第二十五話 迷いの森
ロペス兄弟が訪れたのは、インク・オブ・トゥルース社に届いた手紙とロランの手帳が一致した王都南区にある貧民街だった。
住所の場所に向かうと、まだ喪に服しているのだろう。暗い色の服を着た初老の女性が出迎えた。
「ミレイユ・アダンと申します」
彼女は、震える声で、名乗った。
「先日、姉を、亡くしまして」
「お悔やみ、申し上げます」
ブランが、静かに、頭を下げる。
「姉の遺品を整理していた時に、これが、出てきたんです」
ミレイユは、色褪せた一枚の写真を、テーブルの上に置いた。
写真には、幼い男の子と、その母親らしき女性が、寄り添うように写っていた。
男の子が着ている服――それは、ラメント村の案山子が身にまとっていたものと、まったく同じ意匠だった。
「これは……」
ノワールが、写真を、じっと見つめる。
「姉の息子です。私の、甥にあたります」
ミレイユは、静かに、続けた。
「十年以上前に、失踪しました。……それきり、一度も」
ブランは、ロランの手帳を開いた。
几帳面な文字で綴られたページを、一枚ずつ、めくっていく。
「あった」
ブランが、一つの記録を、指差した。
王都南区、日雇い労働者集積所。
十三歳、男児。片親家庭。母親が病気、あるいは困窮。本人が日雇い労働で家計を支えていた。
最後の目撃地点――南区の広場。失踪当日、南区の日常である日雇いの呼び込みの声に、大勢の労働者が集まった中で、姿を消す。
失踪理由について、複数の証言あり。家族の介護に疲れて逃亡した、危険な仕事に手を出した、借金絡みではないか――いずれも、確証なし。
そして、手帳の最後には、こう記されていた。
『証言者は多い。だが、少年を最後に見た者はいない』
「……これだけの人がいたのに」
ノワールが、手帳を見つめたまま、呟く。
「誰も、見ていなかったのか」
「いや」
ブランが、静かに、首を振った。
「見ていなかったんじゃない。……見る余裕が、なかったんだ」
日々の日雇いで生活をやりくりする貧民街の住人にとって、仕事が最重要なのは当然だった。
◇
ロペス兄弟は、南区――貧民街を訪ねた。
当時から変わらず、日雇い労働者たちが、朝早くから、広場に集まっていた。
「仕事あるよー!」
その声に、大勢の人が、一斉に、駆け寄っていく。
押し合いへし合いする人混みの中で、ブランは、ふと、足を止めた。
(この中で、誰かが消えても……)
誰も、気づけないだろう。
そう思わせるほどの、密度と、必死さだった。
当時を知るという、老いた日雇い労働者に、話を聞くことができた。
「あの子のことは……覚えてるよ。母親想いのよく、働く子でな」
男は、遠くを見るように、目を細めた。
「でも、あの日は……こっちも、必死だったんだ。仕事にありつけなきゃ、その日、食えない。隣の人間のことなんて、見てられる余裕がなかったんだ」
「あなたを、責めているわけでは、ありません」
ノワールが、静かに、言葉を挟む。
「分かってる。分かってるんだが……」
男は、皺だらけの手で、顔を覆った。
「あとになって、ふと思うんだ。あの日、俺が、あの子の方を見ていたら――何か、変わってたんじゃないかって」
別の住人も、似たようなことを口にした。
「誰かを責めても、あの子は戻ってこない。……でも、何も悪くなかったことにも、できない気がしてな」
聞き込みを重ねるほど、ロペス兄弟の中に、言葉にならない重さが、積もっていった。
誰も、少年を、見捨てたわけではない。
ただ、誰もが、自分が生きることに、精一杯だった。
それだけのことが――一人の少年を、静かに、この世界から、消してしまえるほどの、隙間を作っていた。
「これは……」
ノワールが、静かに、呟く。
「誰かを、罰して、終わるような簡単な話じゃないね……」
ブランは、何も、答えなかった。
ただ、雑踏の中に紛れていく、日雇い労働者たちの背中を、じっと見つめていた。
◇
ロペス兄弟は、改めて、ミレイユのもとを訪ねた。
「お姉さんから、何か、変わったことを、聞いていませんでしたか?」
ブランの問いに、ミレイユは、しばらく、考え込んでいた。
「そういえば……」
彼女は、静かに、語り始めた。
「息子がいなくなってから、しばらくして……姉のもとに、時々、お金が、届くように、なったんです」
「差出人は?」
「分かりません。……でも、姉は、いつも、こう言っていました」
ミレイユの声が、震える。
「『これは、あの子からのものだと思う。……息子の字くらい、覚えているもの』って」
「書き付けが、あったんですか」
ノワールが、静かに、尋ねる。
「短い、荷札のようなものが、添えられていることが、あったそうです。……達筆ではないけれど、几帳面な、丁寧な字だったと」
だが、それを裏付ける証拠は、何一つ、残っていなかった。
母の『確信』だけが、長い年月、彼女の、支えになっていたのだ。
