第十一話 作られた運命
「私は、事件を持ってきたんじゃありません」
インク・オブ・トゥルース社を訪れたのは、商会に勤める、生真面目そうな青年、マルセル・ドランだった。
「ただ……何が正しいのか、分からなくなったんです」
「最初から、話してくれ」
ブランが、静かに促した。
マルセルは、少し躊躇いながら、話し始めた。
「会社の上司――レナード・クロフォードが、婚約したと、話し始めたんです」
最初は、よくある惚気話のつもりで聞いていた。だが、話を聞き進めるうちに、マルセルの中に、拭いきれない違和感が積み重なっていったという。
◇
レナードは、笑いながら、その馴れ初めを語った。
「街で、エレナを見かけた瞬間、一目惚れしたんだ」
エレナに一目惚れしたレナードは、彼女の後をつけ、アパートを突き止めた。郵便受けを覗き込むエレナの姿から、部屋番号を確認した。
翌日、レナードは郵便配達員が来るタイミングを見計らい、エントランスで待ち構えた。エレナの部屋番号のポストを開けるふりをする。
「フォルティエさんですね?」
配達員が声をかけた。
「ああ」
配達員は、疑うことなく、レナードにエレナ宛の郵便物を手渡した。
――エレナ・フォルティエ。
その日、レナードはエレナの名前を知った。
車に戻ったレナードは、封を開けた。中身は、請求書。行きつけの店の利用履歴が、そこには記されていた。
レナードは、その店の常連になった。
マスターを交えた会話であれば、エレナも自然と、レナードに心を開いていった。
次にレナードが目をつけたのは、アパートの共有ランドリーだった。エレナが洗濯物を残して外出した隙に、下着を盗み出す。切り刻んだそれを、差出人不明のまま、エレナのもとへ送りつけた。
エレナは、次第に、周囲を警戒するようになった。行き先が一緒になっただけの、見知らぬ男にまで、怯えるようになっていった。
顔色を失っていくエレナに、レナードは、ようやく声をかけた。
「大丈夫?顔色、悪いけど」
同じ常連客だと信じきっていたエレナは、レナードに心の内を打ち明けた。
レナードが、エレナに話しかける前から注文していた料理が、運ばれてきた。
「あなたも、これが好きなの?」
エレナの目に、わずかな疑いが浮かんだのを、レナードは見逃さなかった。
「マスター、ここではいつもこれだよね?」
「ええ、必ず注文してますよ」
マスターの言葉に、エレナは安心したように笑った。
「私もこれが好きで、通っているの」
食事の帰り道、レナードが先に口を開く。
「じゃあ、僕はこっちだから」
その方向は、エレナのアパートと同じだった。
「私もよ」
その日から、店で会った日は、レナードがエレナを家まで送るのが、二人の間の暗黙のルールになっていった。
エレナが安心しきった頃、レナードは再び動いた。
お気に入りの店の紙袋を切り刻み、送りつけた。恐怖は、再びエレナを支配した。郵便受けを開けることすら、怖くなっていった。
レナードは、そこで一度、言葉を切った。にやりと笑い、声を落とす。
「一番効いたのは、実はそこじゃないんだ」
「部屋に、こっそり忍び込んだ時があってね。棚の写真立てを、ほんの少しだけ、傾けておいたんだ」
マルセルは、その言い方に、寒気を覚えた。
「壊すわけでも、盗むわけでもない。……ただ、少しだけ、ズラす」
「人間って、面白いよ」
レナードは、心底愉快そうに続けた。
「気づくか、気づかないか、分からないくらいが、一番効くんだ。『気のせいかな』って自分を疑い始めた瞬間から、その人はもう、自分の感覚を信じられなくなる」
ある日、エレナはレナードを部屋に招いた。レナードは、その瞬間を待っていた。
エレナがお茶を淹れている隙に、以前盗んだ洗濯物の残りを、そっとクローゼットに戻した。
その日の深夜、レナードの家の電話が鳴った。
「助けて……」
震える声に、レナードはニヤリと笑った。
それがきっかけで、二人の交際が始まった。
「全部、運命だったんだ」
レナードは、誇らしげに、そう締めくくった。
マルセルだけが、笑えなかった。
◇
