第十六話 罪の十字架
「我が教会の、信徒たちが、動揺しています」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、神父マティアス・ベルナールだった。
「動揺、というのは?」
ブランが尋ねる。
「『ライティングス・オブ・コンフェッション社』という出版社が、連載記事を出しているのです。……その内容が、まるで、告解室で語られた懺悔そのものだと、信徒たちが騒いでいて」
「告解の内容が、漏れている、ということですか?」
「そう、信徒たちは、信じ込んでいます。ですが……そんなことが、あってはならないのです。告解は、神と、その人だけの、秘め事のはずですから……」
ブランとノワールは、顔を見合わせた。
「調査を、お引き受けします」
◇
ロペス兄弟は、教会を訪れ、告解室そのものを、丹念に調べ始めた。
「壁の厚さは、十分だな」
ブランが、壁を叩きながら、確認する。
「換気口も、特に不自然な作りじゃない」
ノワールが、天井近くの小さな換気口を、覗き込みながら言う。
二人は、告解を聞く立場にある助祭や、教会の清掃係にも、それぞれ聞き込みを行った。
「まさか、そんなこと、するはずがありません」
助祭は、心外だという様子で、そう答えた。
清掃係も、動揺しながら、同じように否定した。
だが、どれだけ調べても、告解室から、外部へ情報が漏れる経路は、一つも見つからなかった。
「おかしいな……壁も、換気口も、人間関係も……どこにも、穴がない」
ブランが、腕を組む。
ノワールは、しばらく、無言のまま、集めた「懺悔記事」の束を、机に並べていた。
「兄さん、ちょっと、これ見て」
「どうした?」
「そもそも、漏れた証拠が、一つもないんだ」
ノワールが、記事を、一枚ずつ、指し示していく。
「『あなたは、あの日、あの人に言った言葉を、後悔している』」
「これ、誰の話だと思う?」
「……分からないな。誰にでも、当てはまりそうだ」
「そう。『あの日』も、『あの人』も、具体的なことは、何も書かれていない」
ノワールが、他の記事も、次々とめくっていく。
「『あなたは人を傷つけたまま、逃げている』『あなたが抱える誰にも言えない懺悔がある』……」
「全部、こんな調子だよ」
「でも、信徒たちは、これを見て、『自分のことだ』と、思い込んでいる」
ブランが、静かに、記事を見つめる。
「これは、告解を暴いているんじゃない」
ノワールが、静かに、続けた。
「これを読んだ人自身に、罪を問いかけているんだ」
◇
『ライティングス・オブ・コンフェッション』――懺悔の記録。
そう銘打たれた連載記事。だが、そこには、本物の懺悔の記録など、一つも、存在していなかった。
誰にでも思い当たる後悔。誰の心にも、少しは眠っている罪悪感。曖昧で、具体性を欠いた言葉。
読者は、その空白を、自分自身の記憶で、無意識に埋める。
「あの人は、私のことを、書いている……!」
そう思い込んだ瞬間、その人にとって、その記事は、紛れもなく、『自分の告白』に変わってしまう。
そして、動揺した信徒たちが、「告解の内容が、漏れている」と、口々に噂を広める。
さらに、曖昧な「懺悔」を書くことで自分が晒される恐怖に陥るという仕組みだった。
教会は何も、漏らしてなどいなかった。
ただ、恐怖と罪悪感だけが、勝手に、独り歩きしていたのだ。
◇
ロペス兄弟は、『ライティングス・オブ・コンフェッション社』を訪ねた。
「あなた方は、告解の内容など、何も知らない」
ブランが、静かに、告げる。
「知っているのは、人間が、誰しも、後ろめたさを抱えている、という、ただ、それだけだ」
編集長らしき男は、悪びれる様子もなく、肩をすくめた。
「私たちは嘘を書いてるわけではありません。その人が罪を犯してなければ、ただの記事に過ぎない」
「動機を、聞かせてもらおうか?」
ブランが、鋭く、切り込む。
編集長は、しばらく、沈黙していたが、やがて、机の引き出しから、一冊のファイルを取り出した。
「これを、見てください」
中には、王都で過去に起きた、いくつもの、未解決事件や、証拠不十分で不起訴になった事件の、切り抜きが、綴じられていた。
「うちが、狙っている読者は、大多数の、ただの罪悪感を抱えた、善良な市民じゃない」
編集長の目つきが、初めて、鋭く、変わった。
「その中に、紛れ込んでいる、『本物の悪』だ」
「本物?」
「法で裁けなかった、殺人犯。証拠不十分で、闇に葬られた、詐欺師。……そういう連中の中には、罪悪感を、拭いきれずにいる者が、必ず、いる」
「だから、わざと、曖昧な言葉で、揺さぶりをかけていた、ということか――」
ノワールが、静かに、呟く。
「そうです。多くの読者は、無関係な、日常の後ろめたさで、勝手に、動揺してくれる。……でも、その中に、本当に、『あの夜』の記憶がある人間が、紛れていたら?」
編集長は、静かに、続けた。
「そういう人間は、無関係な言葉にすら、過剰に反応する。行動が、変わる。……それを、見極めるための、記事なんです」
「これまでに、何人か、尻尾を出しましたよ」
編集長は、そう言うと、別の切り抜きを、机に並べた。
連載開始後、突如、自首した、未解決事件の容疑者。行動の不審さから、憲兵の再捜査に繋がった、不起訴事件。
