第三十四話 浮かび上がるインク・オブ・メッセージ
テオ・マレーの一件が片付いてから、インク・オブ・トゥルース社には、久しぶりに平穏な日々が戻っていた。
ヴィクトルとの間にできた、小さな溝も、まだ、完全には埋まっていない。あの日から、ノワールは、時折、何かを考え込むような表情を見せることが増えていた。
それでも――日々の依頼は、待ってくれない。
そんな、ある日のことだった。
インク・オブ・トゥルース社に、一通の手紙が届いた。
差出人の名は、フェリクス・アダムス。封を開けると、たった一行だけ、こう記されていた。
『あなたたちが、この手紙を読んでいる時――私は、もう、この世にいないでしょう』
ブランとノワールは、顔を見合わせた。
「住所は?」
「王都、東門周辺だ」
ブランが、封筒を光にかざしながら答える。
「急ごう」
◇
差出人の家に辿り着いた時――そこには、すでに王都憲兵隊の姿があった。
「フェリクス・アダムスさん、四十二歳。……自殺と見られています」
憲兵の一人が、淡々と告げた。
玄関先で、二人を出迎えたのは、憔悴した様子の女性だった。
「妻のクレール・アダムスです」
彼女は、震える声で名乗った。
「主人が死ぬ前にあなた方に、手紙を送っていたなんて……」
「詳しい話を、聞かせていただけますか?」
ブランが、静かに尋ねる。
「ええ……」
クレールは、静かに語り始めた。
「主人は、化学の教師でした。教え子の一人が、突然、姿を消して……主人は、その子のご両親と一緒に行方を探すのが、ライフワークでした。まだ見つかってないのに、自殺なんて……」
「ライフワーク?」
「私と主人が出会ったのも、同じような境遇の人たちが集まるコミュニティでした。私も失踪した妹を、何年も探していました。……理解のある主人と出会ったんです」
クレールは、指輪をそっと撫でた。
「同じ痛みを抱えている者同士……いつしか、支え合うようになって」
「最近、ご主人に変わった様子は?」
ノワールが、静かに尋ねる。
「……分かりません」
クレールは、静かに首を振った。
「ただ、ここしばらく……夜遅くまで、書斎に、こもっていることが多くなっていました」
「その書斎を、見せていただけますか?」
案内された書斎には、几帳面に整理された化学に関する本が、いくつも積まれていた。
だが、これといって、不審な点は見当たらなかった。
「何もなさそうだな」
ブランが、静かに呟いた。
ロペス兄弟は、クレールに礼を言い、事務所への帰路についた。
◇
その帰り道――突然、にわか雨が降り出した。
「嘘でしょ!」
「とりあえず、屋根のある場所へ行くぞ」
二人は、ジャケットから雨粒が垂れるくらいびしょ濡れだった。
ノワールが、慌てて、鞄の中身を確かめる。
「鞄の中まで、ビショビショだよ!」
書類を取り出し、ブランに手渡す。
その中に、フェリクスの最後の手紙もあった。手紙は、雨に濡れてしまった。
「最悪だ」
ブランが、濡れた封筒から中身を取り出す。
「インクは滲んだけど、まだ読め……」
ノワールは、言葉を失った。
黙って、濡れた手紙を見つめる。
インクで書かれた、あの一文――『あなたたちが、この手紙を読んでいる時――私は、もう、この世にいないでしょう』――が、じわりと滲んでいた。
滲んだ文字の下から――別の文字が静かに浮かび上がってきていたのだ。
「これは……」
ブランが、手紙を雨から庇うように抱え込んだ。
濡れた紙の上に、浮かび上がったのは――たった、一文。
『妻は偽物だ』
二人は、しばらく、言葉を失っていた。
「兄さん……これ」
「ああ」
ブランが、静かに頷いた。
「見えないインクだ。……いや、正確には、インクそのものが、見えなくなっていたわけじゃない」
ブランが、濡れた紙面を、じっと、見つめながら続けた。
「紙の吸水性とインクの定着具合に、差をつけていたんだろう。乾いている時は、周囲の紙と馴染んで見えない。だが、水を含むと紙の光沢やインクの染み込み方に違いが出て――浮かび上がって見える」
「化学教師ならではの仕掛けだ」
ノワールが、掠れた声で続けた。
「これを作れる知識が……あった」
「ということは」
ブランの目が、鋭く光った。
「彼は、最初から、この文章を伝えるつもりで……表の文章は、ただの目眩ましだったのか」
「でも……『妻は偽物だ』って」
ノワールが、静かに言葉を続けた。
「クレールさんは、何者なんだろう……」
