第三十五話 仮面の名前
王都駅から、事務所へ戻ってからも、二人は、しばらくの間、あの三つの文字を、考え続けていた。
「V、I、L……」
ノワールが、机に向かい、紙に、その三文字を、何度も、書き付けていた。
「フェリクスさんは化学教師だったから、元素記号だとしたら……二十三、五十三、五十七から七十一」
ブランが、腕を組む。
「あまりにも、単純すぎる。手がかりとしては弱い」
「フェリクスさんが、わざわざ、こんな回りくどい仕掛けを使ってまで、遺したものだ。……もっと、意味があるはずだよ」
ノワールが、机に広げたこれまでの捜査資料を一枚ずつ見返し始めた。
「単語かな。それとも、人の名前の頭文字……」
ブランも、これまで集めてきた膨大な資料に目を通していく。
だが、その日は何も見つからなかった。
翌日も、その翌日も――二人は時間の合間を見つけては、あの三文字が導く答えは見つからなかった。
ロペス兄弟が完全に煮詰まった状態の時だった。
インク・オブ・トゥルース社の扉が静かに叩かれた。
「……入るぞ」
そう言って姿を見せたのは、王都憲兵隊隊長ヴィクトル・グランジェだった。
その手には、これまでインク・オブ・トゥルース社が出版してきた告発本をブックバンドでまとめた状態で持っていた。
「ヴィクトルさん……?」
ノワールが驚いた様子で、椅子から立ち上がる。
「全部、読んだ」
ヴィクトルは、静かに本の束を机の上に置いた。
「それだけじゃない。……お前らがこれまで話を聞いてきた依頼人たちにも、一人ひとり、会いに行った」
「……で、何の用だ?まさか、『サインくれ』とか言わないよな」
ブランが、静かに言った。
「お前らが、何を追いかけているのか。……俺に話す気がないなら、俺は俺で突き止めてやろうと思ってな」
ヴィクトルは、しばらく二人の顔を見つめていたが――やがて、静かに口を開いた。
「これは、俺の勝手な想像だ」
その声には、これまでの対立の色はなかった。
「お前らは……ずっと、一つの大きな組織を、追いかけている。詐欺。人身売買。戸籍の売買。犯罪者への、身分の提供。……全部、繋がっているんだろう」
ブランとノワールは、しばらく言葉を失っていた。
「そして……」
ヴィクトルが、静かに続けた。
「お前らがそこまでこだわる理由は……お前ら自身に関わることなんじゃないのか?」
事務所に、重い沈黙が落ちた――。
「……勝手な想像だと言っただろう」
ヴィクトルは、深く息を吐きながら目を伏せた。
「答えろとは言わない。……ただ、俺はお前らの味方でいたいだけだ」
しばらくの沈黙のあと、ヴィクトルが静かに一枚の書類を取り出した。
「こんな事件、興味ないか?」
「これは?」
ブランが、書類を受け取る。
「西の山岳の町――エルミタージュで、数年前から放置されている失踪事件に進展があった。再び、捜索願いが出された」
ヴィクトルは、静かに続けた。
「一度目は十六年前に母親から。二度目は先月、恋人から出された。お前らなら、何か見つけられるかもしれないと思ってな」
ブランとノワールは、顔を見合わせた。
「……行ってみよう」
◇
エルミタージュは、王都から西に離れた山と海に囲まれた静かな港近くの町だった。
失踪していたのは、当時、十五歳だったアントワーヌ・ヴァスール。
ヴィクトルの情報では、両親はすでにこの地を離れていたが、息子が見つかったという知らせに、再びこの町を訪れているとのことだった。
ロペス兄弟は両親と会う前に、近隣住民への聞き込みをすることにした。
当時のことを覚えている住人によると、アントワーヌは学校帰りに姿を消しており、両親の経済状態からも子どもの身売りの可能性は低かった。
また、アントワーヌの当時の同級生の話を聞く限り、役者になりたいという夢があったようで、両親とよくぶつかっていたという証言が多かった。
「あの子の家は、父親がお役所勤めの転勤族で、そういう環境も嫌だと言っていました」
当時を知る同級生が、静かに語った。
「いなくなる少し前……劇団に受かったって言っていたんです」
「その劇団の名前は?」
ブランが、メモを取りながら尋ねる。
「こんな海と山しかない場所です。聞き慣れない劇団名で、よく覚えていません……本人はとても嬉しそうでした」
ロペス兄弟は、ロランの手帳とこれまでの記録を丹念に照らし合わせていった。
手帳にも『失踪?家出?』と二つの単語が並んでいた。
やがて――少年の両親との待ち合わせ時刻が近づいたため、二人は海沿いの喫茶店に向かった。
「アントワーヌ・ヴァスールの父親のケヴィン・ヴァスールです。こちらは妻のオディールです」
「早速ですが……服の意匠がラメント村の案山子の一体と一致するということですが根拠をお聞かせ願えますか?」
