第二十九話 忘れられない一杯
「探して、欲しい酒があるんです」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、オーウェン・カレルという初老の男だった。
「酒?」
ノワールが意外そうに聞き返す。
「はい。……もう、何年も探し続けているんですが見つからなくて」
オーウェンは、静かに、語り始めた。
「数年前、付き合いの飲み会の帰りに――飲み足りなくて、ふらりと、路地裏の小さな店に入ったんです」
「普段は、ワインを好むんですが……その店には置いてなくて。おまかせで、頼んだのが果実酒でした」
オーウェンの目が微かに潤む。
「あんな酒は……あれきり、飲んだことがありません」
「どんな味だったんですか?」
ノワールが、静かに尋ねる。
「豊潤な香り。濃厚でまろやかな甘み。それでいて、すっきりとした果実の酸味……。ロックでも、ストレートでも、水割りでも、どう飲んでも美味しくて」
オーウェンは、遠くを見るように続けた。
「銘柄を聞いたら――『ラッキーカクテル』と。普段は、店には並ばない特別な酒だと言われました」
「その店の名前は?」
ブランが静かに尋ねる。
「それが……分からないんです」
オーウェンは力なく首を振った。
「あの日、色々な飲み方で飲んでいるうちに、泥酔してしまって……家にどうやって帰ったのかも、覚えていません」
「後日、店を探したんですが、路地裏だったという印象はあるものの……バーやパブのような店は、どこにもなかったんです」
「市販の果実酒は、試したのか?」
ブランが、続けて尋ねる。
「ええ。……国内で買える果実酒は、一通り試しました。ですが、どれも違うんです」
オーウェンは、静かに目を伏せた。
「もう、何年も経ちました。……それでも、あの一杯の味が忘れられないんです」
◇
ロペス兄弟は、王都中の酒場やバーを聞き込んで回った。
「『ラッキーカクテル』? 聞いたことないな」
「そんな店、この辺りにはなかったと思うが……」
どこへ行っても、同じような答えが返ってくるだけだった。
「手詰まりだね……オーウェンさん、あの日泥酔してたって言ってたし、そもそも、そんなお酒があったのかな?」
ノワールが深く息を吐いた。
「泥酔していたなら、店の場所や帰り道を覚えていないのは不思議じゃない」
「でも、味や香りだけは妙に鮮明に残っていることがある」
ブランが、腕を組んだ。
「豊潤な香り。濃厚でまろやかな甘み。すっきりした酸味……酔っ払いの記憶に残った鮮明な情報ってことになる」
「存在はするけど情報がないなんて、本当に幻の一杯だね」
ノワールが、静かに答える。
◇
行き詰まったロペス兄弟は、ふと、ある人物のことを思い出した。
「そういえば……」
ノワールが呟く。
「ジャックさんなら、何か知ってるかもしれない」
以前の事件で縁のあった、趣味でルポライターの真似事をしているジャック・オランを事務所に呼んだ。
「果実酒、ですか?」
ジャックは話を聞くと、しばらく考え込んだ。
「豊潤な香りで……濃厚でまろやかな甘み……すっきりした酸味……」
彼は、その特徴を繰り返し呟いた。
「あ」
ジャックが、はっと、顔を上げた。
「それ、私も飲んだことあるかもしれません」
「本当か?」
ブランが身を乗り出す。
「はい。……先日、参列したセレブレーション・オブ・ライフで……振る舞われたお酒が、まさに、そんな感じでした」
「セレブレーション・オブ・ライフ?」
「ええ。故人を偲びながら、生前を祝う形の葬送儀礼です。……あるご高齢の女性のお別れ会だったんですが」
ジャックは、静かに続けた。
「その方が生前、よく振る舞っていたという手作りの果実酒が、お別れ会でも出されていて。……あれは、確かに、忘れられない味でした」
ロペス兄弟は、顔を見合わせた。
「その女性のご家族の住所は、分かるか?」
ブランが、静かに尋ねる。
◇
ジャックの案内で、ロペス兄弟とオーウェンは、王都近郊の小さな一軒家を訪ねた。
出迎えたのは、まだ若い男性だった。
「祖母のことで、いらしたと伺いましたが……」
「はい。……亡くなられたお祖母様が作られたというお酒について、お伺いしたくて」
ノワールが、静かに切り出す。
「祖母が作ったお酒?」
男性はしばらく考えていたが、やがて、思い出したように言った。
「ああ……それ、うちの祖母が趣味で作っていた果実酒じゃないかな。先日のセレブレーション・オブ・ライフでほとんど振る舞ってしまったので、ほとんど残っていませんが」
ロペス兄弟は、オーウェンを呼び出した。
「この男性に、見覚えはありますか?」