「フェリクス・アダムスの死も、疑わしくなってきた」
ブランが、低く呟いた。
「クレールさんが、何かしたと決まったわけじゃない。……だが、彼女が何者なのか、確かめる必要がある」
◇
翌日から、ロペス兄弟は、クレールの過去を洗い始めた。
「妹を探している」という彼女の言葉。
その裏付けを取るため、失踪者コミュニティの名簿や、当時の記録を丹念に辿っていく。
「あった」
ブランが、古い記録を指差した。
「クレール・アダムスの妹――『マドレーヌ』。十二年前に失踪。当時、九歳」
その名前や失踪日時は、ロランの手帳に記された案山子の服の情報と一致していた。
「クレールさんの妹が、ラメント村に関係してたなんて」
ノワールが、静かに呟く。
「妹は失踪」
「だが……」
ブランが、資料を見つめたまま続けた。
「それだけじゃ、クレール自身が何者なのかは分からない」
◇
二人は、記録に残されたマドレーヌの実家の住所を頼りに、王都の北にある町リュミエールを訪ねた。
出迎えたのは、老いた夫婦だった。
「あの案山子の写真を見た時に、マドレーヌの服だとすぐ分かりました」
老夫は、震える声で言った。
「あのワンピースは、私の手作りなんです。『カーテンと同じ生地なんて嫌だ』って、言って……」
老妻は、部屋のカーテンを見つめた。
ブランが、持参した服を取り出し見比べる。確かに、ラメント村の案山子の服と同じ模様の生地だった。
ノワールが、静かに切り出す。
「王都で、マドレーヌさんのお姉さんとお会いしたんですが……」
老夫婦は、顔を見合わせた。
「マドレーヌの姉?いいえ」
老妻が、静かに首を振る。
「マドレーヌは、一人娘です。私たちに他に子どもはおりません」
ロペス兄弟は、思わず、顔を見合わせた。
「では……」
「クレールという、名前に心当たりは?」
ノワールが、慎重に尋ねる。
「クレール?いいえ、聞いたこともありません」
老夫が、困惑した様子で答えた。
「あの……マドレーヌさんの写真を見せて、いただけますか?」
ブランの声が、微かに緊張を帯びていた。
老妻が、震える手で、一枚の写真を差し出した。
そこに写っていたのは――幼い、少女だった。
その顔立ちに、二人は息を呑んだ。
面影が――クレールに、あまりにも似ていた。
「これは……」
ノワールが、掠れた声で呟く。
「クレール、本人じゃないか……」
行方不明になった少女――マドレーヌこそが、今、フェリクスの妻として、暮らしていたクレール、その人だった。
妹など最初から存在しなかった。
彼女自身が、あの日、失踪した少女だったのだ。
◇
真相は、静かに繋がっていった。
フェリクスは、教え子の失踪を、必死に、追う中で――偶然、あるいは何かの拍子に、妻のクレールの正体に、気づいてしまったのだろう。
彼女こそが、何年も前に、行方不明になった
、あの少女なのだと。
その気づきが――彼の死を招いた。
だが、その先の真実は、誰にも分からなかった。
ロペス兄弟が駆けつけた時、フェリクスは、すでに、息を引き取っていた。
唯一の証言者は、クレール本人。
だが、そのクレールこそが――「偽物」だった。
彼女の語った言葉の、どこまでが本当で、どこからが作られたものなのか。
もはや、確かめる術はなかった。
「妻は偽物だ」
ノワールが、静かにその言葉を繰り返した。
「でも……それは、彼女が、何か悪いことをしたっていう意味じゃなかったんだね」
「ああ」
ブランが、静かに頷いた。
「彼女もまた被害者だった。……フェリクスは、それに気づいてしまった」
「それを、誰かに伝えようとして……」
「殺された、ということか」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
◇
だが、まだ、一つだけ、確かめなければならないことがあった。
ロペス兄弟は、再び、クレールのもとを訪ねた。
「クレールさん」
ブランが、その名を呼び、ノックをする。
しかし、返事はなかった。
ロペス兄弟は、顔を見合わせる。
嫌な予感がした――。
王都憲兵隊に連絡して、扉を壊し開ける。
「……またか」
そこには、クレール・アダムスの形跡が全くなかった。まるで、はじめからフェリクス・アダムスしか、住んでいなかったかのように。
ロペス兄弟は、その光景に――何も言えなかった。
これまで追ってきた、いくつもの事件。
攫われた子ども。騙された家族。奪われた、名前。
