第二話 甘い言葉の代償
ある雨の降る午後だった。
インク・オブ・トゥルース社のドアを開けたのは、若い女性だった。
仕立て屋の娘、エマ・ハート。震える手には、一枚の証書のようなものが握られていた。
「あの……婚約者に、お金を貸したんです。結婚資金として、貯めていたお金を全部……。でも、彼、急に姿を消してしまって」
「なるほど。相手の名前は?」
ブランが問うと、エマは深く息を吐いた。
「ヴィクトル・クロード様、と……貴族の方です」
事務所の奥からノワールが紅茶を持ってきた。
「貴族様、ねえ……」
ノワールが呟いた。その声は呆れでも同情でもなく、獲物を見つけた狩人のような響きだった。
「大変でしたね」
そう声をかけると、エマの前に紅茶を置いた。温かい紅茶を飲んだエマはほっとした表情になる。
「ちなみに、この女性たちに見覚えは?」
そこには、ヴィクトル・クロードの件でインク・オブ・トゥルース社を訪れた女性たちの写真があった。
「いいえ」
◇
エマが帰ったあと、兄弟の間で短い会話が交わされた。
「またヴィクトル・クロード様かよ」
とブラン。
「貴族という身分を盾に、平民から金を巻き上げる。これで三件目だ」
「僕が調べてみるよ、兄さん」
ノワールはそう言うと、上着を羽織り直した。その表情には、涼しげな余裕がある。
「女性の話を聞くのが得意なんでね」
「女にモテるのは俺だ!」
ノワールが苦笑しながら、手をヒラヒラとさせ、出ていった。
二人の軽口の裏には、兄弟の役割分担が透けて見える。
ノワールは社交界に紛れ込み、自分の魅力を最大限に活かして女性たちの警戒を解きながら情報を集める。
甘い言葉、優しい相槌、聞き上手な佇まい――それは詐欺師が使う武器と、驚くほど似ている。
一方のブランは、契約や和解交渉を担う王国交渉人の資格を武器に現場に飛び込み、証拠を掴む。危険を厭わず、体で真実に触れにいく。
水と油のような二人だが、いつも事務所には、もう一人の存在があった。
古びた写真立てには、幼い三人の子どもが笑っていた。
ブランが写真を黙って見つめていた。
インク・オブ・トゥルース社には白と黒。交わらない二人を繋いだ『灰色』が確かにあった。
◇
数日後――。
ノワールは社交界の夜会に潜り込み、それとなくヴィクトル・クロードの評判を探っていた。
「クロード様? ああ、素敵な方よ。私も一度お会いしたけれど、とても優しい言葉をかけてくださって」
夜会に集う令嬢たちの口から出るのは、賞賛ばかりだ。だが、ノワールは笑顔の裏で、注意深く聞き耳を立てていた。
「――こんなに素敵な女性を目の前に口説かれなかったの?」
ノワールが令嬢の瞳を覗き込むように尋ねると、女性たちは赤く頬を染めた。
「あの方、貴族の女性には興味がないようでしたわ……そういえば少し前まで、パン屋の娘さんと親しくしていたと侍女たちが話しているのを聞いたわ」
パン屋の娘――。
ノワールの中で、点と点が繋がりはじめる。
◇
翌日、ブランが訪ねたのは、パン屋で働くソフィア・ミラーだった。
「クロード様とは、婚約する約束をしていました。でも、彼が事業資金が足りないって……。私、母の形見の指輪まで渡してしまって」
声が震えていた。母の形見――それは金では取り返しのつかないものだ。
「もう一人、いる」
ブランが呟いた。エマだけではない。被害者は、確実に増えていた。
そして三人目――。
宿屋の看板娘、クララ・ベネット。彼女の話を聞いたとき、ノワールの表情から、初めて笑みが消えた。
「持参金だけじゃない……。あの男、彼女に何かやっている」
ノワールは多くを語らなかったが、代わりに証拠として用意された医師の診断書をブランに出した。合意の上とは思えない肉体的傷と医師の所見を読めば、クララの被害は金銭だけではないことは明らかだった。
ブランの拳が、静かに握りしめられる。
「もう十分だ。クソ野郎、絶対逃がさない」
◇
ヴィクトル・クロードの屋敷。
突然の訪問者に、ヴィクトルは眉をひそめた。
「何の用だ、平民風情が」
「エマ・ハートという女性をご存知ですね?」
ブランが切り出す。
「ああ……彼女か。金をくれると言うから、少し借りただけだ」
「そうですか。借用書は?」
「口約束だ。書面など、野暮じゃないか」
ヴィクトルは鼻で笑った。だがその余裕こそが、彼の敗因になる。
「では今から書いていただきましょうか。婚約の話も、金額も、全部」
ブランがコートを捲り、ジャケットに付けられた王国交渉人バッジを見せる。
「裁判になった時のための確認書です」
くたびれた鞄から取り出したのは、公正証書の様式が整った書類だった。
ヴィクトルは軽い気持ちで、自らの首を絞める言葉を綴り、自分の名前をサインした。
「これでいいだろう。迷惑をかけた。用は済んだから、帰ってくれ」
「まだ帰れませんよ?」
ブランの声が、静かに低くなる。
「被害者は一人なんて、誰が言いました?」
ヴィクトルの顔から、余裕が消えた。
「な……」
そこへ、ノワールが一歩前に出る。手には、集めた証言と証拠の束。
「あなたが女性たちに語った甘い言葉。その裏付けになる証拠です。」
「ソフィア・ミラー。この女性、ご存じですね?母の形見の指輪を騙し取られた女性です」
「クララ・ベネット。あなた、この女性には金だけでなく、心身ともに傷つけた。これが証拠です」
一枚、また一枚。積み重なる証拠に、ヴィクトルの顔から血の気が引いていく。
「俺を……騙したのか!」
「騙したのは、あなたでしょう?」
ブランの声には、一切の揺らぎがなかった。
「俺を誰だと思っている。貴族だぞ!」
ヴィクトルが最後の盾を振りかざす。だが、それこそがブランの待っていた言葉だった。
「その身分で、何人の女性を黙らせてきたんですか?」
沈黙が屋敷を支配する。
「全部、責任取ってくださいね」
◇
数日後、王都に出回った一冊の告発本。
その最後のページには、こう記されていた。
『我々ロペス兄弟は、正義を気取るつもりはない。ただ、声を上げられない者たちの声を、代わりに届けているに過ぎない。
身分は、罪を覆い隠す盾にはならない。
甘い言葉は、真実の前では脆く崩れる。
エマ・ハート、ソフィア・ミラー、クララ・ベネット。
三人の女性が失ったものは、決して安くはない。
しかし、彼女たちが再び前を向いて歩けるよう、我々は事実を、ここに置く。
光の中に、この真実を――。ブラザーズ・ロペス』
インク・オブ・トゥルース社に戻ったブランを、ノワールが出迎える。
「お疲れさま、兄さん。エマさんたちから、お礼の手紙が届いてるよ」
ブランが手紙を受け取り、目を通す。そこには、たどたどしい文字で「ありがとうございました」と綴られていた。
「これでいい。誰も、泣き寝入りする必要はない」
ノワールも、珍しく穏やかな表情で頷いた。
「女性たちが立ち直れる日が来るといいね」
窓の外には、穏やかな夕陽が差し込んでいた。
◇
この日、王都の人々は噂した。
――ロペス兄弟の告発は、常に正しい。
彼らは、光の中に真実を置く者たちだ、と。
彼らは誰もまだ、知らない。
この「正しさ」が、この先何度も、静かに揺らいでいくことになることを……。




