第三十二話 中小企業のシルフィード
「実は、母が、小学校の同級生の紹介でパートをしていたんですが……」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、以前、宗教団体崩壊事件で世話になった、トビアス・ラングだった。
その一言で、ブランは、すぐに前のめりになった。
ノワールも、急いで、来客用の珈琲を入れると椅子に腰を下ろした。
「以前、ルトーカ教団を潰した……あの、マルグリットさんか?」
「あ、覚えてくださったんですね」
トビアスが、少し複雑な表情を浮かべながら話し始めた。
「パートの仕事内容は、中小企業の休日夜間清掃員です。……本来、社員がいない時間帯に清掃するはずなんですが」
「はずなんですが?」
「いつも、従業員がいるんです。……中には、昨日と同じ服を着た人も」
トビアスの話では――。
マルグリットは、いつも冷えた食事を寂しそうに食べている従業員たちを見て、いても立ってもいられなくなった。
家から持参した、具材たっぷりのスープ、サンドイッチ。
給湯室を借りて、温め直し、従業員たちに振る舞った。
「わあ、温かい……」
久しぶりの温かい食事に、従業員たちの間から、堰を切ったように愚痴が溢れ出した。
「タイムカードを押してから、残業させられるんです」
「休日返上で働いているのに……」
「無理難題を押し付けてくる上司は、いつも定時帰宅で……有給もしっかり使ってるんですよ」
従業員一人ひとりの話を聞いて、マルグリットは呟いた。
「それって、おかしいわ」
◇
マルグリットは、いつもの茶飲み友達にそのことを話した。もちろん、いつものように、何も隠さず、ありのまま伝えた。
――翌週、その中小企業に監査が入った。
「誰が、内部情報を流したんだ!」
上司が真っ青な顔で、従業員たちを問い詰めていた、ちょうど、その時だった。
「それ……私です」
小学校の同級生と共に現れたのは――マルグリットだった。
「な……」
上司の顔が怒りで、真っ赤に染まっていく。
「お前のような女に、何が分かる――」
「いい加減にしろ!」
だが、それより先に大声を上げたのは――他でもない、マルグリットの同級生だった。
「私の妻を侮辱するのか!」
実は、マルグリットはこの同級生である中小企業の社長と来月再婚することが決まっていた。
「中小企業の役員なんて、やったことがないので……皆さんの様子を拝見させていただこうと思いまして」
相変わらず、マルグリットに悪気はまったくなかった。
上司は一瞬怯んだが、監査のことを責め立てる。
「お友達が、労働基準局の方なんですけど……」
マルグリットは、首を傾げた。
「言っちゃ、いけませんでした?」
◇
「……つまり」
ブランが、こめかみを押さえながら言う。
「マルグリットさんは、悪気なく、従業員の愚痴を労働基準局に勤める友人に、話しただけということか」
「はい」
トビアスが、力なく頷いた。
「それで、監査が入って……上司は、労働基準法違反で処分されることになりました」
「あなたのお母さんは、本当に悪気なく社会を正していくな……」
ブランが、深く息を吐きながら言った。
「マルグリットさんは、そのまま会社で役員しているの?」
ノワールが、興味津々で尋ねた。
「いや、役員って何していいか分からないと言って、各部署にお茶を出して回っているそうです」
「それは……風通りの良い職場になりそうだな」
ブランが、口元を隠しながら言った。
トビアスが、苦笑いしながら答える。
「義理の父の話では、離職率も下がった上、社員たちから働きやすくなったと言う声が多いそうです」
「それで、相談したかったのは……母がまた大事件を引き起こすんじゃないかって、心配で」
「大丈夫だと、思います」
ノワールが、思わず、笑いを堪えながら答えた。
「今回も、ただの痛快な話ですから」
◇
数日後、王都に出回った記事には、こう書かれていた。
『ある中小企業に吹き込んだ新しい風は、社内の悪しき習慣さえも壊し、大きな風穴を空けた。
新しく役員となった女性は、今も各部署を回り、社員たちにお茶を配っているという。
彼女に改革の意図があったのかは、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――「それって、おかしいわ」という一言から、この会社が変わり始めたことだ。
この役員が企業の大きな資産になったのは間違いない。
――ブラザーズ・ロペス』
事件後――初めてマルグリットが、インク・オブ・トゥルース社に訪れた。
ロペス兄弟は、期待に満ちた表情で出迎える。
「息子がお世話になっているそうで……でも、私、何も悪いこと、してませんよね?」
そう言って、マルグリットは首を傾げた。
「ええ、していませんよ」
ブランが、珍しくはっきりと断言した。
「むしろ……あなたのその正直さが、誰かを救ったんです」
「あら」
マルグリットは、にこにこと笑った。
「これ、差し入れです。息子からお二人がいつも顔色悪いって聞いていたので」
「あ、はい……ありがとうございます」
ノワールが、苦笑しながら受け取る。
マルグリットが上機嫌で、事務所をあとにしたあと――ブランとノワールは、差し入れの中身を見た。
そこには、スタミナがつきそうな料理ばかりだった。
「僕たちも体に気をつけろっていう、天恵かもね」
ノワールが、しみじみと呟く。
「ああ」
ブランが、ステーキサンドを手に取る。
「あ、ずるいよ!兄さん」
インク・オブ・トゥルース社内には、珍しく美味しそうな料理の香りが広がり、久しぶりに普通の兄弟の笑い声が響いていた。