ブランはインク・オブ・トゥルース社に届いていた手紙に記された服を取り出す。
「あなたたちの本では、この服がワンピースだと紹介されていましたが」
ケヴィンが、服に触れながら続けた。
「これは、エルミタージュ高等学校の男子生徒用のシャツです。アントワーヌは失踪した当時で、私と変わらない背丈でしたから」
ノワールが、静かに呟いた。
「ラメント村の案山子の着ていた服の中でも大きいと思ったけど、男性用の半袖シャツだったんだ」
「お子さんとは進路の件で、揉めていたそうですが」
ブランが、聞き込みした内容を両親にぶつけた。
「高等学校入ったばかりの子どもが、役者になりたいっていうのを、手放しで送り出せる親がいますか!」
オディールが、興奮気味で返した。
「これは事実確認で、あなたがたを責めるつもりはありません」
ノワールは優しい口調で、オディールに話しかけた。
「すみません……妻は見知らぬ息子に会って、混乱しているんです」
ケヴィンが、ロペス兄弟に謝った。
「見知らぬ息子?」
「ええ、先月のことです。憲兵隊から息子が見つかったと連絡があったんです。事故で入院していると言われ、その病院に行って見ると見知らぬ男性がいました」
「十六年も経っているんです。多少は顔が変わっていたということは?」
ブランは、冷静に尋ねた。
「顔は変えられても、瞳の色や身長は縮めることはできません。先ほどもお伝えしたように、失踪した当時で、あの子は私と同じくらいの背丈でした」
ケヴィンが、アントワーヌとの家族写真を見せた。確かに、写真のアントワーヌは、父親のケヴィンと変わらない背丈だった。
ロペス兄弟の脳裏に、身分詐称事件の記憶が甦る――。
「まさか……また」
ブランが、静かに呟いた。
「アントワーヌ・ヴァスールと名乗る男性は、どこにいますか?」
ノワールが、ヴァスール夫妻に尋ねると、二人は首を横に振った。
「今はいません……」
「どういうことですか?」
「その件は私たちより、彼女に聞いた方が早いと思います」
そう言うと、ケヴィンはある宿の地図をメモに書いた。
「ここから、数百メートル先の宿です」
ロペス兄弟は、メモを受け取ると喫茶店を後にした。
◇
教えられた宿を訪ねると、そこには若い女性が放心したような表情で、ラウンジの椅子に座っていた。
「セリーヌ・フォンダーヌさん、ですね」
ノワールが、静かに声をかける。
「……はい」
セリーヌは、力なく頷いた。
「アントワーヌさんのことで、お話を伺いたいんですが」
「……」
セリーヌの目に、じわりと涙が滲んだ。
「私、彼とお付き合いを始めて……まだ、数ヶ月なんです。勤め先のカフェの常連で……とても、優しい人でした」
「エルミタージュに、来られた理由は?」
ブランが、静かに尋ねる。
「海辺のそばの教会を見に来たんです」
セリーヌが、震える声で続けた。
「先月、プロポーズされて……それで式場を探していたんです」
「病院に入院された、というのは」
「式場見学の帰りに、海を見に行ったんです」
セリーヌは、静かに両手を握りしめた。
「彼、子どもみたいに磯遊びを始めて……そこで、足を滑らせて怪我をしたんです」
「そこから憲兵隊に連絡が?」
ノワールが、静かに先を促す。
「……本物のアントワーヌさんがこの町の出身のようで、病院が連絡しました」
セリーヌの声が掠れる。
「彼、自分の両親について話さない人だったので……面会に来たヴァスール夫妻と話をした時、お二人も結婚にすごく喜んでくれて……」
セリーヌの声が、次第に震える。
「だから……お二人と病室に入った時に、すぐに異変に気づきました。お互いの第一声が『どなたですか?』って……笑っちゃいますよね」
ロペス兄弟は、静かに顔を見合わせた。
「私、確認したんですよ……彼は頭打ったせいで記憶に混乱しているだけかもしれないし、ヴァスール夫妻も久しぶりの再会で印象が違うだけじゃないかって……」
セリーヌは両手で顔を覆った。
「でも、違ったんですね」
ブランが静かに告げる。
「翌日、病院に来た時には彼は消えていました
……置き手紙も何もなく」
セリーヌが、自嘲するように笑った。
「私が、愛していた彼は……一体、誰だったんでしょうか?」
その問いに、ロペス兄弟は何も答えられなかった。
結局、『アントワーヌ・ヴァスール』の手がかりは、何もないまま王都に戻ることになった。
◇
インク・オブ・トゥルース社に戻ると、ポストにヴィクトルからの手紙が入っていた。その中身は、劇団のパンフレットだった。
「兄さん!この人……」
ノワールは、パンフレットの中央を飾る人物を指差した。
「これは――」
後日、ロペス兄弟は、その劇団の公演にケヴィンとオディールを招待した。
「一体どういうつもりで……」