「いいえ。ただ、祖母は高齢だったこともあり、父や私の知り合いだと勝手に思い込んで……よく、家に上げていたんです」
「もしかしたら、そちらの男性も、それで祖母と知り合われたのかもしれません」
オーウェンが、静かに口を開いた。
「あの日……私は酔っていて、ふらりと入った路地裏で、バーやパブだと思って入ってしまった可能性がありまして……」
「その話なら、祖母から聞いたことがあります。知り合いかと思ったら、間違えて訪ねてきた酔っぱらいだったって、祖母が笑っていたのを覚えています」
「お手製の果実酒を誉めてくれるから、調子にのって飲ませ過ぎたって笑っていました」
男性は、懐かしそうに続けた。
「あの酒の銘柄は……」
オーウェンが静かに尋ねる。
「銘柄なんて、ないですよ」
男性は、小さく笑った。
「祖母が、たまたま安売りしていた甘い醸造酒に――家にあった果物を適当に漬け込んだだけのものです」
「甘い醸造酒?」
ノワールが、思わず聞き返す。
「はい。……お米から作る料理の下ごしらえにも使うという、とろっとした甘い酒だそうです。祖母は、それを気に入っていたみたいで」
「だから、銘柄なんてどこにもないんです。『ラッキーカクテル』っていう名前も、祖母が勝手に呼んでいただけで」
オーウェンは、しばらく言葉を失っていた。
「では……あの味は……」
「祖母だけのレシピでした。……作り方も分量も気分次第だったので、正直、二度と同じ味にはならないと思いますよ」
男性は、静かに目を伏せた。
「そんな祖母も……先日、亡くなりました」
その言葉に、オーウェンは大きく目を見開いた。
「そんな……」
オーウェンの何年にも渡る探索は――ほんの、わずかな差で間に合わなかったのだ。
◇
「あの……」
男性が、静かに口を開いた。
「もし、良ければ……瓶の底に、少しだけ残っている分があります。……お持ちしましょうか?」
しばらくして、男性が小さな瓶を持ってきた。
中には、わずかに琥珀色の液体が残っていた。
オーウェンは、震える手でその瓶を受け取った。
小さなグラスに、少しだけ注ぐ。
そして、大事そうに、一口含む。
しばらくの沈黙のあと――彼の目から、静かに涙がこぼれた。
「この味です……」
声が震えていた。
「間違いありません……あの日の味です!」
「ああ、美味しい」
男性も、その様子を見て、静かに微笑んだ。
「祖母も、きっと、喜んでいると思います」
◇
事務所への帰り道――オーウェンは、これまでとは違う表情をしていた。
「今度は……私が、このラッキーカクテルを引き継ぎます」
彼の声には、これまでの探し求める者の切なさとは違う、新しい決意が宿っていた。
「果実酒、作るのか?」
ブランが、静かに尋ねる。
「はい。……あの日の味を自分の手で、もう一度」
ブランは、少し考えるように間を置いた。
「一つだけ、言っておく」
「はい?」
「あの甘い醸造酒は、アルコール度数二十度に届かない」
オーウェンが、目を丸くする。
「王国交渉人として、アドバイスしておく。果実酒を漬けるなら、度数二十度以上の酒を使え。それより、低い酒で漬けると法に触れるからな」
「じゃあ、あの味は……」
「同じ材料ではない。だが、目指す味は、今、あなたが持っている瓶の中にある」
ブランが、静かに続けた。
「まあ、あくまで自分で楽しむだけにしとけよってことだ」
オーウェンは、少し驚いた様子だったが――やがて、静かに頷いた。
「肝に銘じます」
◇
数日後、王都に出回った記事には、これまでとは違う、軽やかで少し切ない筆致で、こう記されていた。
『幻の酒――「ラッキーカクテル」。
それはどこにも売られていない、どんな店にも置かれていない一杯だった。
その正体は、ある、おおらかな女性が、たまたま、安売りしていた料理用の甘い醸造酒に、家にあった果物を気まぐれに漬け込んだだけの――誰も再現できない、彼女だけの味だった。
名もなき酒は、名もなき優しさから生まれていた。
そして今、その味を探し続けた男が――新しく、その名を引き継ごうとしている。
その幻は、受け継がれていく。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
事務所に戻ったノワールが、ふと呟いた。
「あの果実酒、飲んでみたかったなー」
「……俺もだ」
「豊潤な香り。濃厚でまろやかな甘み。それでいて、すっきりとした果実の酸味……」
「それ以上、言うな。余計に飲みたくなる」
ブランの珍しい表情に、ノワールが笑う。
王都の夕焼けには、あのラッキーカクテルのように澄んだ色をしていた。