だが、これほどまでに――人の意志そのものが、静かに書き換えられてしまう姿を、目の当たりにしたのは初めてだった。
◇
ロペス兄弟は、再び、老夫婦のもとを訪ねた。
「マドレーヌさんは……」
ブランは、しばらく、言葉を選んでいた。
娘が生きていること。だが、もう戻る意志を持っていないこと。
そのすべてを伝えるべきかどうか――二人は迷っていた。
「もし」
ブランが、静かに切り出した。
「もし、娘さんが、今、生きていたら――あなた方は、どうしますか?」
老夫婦は、顔を見合わせた。
「どうって……」
老妻が、震える声で答えた。
「何も、聞きません。……ただ、抱きしめたい。それだけです」
「あの子が、どこで、何をしていたって構わない」
老夫も、静かに続けた。
「ただ、生きていてくれさえすれば……それで十分なんです」
その言葉に、ロペス兄弟は、深く頭を下げた。
◇
数日後、王都に出回った記事には、これまでとは、まったく違う静かな筆致で、こう記されていた。
『ある男が、命と引き換えに、一つの真実を、残した。
「妻は偽物だ」――その言葉の本当の意味を、我々は長く見誤っていた。
偽物だったのは、彼女の悪意ではない。
偽物だったのは、彼女に与えられた名前と人生だった。
もし、あなたが、これを読んでいるのなら。
ある老夫婦から、預かった言葉を、ここに記す。
――「何も、聞きません。ただ、抱きしめたい。それだけです」
――「あの子が、どこで、何をしていたって構わない。ただ、生きていてくれさえすれば」
帰る場所は、まだ、そこにある。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
その記事が、王都に出回ってから、幾日が、過ぎた。
クレール――いや、マドレーヌが、それを読んだのかどうか。
読んで、何を感じたのか。
彼女が、今、どこにいるのか。
その、すべてが――分からないままだった。
その時、事務所の扉が叩かれた。
「インク・オブ・トゥルース社に、書留郵便です」
ノワールがサインをして、郵便物を受けとる。
差出人を見て、声を上げた。
「兄さん!フェリクス・アダムスさんからだ」
ブランが、立ち上がる。
「中身は?」
ノワールが、ペーパーナイフで封を切ると、床に鍵が落ちた。
「ロッカーの鍵?」
ブランが、拾い上げる。
「何か書いてあるか?」
ノワールが、封筒の中を覗くと、一枚の白紙のメモが出てきた。
「また、濡らせば文字が出てくる仕掛けが……」
ブランが、メモを持って、水道の蛇口に手を掛けた。
「兄さん、待って!封筒に『プリーズ リバース』って文字が書いてある……要返信って書くなら、普通は『リプライ』だ」
ノワールが、じっとメモを見る。
「水の反対は……火。今度の仕掛けは、炙り文字ってことじゃないかな」
ブランがライターで、メモに熱を加えて焦がす。
文字が浮かび上がる。
『王都駅十八番出口、ロッカー』
二人は、ジャケットを羽織るのも忘れて、王都駅に向かった。
十八番出口にはロッカーがずらりと並んでいた。
「ロッカーのキーナンバーは?」
「三十八番」
ブランが鍵を開ける。
中に入っていたのは、一般的に販売されている福音書だった。
「他に何かないの?」
「ああ」
ノワールが、ペラペラと厚い福音書を捲るが、変わったところはなかった。
ブランが溜め息をつきながら顔を上げる。
視界に入ったのは『十八番出口』という文字だった。
「まさか……」
「福音書の十八章を見ろ!」
「十八章だけで、どれだけ長さか……」
「キーナンバー三十八番……十八章三十八節だ!」
ノワールは急いでページを捲り、そのページを開く。
そこには、VとIとLという文字に丸がつけてあった。
「ここまできて、謎かけか……」
その後、二人は色々と調べたが他に何もなかった。
「わざわざ日付をずらして、送られてきたんだ。何か意味があるはず」
ブランは、静かに、二通の手紙を、並べて見つめた。
「最初の手紙で、俺たちに妻の正体を気づかせた。……そして、俺たちが動き出した後に、次の手がかりを送ってきた」
ノワールが、掠れた声で、続けた。
「フェリクスさんは、僕たちを、試していたのかもしれない。……この謎すら解けない相手には、この先を託せないと」
ブランは、無言のまま、頷いた。
その手にある福音書――十八章三十八節には、こう記されていた。
『真理とは何か――』