オディールが切り出した時に、ちょうど幕が開いた。
「!」
ケヴィンとオディールは、驚きのあまり声を失った。
役になりきり、堂々と舞台に立つ、一人の役者。そこにいたのは――もう、少年ではないアントワーヌ・ヴァスールの姿だった。
二人は、静かにその公演を見守った。
「あの子……本当に、生きて……」
オディールが、涙をこらえきれず、静かに、崩れ落ちた。
「あの子に……あんな才能が、あったなんて」
ケヴィンが、震える声で呟いた。
「彼は……」
ブランが静かに続けた。
「生活に困窮していた時期に……自分の戸籍を売ったようです。役者として、食べていけるようにはなりましたが……現在、社会的には名前のない存在です」
「戸籍がない……?」
「はい。エルミタージュにいた男は、その戸籍を買ったんだと思われます」
ロペス兄弟の言葉に、ケヴィンとオディールは、しばらく言葉を失っていた。
公演のあと、楽屋を訪ねた両親と対面した息子は、しばらく無言のまま見つめ合っていた。
「……父さん、母さん」
やがて、アントワーヌが、静かに口を開いた。
「意地を張らずに……ちゃんと頼れば良かった。……まさか、ずっと探していてくれていたなんて」
「私たちこそ……」
ケヴィンが、静かに続けた。
「お前の夢を頭ごなしに否定してしまって……すまなかった」
三人は、静かに抱き合った。
◇
数日後――ヴァスール一家に王国交渉人として依頼されたブランは、手続きのため、アントワーヌの戸籍を取り戻す作業に取り掛かった。
その過程で――ブランは、ある奇妙な記録を見つけた。
「これは……」
「どうしたの?」
ノワールが資料を覗き込む。
「アントワーヌさんが、生活に困窮していた時期にある、金融業者から戸籍を担保に金を借りたって言ってただろ」
ブランが静かに続けた。
「借用書の貸主の欄に……『ヴァロー・インベスト・レンディング』とある」
ノワールの手が微かに震えた。
「そこが、戸籍を売買している会社がここってこと?」
二人は、しばらく無言のまま、その貸主の名前を見つめていた。
「あの組織は……」
ブランの声が掠れる。
「困っている人間に金を貸すふりをして……最初から、その人間の人生そのものを狙っていた」
その時だった――。
インク・オブ・トゥルース社に、ヴィクトルがやってきた。
ブランは書類を机に置き、ヴィクトルの方へ向かって歩いた。
「いつから、分かっていたんだ?」
ヴィクトルが答える。
「追っていたのは、偽物のアントワーヌ・ヴァスールだ。あの男は、結婚詐欺を繰り返していてな……」
ヴィクトルが、静かに切り出した。
「本物のアントワーヌ・ヴァスールに、職務質問をしたが『知らない』の一点張りだった。任意である以上、憲兵隊としてはそれ以上は踏み込めない」
「そんな時に、おまえたちが追っている事件を見たんだ……それが、理由の一つだった」
「最初から、か……」
ブランが、静かに目を細める。
「……役人ではないお前らなら、その先まで辿り着けると思ってな」
ヴィクトルが、悪戯っぽく笑った。
「その結婚詐欺師は?」
「身分詐称で、病院から抜け出した時点で逮捕している。結婚詐欺に関しては、調査中だ」
「セリーヌさんは……不幸中の幸いだったんだ」
ノワールが呟いた。
「取り返しのつかないことになっていたかもしれない」
ブランが、静かに続けた。
◇
数日後、王都に出回った記事にはこう記されていた。
『一つの名前を巡って、二つの人生が絡み合っていた。
一人は、生活のために自らの名前を手放した役者――。
もう一人は、その手放された名前を使い、他人の心を弄んだ詐欺師――。
奇しくも二人は役という仮面をつけて演じていた。
意地という名前の仮面を早く脱ぎ捨てれば、十六年も家族は離れることはなかった。
真実は、時に優しく、時に残酷だ。
――ブラザーズ・ロペス』
事務所に戻ると、ヴィクトルが待っていた。
「俺は、これからも……こういう情報を勝手に持ってくるからな」
ヴィクトルが、まっすぐにブランを見た。
「お前らが、話す気になるまで待つ。……だが、待つのは得意じゃない性分でな」
ブランは、しばらくヴィクトルの顔を見つめていた。
そして、やがて――小さく息を吐いた。
「……勝手にしろ」
その声には、これまでの突き放すような冷たさはなかった。
「ふっ、そうするさ」
ヴィクトルが、軽く笑った。
「相変わらず、素直じゃないな」
「うるさい」
ノワールが二人のやり取りを見て、静かに笑みを浮かべた。
「兄さんも、素直じゃないけど……ヴィクトルさんも、大概、頑固ですよね」
「うるさいって、言ってるだろう」
ブランが、少しばつが悪そうに答える。
そのやりとりには――これまでとは、少し違う、確かな絆があった。




