第三十三話 引き継がれた人生
「……王都憲兵隊の方に、あなた方が詳しいとお聞きして、来ました」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、四十代半ばの、身なりの整った男性だった。手には、一枚の新聞が握られていた。
「どうされました?」
ブランが、静かに尋ねる。
「この新聞にある名前なんですが――」
男性が、見出しを指差した。
『自称テオ・マレー、身分詐称の疑いで、逮捕』
「実は、私が養子になる前の名前なんです」
ブランとノワールは、思わず顔を見合わせた。
「私は、十歳までブランシャールに住んでいました」
男性は、静かに語り始めた。
「当時、大人たちが、どういう話をしていたのかは分かりません。……でも、ある日、私はグランド侯爵家に、ジョン・グランドとして迎えられたんです」
「詳しく、聞かせていただけますか?」
ノワールが、静かに促す。
「当時の私の生活環境は……正直、あまりよくありませんでした。実母は育児を放棄していて。私を育ててくれたのは祖母でした」
男性は、遠くを見つめるように続けた。
「その祖母が病気で、ホスピスに入ることになった頃です。見知らぬ大人たちが、ある写真を片手にやってきました」
「写真?」
「幼い男の子の写真でした。……その人たちは、何日も祖母を説得していたのを覚えています」
「その写真の男の子というのは……」
ブランが静かに尋ねる。
「ジョン・グランド。……グランド侯爵家の実の息子です。事故で亡くなっていました」
「まさか、あなたは……」
ロペス兄弟はあることに、すぐに気づいた。
「ええ」
男性が静かに頷いた。
「亡くなったジョン・グランド君の代わりで養子になったんです」
「侯爵夫人――私の養母となった方は、実の息子を事故で失って、精神的に深く病んでいたそうです」
男性は、静かに続けた。
「そして、私の栗毛の髪の色や、そばかす、瞳の色が……偶然にも亡くなったジョン君とよく似ていた」
「それで……」
「はい。侯爵家に迎えられた私は、身分に合わせた教育を受け」
男性の声が微かに震えた。
「亡くなった息子の名前を、名乗ることになったんです」
戸籍の上では、失踪した少年。
だが、本人は、別の名前で生きていた。
「養母は……実の母からも、受けたことのないほどの愛情を、私に注いでくれました」
男性の目に、静かに涙が滲む。
「本当に……幸せでした」
「では、なぜ……」
ノワールが静かに問いかける。
「一番、気の毒なのは」
男性が静かに遮った。
「一人、墓地で眠っている……名無しのジョン・グランドです」
男性は、静かに続けた。
「先日、養母が亡くなりました。養父と二人で……本物のジョン・グランド君と一緒に埋葬してきました」
「一緒に?」
「はい。長年、父と私だけの秘密として、墓の隣に小さな墓碑を立てていたんです。……名前のない墓碑を」
男性は、静かに頭を下げた。
「今日、伺ったのは……自分のためではありません」
「……」
「本物のジョン・グランド君と……残された、父のために」
男性が、まっすぐにブランを見つめた。
「ロペスさん、王国交渉人として……正式な手続きをお願いできませんか?」
「ジョン・グランド君の死亡の正式な記録。そして……もう一つの名前――テオ・マレーという名前も、私のものとして、きちんと記録に残したいんです」
「二人分の人生を、これ以上、曖昧なままにはしておきたくない、ということですね」
ブランが、静かに頷いた。
「はい」
書類を記入しながら、ブランは男に質問した。
「あなたの戸籍を……勝手に売った組織について、どうお考えですか?」
男性は、しばらく、考え込んでいたが――やがて、静かに首を振った。
「恨んではいません」
「どうして?」
ノワールが静かに尋ねる。
「あの人たちがいなければ……たとえ、ジョンくんの代わりでも、私は母の愛情を知ることはできなかった」
男性は、静かに続けた。
「それに……祖母は、あのあと、苦しむことなく、静かにホスピスで旅立ちました。……十歳だった私には、それだけでも、十分すぎるほどの恩恵でした」
ブランとノワールは、しばらく言葉を失っていた。
組織のしたことは、決して許されることではない。
だが、その結果として、確かに救われた命と心があった。
その事実だけは――誰にも、否定できなかった。
◇
数日後、王都に出回った記事には、こう記されていた。
『一つの戸籍に、二人分の人生が刻まれていた。
一人は幼くして、この世を去った貴族の息子。
もう一人は、その名前を借りて生き延びた、一人の少年。
どちらが幸福で、どちらが不幸だったのか。
その答えを、我々は持たない。
しかし、今日、名もなきまま眠っていた、一つの魂に――ようやく名前が戻された。
――ブラザーズ・ロペス』
手続きが認められた、その日の夕方。
男性は、静かに事務所をあとにしようとしていた。
「あの」
ノワールが静かに呼び止める。
「これから、あなたは何と名乗るんですか?」
男性は、少し驚いた様子で振り返った。
そして、静かに微笑んだ。
「両方です」
「両方?」
「養母との思い出の中では、ジョン・グランド。……でも、今日からテオです」
「二人分の名前を、これからも、背負って生きていく、ということですね」
ブランが、静かに言った。
「はい」
男性は、深く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
事務所を出ていく、その背中をロペス兄弟は静かに見送っていた。
「ノワール……」
ブランが、声をかける。
「兄さん、僕は大丈夫だよ」
ノワールはそう言うと、書類を黙ってファイリングした。
ブランは、机に置かれたフォトフレーム越しに、ノワールを見ることしかできなかった。




