第二十四話 理想の夫
「兄が、偽物になったんです」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、シャーロット・クロスという若い女性だった。
「偽物、というのは?」
ブランが、静かに問い返す。
「顔も、声も、兄のものです。でも……中身が、まるで違うんです」
シャーロットは、震える声で続けた。
「兄――ダニエルは、五年前、突然、家族の前から姿を消しました。そして、先月、突然、戻ってきたんです。義姉は、『やっと帰ってきてくれた』と、喜んでいました。でも……」
「でも?」
「私には、あれが、兄だとは、どうしても思えないんです」
ノワールと顔を見合わせる。ロペス兄弟の脳裏に、いくつかの可能性がよぎった。
替え玉。双子。あるいは、記憶を失った本人――。
「詳しく、調べてみよう」
◇
ロペス兄弟は、ダニエル・クロスの、失踪していた五年間を調べ始めた。
だが、足取りは、どこにも残っていなかった。
勤め先。友人。立ち寄りそうな街。あらゆる場所を当たったが、ダニエルらしき人物の目撃情報は、一件も出てこなかった。
「五年間、痕跡を残さず、完全に消えるなんて可能なのか?」
ブランが、資料を睨みながら呟く。
「唯一の手がかりは、これだけだ」
ノワールが、報告書の一枚を指差す。
戻ってきたダニエルの額には、以前にはなかった、小さな傷跡があった。
「この傷……」
「本人に聞いても、はっきりしないらしい。『覚えていない』の一点張りだ」
◇
調査を進めるうちに、ロペス兄弟は、ある民間施設に辿り着いた。
その名も、「理想の家庭再生院」。
表向きは、酒や暴力に溺れた家族を「更生」させるための、私設の療養施設だった。
「ダニエル・クロスの保証人は……」
ノワールが、書類を確認する。
「妻の、マリアン・クロスだ」
二人は、マリアン本人のもとを訪ねた。
「ええ、そうです。私が、あの人を、あそこに預けました」
マリアンは、悪びれる様子もなく、はっきりと答えた。
「ダニエルは、五年前、お酒に溺れて、私や娘に、酷い暴力を振るっていました。このままでは、家族が壊れる――そう思って、あの施設に、助けを求めたんです」
「施設では、何が行われていた?」
ブランの問いに、マリアンは、少し言葉を濁した。
「監禁や、恐怖を利用した更生法だとは聞きました。詳しいことは知りません。……正直、どうやって更生するかなんて興味もありませんでした」
実際に、ダニエルと対面したロペス兄弟は、異様な光景を目にすることになった。
キッチンに置かれた酒瓶を、目にしただけで、ダニエルは、体を強張らせ、震え出した。
「あ……あぁ……」
言葉にならない声を漏らし、後ずさる。
かつて酒に溺れていたはずの男の姿は、そこには、なかった。
◇
施設の実態を追及すると、そこで行われていたのは、「更生」という名の、過酷な精神的圧迫だった。
ノワールは、元看護師に接触した。
「実は僕の姉さん、面接来週らしいんだ」
「え、あなたのお姉さん、あの施設の面接受けるの?」
「だから、実際に勤務していた人の話は聞いてみたくて」
「あの施設は、結構精神的にきついのよ。治療と称して、電気ショックによる制裁。意識を朦朧とさせる薬を使ったり、監禁したり、睡眠を奪ったり……何でもあり。まともな人間は三日ともたないわ」
一方、ブランは出入り業者を当たった。
「リネンに、嘔吐後や血液の付着が頻繁にあると……」
二人の調査から分かったのは、恐怖を刷り込み、依存の対象そのものに、極度の拒否反応を植えつける。人格の根幹に触れるほどの、強引な手法だった。
ダニエルは、確かに、酒への衝動から、解放されていた。
だが、それと引き換えに――彼という人間の、多くの部分が、壊れてしまっていた。
◇
「あれは……お兄さんじゃない」
変わり果てた兄の姿を前に、シャーロットが、掠れた声で呟いた。
「いや」
ブランが、静かに、しかしはっきりと否定した。
「彼は、本人だ」
「でも……!」
「ただ」
ノワールが、静かに、言葉を継いだ。
「恐怖は、人を、別人にしてしまうことがある」
その言葉に、シャーロットは、言葉を失った。
顔も、声も、記憶も、確かにダニエル自身のものだった。
だが、彼を形作っていた、意志や、感情や、人となり――その多くが、恐怖によって、塗り替えられてしまっていた。
偽物では、なかった。
以前の彼とは、まるで別人のようになってしまったダニエル・クロスだった。
◇
数日後、王都に出回った告発本には、こう記されていた。
『――理想とは、いったい誰のための理想だったのか?
人は、恐怖によって、行動を変えられる。だが、それは、人が変わったことと、同じではない。
我々は、これを『更生』とは呼ばない。
人格そのものを壊し、恐怖で塗り替える行為に、更生という美しい言葉は相応しくないからだ。
本当の理想への近道は、互いの思いやりかもしれない。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
この事件が、何よりも恐ろしかったのは、加害者とされるべき人間が、誰であるかが、はっきりしないことだった。
暴力を振るっていた、かつてのダニエル。
その夫を、恐怖に晒す施設へと送り込んだ、妻のマリアン。
そして、その施設を運営していた、名も知れぬ経営者たち。
事件のあと、マリアンは、事務所を訪れ、静かに、しかし確信を持って言った。
「私は、間違ったことは、していません」
その目には、一片の迷いもなかった。
「あの人から、暴力は、消えました。娘は、もう、怯えずに済んでいます。……私は、家族を、救ったんです」
ブランもノワールも、それ以上、何も言わなかった。
彼女の言葉は、嘘ではなかった。事実として、暴力は消えた。娘は、確かに、怯えずに済むようになった。
だが、その代償として、一人の人間の、内側にあったはずのものが、丸ごと、失われてしまっていた。
マリアンは、最後まで、自分のしたことを、後悔していなかった。
それが、この事件の、何よりも静かで、何よりも深い、恐ろしさだった。
窓の外には、王都の、いつもと変わらない夕暮れが、広がっていた。
「自分じゃない、自分が必要とされる……なんか悲しいね」
資料をファイリングしながら、ノワールが呟いた。
「誰もその人の変わりになんてなれない」
ブランが静かに答えた。
「……」
誰かを救うことと、誰かを壊すことの境界線は――時に、驚くほど、見分けがつかないものだった。




