第三話 幽霊も泊まりたくなる宿
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、恰幅の良い宿屋の主人だった。手にした帽子を、落ち着かない様子で握り締めていた。
「うちの宿屋に、幽霊が出るんです……!」
「幽霊、ですか?」
ブランが問い返すと、宿屋の主人は勢いよく頷いた。
「王都近郊では評判の宿屋だったんです。それが、半月ほど前から、夜中に白い人影が出るだの、鎖の音が聞こえるだのと噂が広まって……。お客様が来なくなりました」
「なるほど」
ブランは腕を組み、しばし考え込んだあと、口を開いた。
「本物の幽霊なら、商売になるな……」
「兄さん!」
ノワールが呆れた顔で兄を小突く。
「依頼なんだから、真剣に聞きなよ」
「いや、真面目な話だ。幽霊が出る宿屋なんて、逆にイカれた客が押し寄せるだろう。それが減っているということは……」
「幽霊にしては、お粗末ってこと?」
「そういうことだ」
宿屋の主人は二人のやり取りに、戸惑いながらも縋るような目を向けた。
「お願いします……。あの宿屋は、亡くなった妻と二人で、一から作り上げた場所なんです。このままでは、潰れてしまいます」
その言葉に、ブランの表情が少し引き締まった。
「分かりました。調査を、お引き受けします」
◇
その夜、二人は宿屋に泊まり込み、噂の真相を確かめることにした。
宿屋は年季の入った建物だが、清掃も行き届いており、王都近郊としては価格も良心的だった。
「いい宿だな」
ブランは部屋の隅々をチェックした。
ノワールは宿屋の主人の証言調書を読み返す。
「この幽霊……」
「気づいたか?毎週金曜日の零時近くに出るらしい」
「幽霊にも出勤日って、あるのかな?」
「かもな、そろそろ零時だ」
◇
深夜、廊下の奥から、ぼんやりと白い人影が浮かび上がる。
「ヒッ……」
同宿していた客の一人が、悲鳴をあげて部屋に逃げ込んだ。
ロペス兄弟は、部屋から飛び出した。
どこからともなく、鎖を引きずるような音。
そして、すすり泣くような声が、廊下の暗闇に響く。
「これって……」
ノワールが息を呑む。だが、ブランは冷静に、鼻をひくつかせていた。
「完全に生きている人間だな。油とタバコの匂いがする」
「しかも、この泣き声……感情が籠っていないね。台本を読んでいるみたいだ」
ノワールが廊下の角へ目を向けると、エプロン姿の女性が手招きしているように見えた。
ブランは、逆側の白い人影を追った。
ブランが近づくとすっと物陰に消えてしまった。
「逃げ足だけは、本物の幽霊顔負けだな」
ブランはノワールの向かった方向へ引き返した。
廊下の窓から下を見ていたノワールにブランが話しかけた。
「そっちは、どうだ?」
「逃げられちゃった。でも、犯人は飛び降りた衝撃で足を怪我したと思う」
◇
翌日、二人は宿屋の周囲を隈なく調べて回った。
廊下の天井近くには、細い糸の跡。壁際には、うっすらと反射板のようなものが仕込まれた跡が見つかった。
「白い人影の正体は、これだろうな」
ブランが天井を指さす。
「薄い布を、糸で滑らせて動かす。反射板で月明かりを反射させれば、輪郭がぼんやり光って見える。舞台装置でよくある古典的な仕掛けだ」
鎖の音についても、床下に隠された滑車と鎖が発見された。
誰かが宿屋の外から紐を引くだけで、廊下中に不気味な音が響く仕組みになっていた。
「でも、泣き声は?」
「あれは、多分これだね」
ノワールが拾い上げたのは、木製の小さな笛だった。息の吹き方次第で、人の泣き声のような、湿った音を出せる代物だ。
「随分と手が込んでいる。実行犯は一人じゃない。この手招きを考えても素人の悪戯じゃないな」
ブランが呟く。
「誰が、何のためにこんなことを?」
二人は目撃者を探すべく、宿屋の近隣に住む人に聞き込みを開始した。
――結果は惨敗だった。
近隣は空き家ばかりだった。
二人は、空き家の窓から中の様子を伺う。
「最近、出ていったばかりのようだな。埃も蜘蛛の巣もない」
「兄さん、こっちの家も駄目だった。二週間分の新聞が溜まっていたから長期不在だね」
「法務局で調べた方が良さそうだな」
土地台帳を調べると、思わぬ事実に辿り着いた。
宿屋の隣接地の所有者が全て――ガストン・レヴァンスだった。
また、ガストンが代表を勤めるレヴァンス商会が大型商業施設計画書の申請をしていることも分かった。
