第二十三話 交差する糸
元王都タイムズの記者のロランから預かった手帳を前に、ロペス兄弟は、事務所の机に向かっていた。
「まずは、時系列に並べ直そう」
ブランが、手帳のページを、一枚ずつ、丁寧にめくっていく。
几帳面な文字で綴られた記録には、日付、発生した地域、失踪した子どもの年齢、当時の状況――そうしたことが、細かく書き込まれていた。
「さすが、王都タイムズの記者、伊達じゃないね」
ノワールが、感心したように呟く。
「これだけの数を、一人で追いかけていたのか」
手帳に記録された事件の数は、二十件を超えていた。
「これを、地図に、落とし込んでいこう」
ブランは、これまでとは違う色のピンを取り出した。
案山子の服の情報――全国から届いた手紙は、赤いピンで示されている。
ロランの手帳に記された、彼が独自に追っていた事件は、青いピンで、一つ一つ、地図に立てられていった。
「あった。この地域、赤いピンと、重なってる」
ノワールが、指を差す。
青いピンから、赤いピンへと、細い糸が、一本、また一本と、結ばれていく。
時間をかけて、二人は、すべてのピンを、丁寧に照らし合わせていった。
やがて、地図の上には、赤と青、二色の糸が、幾重にも重なり合う光景が、広がっていた。
「一致率……高いな」
ブランが、地図全体を見渡しながら、静かに呟いた。
「ロランさんが追っていた事件と、僕たちに届いた手紙。……別々に集めた情報が、こんなに重なるなんて」
ノワールの声にも、隠しきれない緊張があった。
これは、もう、偶然では片付けられない。
誰にも気づかれないまま、長年にわたって、同じ種類の"何か"が、この国のあちこちで、静かに、繰り返されてきたのだ。
最後の一本まで、糸を結び終えたところで、ブランの手が、ふと、止まった。
「……これは」
一つだけ、青いピンと結ばれない、赤いピンが残っていた。
場所は、王都から、さほど離れていない、近隣の町。
「ロランさんの手帳には、ない事件、ということか」
ノワールが、その一点を、じっと見つめる。
「王都のすぐ近くで、これまで、誰にも気づかれずにいた、ということか。それとも――」
ブランは、そこで言葉を止めた。
「それとも?」
「ロランさんが、追い切れなかった事件なのかもしれない」
二人は、顔を見合わせた。
これまでの地区とは違う。手帳という、長年の記録の裏付けすら、ない場所。
だからこそ、まだ、何かが、生々しく残っている可能性がある。
「次の週末は」
ブランが、地図に残った、たった一つの赤いピンを、指先で、そっと押さえた。
「ここにしよう」
◇
ロペス兄弟が向かったのは、王都近郊の街、モンテールだった。
そこで、二人を出迎えたのは、意外な人物だった。
「お待ちしておりました、ロペスさん」
そう言ったのは、利発そうな青年だった。
「あなたが送り主……?」
「バシール・ハサンです。あの手紙を送ったのは、僕です」
バシールは、淡々とした態度で、一枚の写真を差し出した。
「これが、証拠です」
写真には、幼い頃のバシールが写っていた。
着ているのは、ラメント村の案山子が身にまとっていたものと、まったく同じ意匠の服だった。
「これは……」
ブランが、写真を、じっと見つめる。
「ちなみに、これ、既製品じゃないので。同じものは、他にありません」
ロペス兄弟は、持参していた案山子の服を広げた。
「疑うなら、品質管理タグを見てください。僕のイニシャルが、刺繍されているはずです」
ノワールが、タグをめくると、確かに、そこには「B・H」と、丁寧な刺繍が施されていた。
「一体……どういうことだ?」
ブランが、静かに、バシールに尋ねた。
「僕の家は、裕福な家庭でした」
バシールは、感情の起伏をほとんど見せないまま、話し始めた。
「それに、僕は、普通の子どもより、少し、頭が良すぎたんです。……毎日が、退屈で仕方なかった」
「退屈?」
「勉強も、遊びも、周りの大人たちの言うことも――何もかもが、僕には、簡単すぎました。刺激が、欲しかったんです」
バシールは、感情を交えずに、淡々と続けた。
「そんな時、見知らぬ大人から、『金の卵』の話を聞きました」
ブランとノワールは、思わず、顔を見合わせた。
「詐欺だ、というのは、すぐに分かりました。でも――面白そうだったので、騙されてみることにしたんです」
バシールの口元に、わずかに、笑みが浮かんだ。
「わざとってことか……?」
「はい。子供だったので、退屈な日常より、よほど刺激的だと思いました」
バシールの語る、それから先の話は、静かに、しかし、確かな緊張を伴っていた。
「その日、僕は、麻袋を被らされました。そのまま、随分と長い時間、揺られて。気づいたら、辺鄙な土地に、連れて行かれていました」
「そこで、何があったんだ?」
ブランが、静かに、先を促す。
「用意されていた服に、着替えさせられました。その時に、この服を預けました」
バシールは懐かしそうに案山子が着ていた服を見つめた。
「バシール・ハサンの名前を捨て、新しい名前も付けられました。それまでの僕は、そこでは、必要なかった」
「歳の近い、世話係が、あてがわれました。その人から、そこでの生活のルールを、一つ一つ、教えられたんです」
バシールは、そこまで話すと、一旦、言葉を切った。
「……ルール、というのは?」
ブランが、静かに、問いを重ねる。
バシールは、少しの間、沈黙した。
その表情には、これまでの淡々とした様子とは違う、わずかな――迷いのようなものが、浮かんでいた。
だが、やがて、静かに、口を開いた。
