
「ありがとう」
彼女は、静かに頭を下げた。
「あなたたちのおかげで、オデットも自分の道へ歩き出せたと思うわ」
「役に立てて、良かったです」
ノワールが、笑顔で答える。
ローズは、しばらく、ノワールを見つめていた。
その視線には、これまでとは少し違う、何かが宿っていた。
「ねえ」
「はい?」
「あなたは……」
ローズは、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「私にとって、この世界で、たった一人の異性だわ」
その言葉にノワールは、一瞬、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「それは、光栄です」
その答えだけを返した。
ローズは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んで、事務所をあとにした。
その背中を見送りながら――ブランは何も言わず、ただ、静かにノワールの横顔を見つめていた。
◇
数日後、王都に出回った記事には、これまでとは違う物語めいた筆致で、こう記されていた。
『かつて、ある物語にこう記されていた。
悪魔の呪いによって、白鳥の姿に変えられた姫。
その呪いを解くことができるのは――まだ、誰も愛したことのない青年からの真実の愛の誓いだけだった。
この、王都にも――呪いに似た何かに囚われた美しい白鳥がいた。
彼女を縛っていたのは、悪魔の魔法ではなく――世間という名の、目に見えない鎖だった。
その鎖は、まだ解けてはいない。
だが、誰かが、そっと、その重さを分かち合おうとした瞬間が――確かにあった。
白鳥は、今日も静かに湖の上を舞っている。
――ブラザーズ・ロペス』