宿屋の主人に確認すると「土地を売らないか?」と何度も持ちかけていたことが分かった。
「幽霊騒ぎが起きたのは、その直後、というわけか」
「地価を下げて、安く買い叩くつもりだったんだね」
ノワールが顎に手を当てる。
「幽霊が出る宿屋の土地なんて、誰も欲しがらない。主人が音を上げて手放すのを待っていた、ということか」
◇
その夜、二人は再び宿屋に潜み、仕掛けが作動する瞬間を待った。
案の定、深夜、庭の茂みからレヴァンス商会の者らしき男が忍び寄り、天井裏の糸を操作しはじめる。
「動くな、今度は足だけじゃ済まねえぞ」
ブランの声に、男は飛び上がって固まった。
程なくして、事の次第を知らされたガストン・レヴァンスが、顔面蒼白で駆けつけてきた。
「な、何かの間違いだ!私は何も知らない!」
「従業員の方は、全て話してくれましたよ。可哀想に怪我までして……労災出してあげてくださいね」
ノワールが涼しい顔で言う。
「白い布、反射板、滑車と鎖、笛。仕掛けの材料は、すべてあなたの商会で社内割引きを利用して購入したそうですよ」
「そ、それは……」
言葉に詰まるガストンに、ブランが静かに歩み寄る。
「幽霊なら、無罪放免」
「な……」
「これで宿屋が潰れたとしても、誰も罰することができない」
ガストンが、わずかに安堵しかけたその瞬間。
「だが、犯人が人間なら違う。脅迫罪、住居侵入罪……器物損壊罪もあったな」
ブランの声が、一段低くなった。
「レヴァンスさん、だめですよ。人の建物にシリアルナンバー入りの滑車を取り付けるのは」
ブランが差し出したのは、滑車の仕入れ記録、実行犯の購入記録、従業員の証言書、そして土地買収を持ちかけた際のやり取りをまとめた書類だった。
ガストンの顔から、完全に血の気が引いた。
「レヴァンスさん、このまま法廷でご自身の言い分を裁判官にお話いただいても構いませんが……今、この場で決着つけませんか?」
◇
数日後、王都に出回った告発本には、これまでとは少し違う、軽やかな筆致でこう記されていた。
『王都近郊の宿屋に、幽霊ですら泊まりたくなるほど、居心地の良い宿屋がある。
現在、レヴァンス商会が進めている商業施設の中心にある宿屋。
――この宿屋には予約を待ちきれなかった幽霊が出るらしい。
真実か嘘かを見極めるのは己の目だけ――。ブラザーズ・ロペス』
この告発本は、思わぬ形で王都中に広まった。
「幽霊も泊まりたがる宿屋、だって」
「面白いじゃないか。行ってみようか?」
悪評だったはずの噂は、いつの間にか宿屋の名物として語られるようになった。商業施設が完成した頃には、宿屋には以前にも増して客が押し寄せるようになった。
◇
事件解決後、ブランとノワールが宿屋の主人のもとを訪れた。
宿屋は日中にも関わらず繁盛していた。
「お二人には感謝してもしきれません。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる宿屋の主人。
「これから忙しいと思いますが、従業員の方と頑張ってください」
ノワールがそう言うと、宿屋の主人は首をかしげた。
「この宿屋は私一人でやっておりますが……」
ノワールはカウンターの奥に飾られた写真立てを指差す。
「あの女性ですよ、この前も宿屋にいたでしょ?あの方は従業員では……」
宿屋の主人が一枚の写真立てを手に取った。
若い頃の宿屋の主人と、隣に寄り添う女性が写っている。
「ああ。これは、亡くなった妻です」
その言葉にノワールの顔が白くなった。
「あの夜、僕に『男がこっちにいます!』って……」
「お前、だから反対側に向かったのか?」
「……」
宿屋の主人が、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「幽霊でもいいから、お前に会いたいよ」
ブランは、その言葉に何も返さなかった。
事件は終わった。
幽霊騒動は、地価下げ目的の犯行だった。
仕掛けられた白い布も、鎖の音も、すべて人の手によるものだった。
けれど――
人が「幽霊に会いたい」と願う、その気持ちだけは、本物だ。
宿屋を出た二人は、しばらく無言のまま、王都へ続く道を歩いた。
「兄さん」
「なんだ?ビビったのか」
「違うよ!ただ、今回みたいな終わり方、悪くないなと思って」
ブランは、少しだけ口の端を上げた。
「ああ。守るべきものは守れた」
二人の背後で、宿屋の窓に灯る明かりが、優しく揺れていた。