「単純なことですよ。過去の名前は、二度と口にしないこと。以前の生活について、誰にも、何も、話さないこと」
「与えられた仕事は、必ず、こなすこと。逆らわないこと。仲間を、裏切らないこと」
「そして――」
バシールは、一拍、置いた。
「ここのルールに疑問を、持たないこと」
その一言に、ブランとノワールは、静かに、息を呑んだ。
「僕があの群れから逸れる原因……」
バシールが、初めて、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「頭の良さは、あそこでは、美徳じゃありませんでした」
バシールは、静かに、続けた。
「与えられた簡単な仕事を、ただこなすだけで温かい食事に暖かい布団が与えられる。それを幸福に感じる人がほとんどでした。でも、僕は、違った」
「育ってきた環境も恵まれていたからこそ、矛盾に気づいて、理屈の綻びが見えてしまった。……それは、あそこでは異物なんです」
「気づかれたのか?」
ブランが、静かに、言葉を継いだ。
「はい。ある日、呼び出されました」
バシールの声に、初めて、わずかな震えが、混じった。
「そこにいたのは、僕が今まで会ったことのない上の立場の人間でした」
「その人は、僕に、こう言いました」
バシールは、静かに、当時の言葉を、なぞるように、口にした。
「『今、ここで死ぬか。俺の言うことを聞くか。選べ』」
重い沈黙が落ちた。
「僕は、迷いませんでした。……『生きたい』と、答えました」
「それで?」
ノワールが、掠れた声で、先を促す。
「ええ。だから、今、僕はここにいます。……ただし、条件付きで」
バシールは、静かに、二人の目を見た。
「その人は、最後に、僕に、一つだけ、言付けを残したんです」
「言付け?」
「『いつか、ここについて、聞いてくる奴が、現れたら』」
バシールの声が、静かに、そして、はっきりと響いた。
「『引き返せ、と言うように』」
ブランとノワールは、しばらく、言葉を失っていた。
これは、警告なのか。脅しなのか。それとも――。
真意は、分からなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
自分たちは今、あの人物が、わざわざ言付けを残すほどの何かに、確実に、近づいているということだった。
バシールは、しばらく、黙り込んでいた。
やがて、静かに、独り言のように、呟いた。
「数年も経つと、あの出来事が、全部、夢だったんじゃないかって、思うようになるんです。……あんまりにも、現実離れしていたから」
バシールは、そこで、初めて、ブランの顔を、まっすぐに見た。
「でも」
その視線には、これまでの淡々とした様子には、なかった何かが、宿っていた。
「あなたの顔を見て、実感しました」
「……何を、だ?」
ブランが、静かに、問い返す。
バシールは、少しの間、言葉を選ぶように、沈黙した。
「あの日の出来事は、現実だったんだって」
その一言だけを残し、バシールは、それ以上、詳しくは語らなかった。
ブランは、動けなかった。
なぜ、自分の顔が、彼にそう思わせたのか。
問い返したかった。だが、喉の奥で、その言葉は、凍りついたまま、出てこなかった。
ノワールも何も言えずに、ただ、兄の横顔を、じっと見つめていた。
バシールは、それ以上、深追いする様子もなく、静かに、頭を下げた。
「僕から、話せるのは、ここまでです」
すべてを話し終えたからか、バシールの表情は、どこか晴れやかだった。それとは対照的に、ロペス兄弟の間には、重い沈黙だけが、残されていた。
やがて、ノワールが、静かに、口を開いた。
「一つ、聞いてもいいかな?」
「なんでしょう?」
「君のことは、失踪事件として、記録に残っていなかった。……失踪事件を長年追っていた人の手帳にも、名前がなかった。それは、なぜ?」
バシールは、少しの間、目を伏せた。
「僕が、隠したからです」
「隠した?」
「戻ってきた時、両親には、こう説明しました。……『家出をして祖父母の家に向かっている途中で迷子になった。親切な行商のご夫婦がモンテールまで送ってくれた』と」
「そんな、単純な話で……」
「子供のふりをしたら信じてもらえましたよ」
バシールは、静かに、口の端を上げた。
「僕は、昔から親を説得するのが、得意でしたから。辻褄の合う嘘を、いくつも、用意しておいたんです。どの列車に乗って、どこで乗り換えたことにすれば自然なのかまで、考えていました」
「なぜ、そこまでして、隠した?」
ブランが、掠れた声で、尋ねる。
「殺されたくないからです」
バシールの声から、初めて、淡々とした余裕が消えた。
「本当のことを話せば、王都憲兵隊が動く。憲兵隊が動けば、あの人たちは捕まるかもしれない。……でも、一人でも取り逃したら、標的になるのは僕だ」
「だから、事件そのものを、なかったことに、したのか?」
「はい。僕は、記録に残らない、ただの"家出少年"として、あの一件を、終わらせたんです」
ブランとノワールは、言葉を失っていた。
ロランが、あれほど熱心に事件を追いながら、なぜ、バシールのケースだけ、掴めなかったのか――。
その答えが、今、静かに、明らかになった。
賢さゆえに、組織に目をつけられ、賢さゆえに、その痕跡を、自らの手で、完全に消し去っていた。
「兄さん……」
ノワールが言葉につまる。
「ああ、俺も同じことを考えていた」
ブランは、手帳を握りしめた。
二人が探し求めていた真相への扉が静かに開きだした。




