第三十話 奪われた過去
「先生の、顔を見た瞬間……」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、スクールカウンセラー、エリック・モンフォールだった。二十代半ば、まだ若い、しかし、どこか、疲れきった表情をしている。
「体が、震えました。……もう、あの人だけが呼んでいたリッキー坊やじゃないのに」
エリックは、両手を強く握りしめた。
「あの時の記憶が甦って……怖いと思ったんです」
「詳しく、聞かせてください」
ブランが、闇の静かに促す。
「僕が働いている、王都東のカラン地区にある小学校――オルタンシア初等学院に、新しく赴任してきた教師がいます」
エリックの声が、微かに震えた。
「あの人は……僕が小学生だった頃、性被害を受けた相手なんです」
事務所に、重い沈黙が落ちた。
「体の傷は、時間が経てば、治りました。でも、心の傷は……違ったみたいです」
エリックは、静かに目を伏せた。
「自分と同じ苦しみを抱える子どもを、一人でも多く救いたくて……スクールカウンセラーになりました。でも、まさか、あの人が目の前に現れるなんて」
「その教師の名前を教えてください」
ノワールが、静かに尋ねる。
「現在は、テオ・マレーと名乗っています」
「前歴者の就業制限について、確認は?」
ブランが、続けて尋ねた。
「もちろん、しました。……でも」
エリックの表情が、苦しげに歪んだ。
「該当する人物が、いないんです」
◇
ロペス兄弟は、まず当時の事件記録を丹念に洗い直した。
「これか……」
ブランが、古い裁判記録を指差す。
十五年前。加害者の名は、ダミアン・コスト。当時、二十五歳。被害者として、幼いエリックの名前が記されていた。
「エリックさん、顔も声も記憶も……全部、一致するって言ってたよね?」
ノワールが、資料と現在の学校名簿の写真を見比べながら唸る。
「ダミアン・コストの名前では、出所記録以来、何も出てこない……まるで存在すら消したみたいだ」
「生きていれば、何かしら足跡が残る」
ブランが、静かに続けた。
「ダミアン・コストという、人間の……戸籍は、もう存在しないのかもしれない」
ロペス兄弟は、今度はテオ・マレーという名前そのものを改めて調べ始めた。
同姓同名も存在するため、オルタンシア初等学院の教員という情報で絞り探していく。
テオ・マレーという名前の戸籍を調べた。
ヴァルメールの南に位置する町、ブランシャール出身。
テオ・マレーの戸籍は、十歳を最後に記録が止まっていたが、ダミアン・コストの出所後を境に、急に動き出していた。
「なんだ?この不自然な戸籍情報は……」
ブランが戸惑っていると、ノワールがロランの手帳を開いて見せた。
「テオ・マレーっていう名前、どこかで聞き覚えがあったんだよ。ここを見て!」
ロランの几帳面な文字に綴られた情報を見て、ブランは目を見開いた。
『テオ・マレー。十歳。三十年前、ブランシャールにて、失踪』
「三十年前……」
ノワールの手が、微かに、震えた。
「今は、四十歳。ダミアン・コストが名乗っていても違和感がない年齢だ」
「本物のテオ・マレーは消えたまま……」
ブランが、静かに呟いた。
「失踪した子どもの戸籍そのものが……身分を変えたい大人に使われている、ということ?」
ノワールの声に、隠しきれない、動揺が、滲む。
ブランは、しばらく、何も言わなかった。
ただ、静かに拳を握りしめていた。
「これまで、俺たちは金の卵詐欺、人身売買――子どもを奪う組織だと思っていた」
ブランが、低く切り出した。
「でも、それだけじゃない。敵は予想以上に規模が大きいみたいだ」
ノワールが、静かに続ける。
「前歴者照会にも出ないはずだよ。奪った子どもの人生そのものを……別の人間に着せかえているんだから」
二人の間に、これまでとは、質の違う重い沈黙が落ちた。
「子どもの身売り」
ブランが、静かに指を折っていく。
「失踪。戸籍の売買。身分の偽装。……そして、犯罪者に新しい身分を与えて、社会に送り返す」
ノワールが、掠れた声で続けた。
「金の卵詐欺なんて……あの組織の、ただの入り口に過ぎなかったということか」
ブランの声が、静かに震えた。
◇
ロペス兄弟は、「テオ・マレー」――ダミアン・コスト本人と対峙した。
「あなたは、テオ・マレーではない」
ブランが静かに告げる。
「十五年前――。当時、二十五歳だったダミアン・コストだ。……エリック・モンフォールへの加害行為で、有罪判決を受けている」
男の顔から、血の気が引いた。
「な、何を……」
「戸籍をどうやって手に入れ、買ったのか?」
ブランの声が、低く響いた。
「三十年前に、ブランシャールで失踪した子どもの戸籍を!」
男は、しばらく抵抗するように、視線を彷徨わせていたが――やがて、力なく肩を落とした。
「……刑期を終えても」
男が、震える声で絞り出した。
「ダミアン・コストのままじゃ、どこにも雇ってもらえなかった。……だから」
「だから、他人の人生を奪ったのか?」
ブランの声には、一切の容赦がなかった。
男は、それ以上、何も言えなかった。
ロペス兄弟は、彼を身分詐称の容疑で、王都憲兵隊に突き出した。
◇
事件の顛末を、事務所で整理しながら――ノワールは、しばらく黙り込んでいた。
「兄さん」
「どうした?」
「もし……」
ノワールの声が、微かに震える。
「もし、組織がこんな風に人の戸籍を着せ替えられるなら……可能性はあるのかな?」
ノワールは、言葉を濁して止めた。
だが、ブランにはその意味が分かっていた。
もし――アイツも同じように別の名前、別の人生を着せかけられているのだとしたら。
あるいは――アイツがもうこの世にいないのだとしたら。
「……分からない」
ブランが、静かに答えた。
「だが」
その声には、これまでにない緊張が滲んでいた。
「それを確かめない限り、俺たちは終われない」
◇
数日後――。
王都に出回った記事には、こう記されていた。
『かつて少年だった男性が、過去の記憶と向き合ったことで、法の目を掻い潜っていた犯罪が明らかになった。
利用されていたのは、失踪者の戸籍だった。
誰かの止まった"空白"を埋めるために、別の誰かが、その人の人生を使っているのだとしたら。
消えた者たちは、どこへ帰ればよいのだろう。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
事件後――エリックが、再び事務所を訪れた。
「あの人が捕まったからといって……僕の心の傷が消えるわけじゃありません」
エリックは、静かに続けた。
「でも……僕は決めました」
「決めた?」
ノワールが、静かに尋ねる。
「ええ。スクールカウンセラーとして、これからも傷ついた子どもたちに寄り添っていきます。それだけではなく、僕のように傷つく子どもを、これ以上、増やさない。……そのために、できることをしていこうと思います」
エリックの目には、静かな、しかし、確かな決意が宿っていた。
「学校だけじゃなく……社会全体が子どもたちを守れるように」
ブランとノワールは、静かに頷いた。
「応援しています」
ノワールが、静かに微笑んだ。
エリックが事務所をあとにしたあと――二人の間には、しばらくの間、静かな沈黙が残っていた。
その静けさの奥で、二人はこれまでとは違う種類の不安を抱え始めていた。