「姉は、そのお金で、長年、患っていた病の、治療を受けられるように、なりました」
ミレイユは、静かに、目を伏せた。
「最期まで、あの子に感謝していました。……『どちらが親か分からない』なんて言って、あの子のことを、誇らしそうに、話していたんです」
◇
母親の葬儀の日のことを、ミレイユは、忘れられずにいた。
「あの日、届いたんです。……信じられないくらいの量の、花が」
棺が、埋もれてしまうほどの、白い花束。
差出人の名は、どこにも、記されていなかった。
ロペス兄弟は、葬儀場に配達した花屋を、当たった。
「ああ、あの注文でしたら……」
花屋の店主は、記録を確認しながら、答えた。
「依頼主の方は、直接、店には、いらっしゃいませんでした。使いの方を通して、注文だけを、預かったんです」
「花の種類は、指定が?」
「ええ。この花を、と。……高級品種なんです。しかも、あの量をでしょ?うちのような店には滅多にないので、よく覚えていますよ」
破格の金額だったという。だが、それ以上のことは、何も、分からなかった。
そのことをミレイユに伝えると、涙をこらえきれなかった。
「あの子が……ちゃんと、見ていたんですね。見送りに、来られなくても」
ブランとノワールは、しばらく、言葉を失っていた。
貧民街で仕事を求めていた十三歳の少年が、まっとうな手段で、家族を養えるほどの、大金を稼げるはずがない。
母の葬儀に、これほどの花を用意できるほど、成功したのならなぜ参列しないのか。
――では、その金は、その花は、いったい、どこから、来たのか。
送金の一部の経路を、密かに、辿ってみると――以前、旅行会社の資金洗浄事件で見た手口と、酷似した痕跡が、うっすらと、浮かび上がった。
金の流れを複数の取引に紛れ込ませ、出所を追えなくする――あの時と、よく似ていた。
だが、決定的な証拠には、至らなかった。
「……十三歳か」
ブランが、静かに、そう呟いた。
「兄さん?」
ノワールが、声をかける。
だが、ブランは、何も、答えなかった。
ただ、その目は、遠くを見るように、じっと、動かなくなっていた。
◇
その夜、事務所に戻った二人は、しばらく、何も、話さなかった。
机の上には、あの写真と、花屋の記録と、母親の遺した、確信だけが、静かに、並べられていた。
花を見つめたまま、ノワールは、しばらく、動かなかった。
「母親は、救われた」
やがて、絞り出すように、そう言った。
「きっと、悲しみや後悔も、あっただろうけど……最期まで、息子の存在を、信じていたんだ。それを、間違いだったなんて、僕には、言えないよ」
声が、微かに、震えていた。
「俺も、そう思う」
ブランが、静かに、答える。
「あの母親が、最期まで、希望を持って生きられたのは……事実だ」
「じゃあ……」
ノワールが、顔を上げる。
だが、ブランの表情は、変わらなかった。
「だが、俺には、どうしても、あの子の顔が、想像できてしまうんだ」
ブランの声が、初めて、掠れた。
「十三歳の子どもが……光の当たらない場所で、母親のためだけに、生きている姿が」
ノワールが俯いた。
「……そうだね」
声が、崩れる。
「分かってる、けど……それでも、あの子は、母親を、笑って死なせてあげられたんだ。それだけは、誰にも、奪えない事実なんだ」
ブランは、何も、答えなかった。
ただ、静かに、ノワールの背中に、手を置いた。
「どちらも本当のこと、だ」
ノワールが掠れた声で、繰り返した。
「だから、僕は、これが、正しかったのか、間違ってたのか……一生、分からないと、思う」
事務所の窓の外には、王都の、いつもと変わらない夕暮れが、広がっていた。
だが、その日の夕暮れは、二人にとって、どこまでも、重く、長いものだった。
◇
数日後、王都に出回った記事には、これまでとは、違う、静かな筆致で、こう記されていた。
『この記事に、結論はない。
少年は、誰にも強いられることなく、自らの意志で、家族のために、すべてを差し出した――のかもしれない。
見捨てたのは、貧民街の人々ではなく、彼らに目を向けなかった、この国そのものだったのかもしれない。
救ったのは、少年を利用した者たちだったのかもしれない。
――その答えは誰にも分からない。
我々は、この問いに、まだ、答えを、持たない。
深淵に希望の星という名の光が注がれる世界へ。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
ミレイユは、姉の墓前に、あの日と同じ、白い花を、そっと供えた。
「あの子は……」
彼女は、静かに、空を見上げた。
「今も、どこかで、生きているわよね……」
その問いに、答える者は、誰も、いなかった。
王都には、今日も、貧しさの中で、必死に生きる人々がいる。
その誰もが、悪人ではない。
それでも、その隙間から、静かに、消えていく命が、確かに、あるのだった。
迷いの森に、出口は――まだ、見えない。