話を聞き終えたノワールは、しばらく黙り込んでいた。
「……彼女は、今、幸せなの?」
「……多分」
マルセルが、力なく答える。
ノワールの表情が、複雑に歪んだ。
一方、ブランは、ペンを止めたまま、しばらく動かなかった。
「……幸せ、か」
短く、それだけ呟くと、ブランは再びペンを取り、無言で紙に時系列を書き起こし始めた。
その横顔は、いつもより、少しだけ硬かった。
尾行。
個人情報の取得。
窃盗。
郵便物の開封。
室内への不法侵入と、感覚を狂わせるための小さな細工。
脅迫。
心理誘導。
恋愛成立。
書き終えたブランは、静かに、その紙を見つめた。
◇
「偶然は、一つもない」
ブランが、低く呟く。
「すべて、作られている」
「彼女は、恐怖から自分を『助けてくれた人』を好きになった」
ノワールが、続けた。
「でも、その恐怖を作ったのも、彼、レナード本人だった」
「これは、恋愛じゃない」
ブランの声が、静かに、しかし強く響いた。
「自分で穴を掘り、自分でそこに落として、そして自分だけが恩人になる。……それを、運命とは呼ばない」
◇
念のため、ロペス兄弟は、周辺の証言を集めた。
郵便配達員のオーウェン・リードは、当時のことを覚えていた。
「ああ、確かに……エレナさんの旦那さんだと思って、渡してしまいました。今思えば、随分と馴れ馴れしい様子でしたね」
アパートの管理人、イレーヌ・フォーシェも、重い口を開いた。
「エレナさんから、ストーカー被害の相談は、何度も受けていました。でも、まさか、エレナが今、交際している相手が、その犯人だったなんて……」
すべての証言が、レナード自身の語った時系列と、寸分違わず一致した。
◇
「……じゃあ、私は、止めるべきなんでしょうか」
マルセルが、絞り出すように尋ねた。
「それは、違う」
ブランが、静かに答える。
「答えを決めるのは、俺たちじゃない。エレナ・フォルティエ自身だ。彼女には、事実を知る権利がある。……だから、俺たちは、この件を、名前を伏せずに公にする」
「彼女が、それを読むかどうかも」
ノワールが、続けた。
「読んだ後、どうするかも。すべて、エレナが選ぶことだ」
◇
数日後、王都に出回った記事には、実名を伏せることなく、こう記されていた。
『商会管理職、レナード・クロフォード。
部下からの評判も高く、面倒見の良い上司として知られるレナードには、婚約者がいる。相手はエレナ・フォルティエ。レナードは、この関係を「運命の恋」だと、誇らしげに語った。
だが、我々が調べた事実は、以下の通りである。
尾行。個人情報の不正取得。窃盗。郵便物の不正受領および開封。下着の窃取と、それを利用した嫌がらせ。無断で室内に侵入し、家具や私物をわずかに動かすことで、被害者自身に自らの記憶や感覚を疑わせる行為。そして、恐怖に付け込んだ、意図的な接近。
これらすべてを、レナードは「一目惚れから始まった、幸運な巡り合わせ」だと信じて疑っていない。
罪の意識がないことは、罪が軽くなる理由にはならない。
むしろ、罪だと思っていない人間が、隣人として、上司として、恋人として、当たり前の顔で社会に溶け込んでいる――その事実こそ、我々が公にすべきことである。
人は、偶然を信じたがる。
だが、その偶然が、一人の人間によって、意図的に作られていたのだとしたら?
それは、運命ではなく、演出である。
愛とは、相手の自由を尊重すること。
自由を奪って作られた恋は、運命とは呼べない。
――ブラザーズ・ロペス』
帰り道、ノワールが、ポツリと切り出した。
「兄さん、運命ってあるのかな?」
「なんだ、急に」
「僕たちの人生だって、もしかしたら、レナードのような男に演出されたものだったりして」
ブランは、しばらく黙っていた。
「誰かに作られる物じゃない」
やがて、静かに答えた。
「自分で、選んだものなんだ」
ノワールは、何も言わず、小さく頷いた。
夕暮れの街では、多くの人々が行き交っていた。
その中には、本当の偶然もあれば――もしかしたら、誰かが静かに作り上げた偶然も、混じっているのかもしれない。