それらは、確かに、この連載記事の掲載時期と、静かに、重なっていた。
「法で、裁けなかった罪を、こんなやり方で、揺さぶるのか?」
ブランの声には、怒りとも、戸惑いとも、つかない響きがあった。
「では、聞きますが――」
編集長が、静かに、問い返す。
「私もあなた方の読者です。あの告発本は全員を幸せにしていますか?」
「例えば――夫の犯罪を無自覚で世に知らしめた憲兵の妻。格下貴族と結婚した女性たち。愛する男性が自分のストーカーだと知った女性。誰かが救われる一方で、あの告発本で傷ついた人がいる」
その一言に、ブランは、何も、言い返せなかった。
「でも、私はあなたたちを否定しません。『正義のため』、ああするしかなかったんですから。罪のない人間を、傷つけるつもりはなかったんでしょう?」
編集長は、静かに、目を伏せた。
「大勢の、無関係な人々の、心を、揺さぶってしまう。それは、承知の上です」
「それでも、続けるのか……」
ブランが、低く、問う。
編集長は、しばらく、黙っていたが、やがて、静かに、しかし、はっきりと、答えた。
「ブラザーズ・ロペスはやめますか?」
ロペス兄弟は黙り込んだ。
その沈黙を受けて、編集長は、静かに続けた。
「私は罪を犯した人間が、服役したからといって、それで、許されたことになるとは思いません」
「……どういう、意味だ?」
「刑期を終えて、出所した人間が、何食わぬ顔で、日常に戻っていく。……その隣で、被害者の遺族は、一生、その傷を、抱えたまま、生きていくんです」
編集長の声に、初めて、感情の揺らぎが、滲んだ。
「法は、罪人を、裁くことはできる。でも、遺族の心までは、救ってくれない」
「だから、自分たちが、やる、というのか」
「ええ。誰も、やらないのなら」
「……お前一人の、考えか?」
ブランが、静かに、問いを重ねる。
編集長は、ゆっくりと、首を振った。
「いいえ」
彼は、社内の奥へ、視線を向けた。
そこには、記事の校正をしている、数人の従業員がこちらを見ていた。
「ここで働いている人間は、全員……被害者本人か、その遺族、あるいは、親しい友人です」
「全員……」
ノワールが、思わず、声を漏らした。
「ええ。証拠不十分で、加害者を、罪に問えなかった者。裁判で、量刑が、あまりに軽すぎた者。……そういう人間ばかりが、集まって、作った会社です」
編集長は、静かに、目を伏せた。
「私たちは、法律家でも、王都憲兵隊でもありません。……ただ、大切な人を、奪われた側の、人間です」
「だから、こんな、回りくどいやり方を?」
「回りくどい……他に何ができますか?」
編集長の声は、静かだったが、その奥には、長く抱え続けてきたであろう、深い痛みが、滲んでいた。
「私たちは、罪のない人間を、傷つけるつもりはありません。ただ……巻き込まれる人間が、いることも、否定はしません」
編集長は、静かに、目を伏せた。
「……」
ロペス兄弟は、しばらく、言葉を失っていた。
この出版社のやり方を、単純な悪だと、断じることは、できなかった。
だが、同時に、大多数の、何の罪もない読者たちが、味わう必要のない、罪悪感と恐怖を、味わわされていたことも、また、事実だった。
◇
数日後、王都に出回った告発本には、こう記されていた。
『教会での告解は、漏れていなかった。
だが、そこにあったのは、単なる悪意でもなかった。
この事件の根にあったのは、一つの、単純な問いだった。
懺悔は、許しになるのか――。
教会で、罪を告白すれば、心は、軽くなるかもしれない。
だが、その先に、もう一つの、答えの出ない問いが、待っている。
罪を犯した者が、刑期を終え、償いを済ませれば――それは、許されたことになるのか?
その罪は、いったい、何をもって、償われたと言えるのだろうか?
壊したものを、元通りにする以外、答えはないに等しい。
迷える子羊ははぐれた一頭ではなく、群れの方かもしれない。
――ブラザーズ・ロペス』
◇
事件解決後、マティアス神父が、事務所を訪れた。
「信徒たちには、事の顛末を、説明しました。……皆、安堵していましたよ」
「良かったです」
ブランが、静かに、頷く。
「ですが」
神父が、少し、困ったように、笑った。
「正直、複雑な気持ちにも、なりました」
「複雑?」
「私は、長年、告解室で、多くの人の、懺悔を、聞いてきました」
神父は、静かに、目を伏せた。
「懺悔をすれば、心は、軽くなる。……ですが、それで、本当に、罪が、許されたことになるのか。正直、私にも、分かりません」
神父は、静かに、続けた。
「でも、私にできるのは、あの懺悔室の椅子に座ることと、傷ついた魂が癒されることを祈るだけです」
ブランとノワールは、しばらく、何も言えなかった。
神父が帰ったあと、事務所には、しばらくの間、静けさだけが、残されていた。
「兄さん」
ノワールが、静かに、口を開いた。
「元に戻せるなら、許される。……でも、戻せないなら、どうすれば癒されるんだろう」
ブランは、何も、答えなかった。
ただ、静かに、窓の外を、見つめていた。
その問いへの答えを、二人は、まだ、持っていなかった。
そして、それは、これから先も、そう簡単には、見つからないのかもしれなかった。




