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第四話 借りの話

助けられたら礼を言おう。

Date: 2016年5月2日 7:13

Location: 前線作戦基地アンヴィル(FOB Anvil) / 野戦病院

Person: 榊恒一中尉

---


今朝のアンヴィルは、昨日よりは音があり、死にかけた人間が何人かいても基地の朝は来る。

発電機は回り、炊事班は湯を沸かし、整備兵は油にまみれた手で車両を叩く。

律儀だ。誰かの感傷に付き合って、日課を止めたりはしない。榊はテント脇の簡易机で、支給品の一覧を睨んでいた。失った弾薬、使い切った触媒、破損装備。書けば出る。出ないこともある。とにかく書かねば始まらない。補給担当が捌くとはいえ、それぞれ必要なものは異なる。問題は、そのうちの一つが妙に気に食わないことだった。

砕けて消えた斧の代わりが、机の上に置かれている。

新品のブリーチングアックスは、まだ一度も振るわれたことがなく、磨かれすぎていて、ひどく白々しかった。 刃も柄も規格どおりだ。先代と変わるところはない。文句のつけようもない。だが、前の一本の方が手に馴染んでいた。


「なんだ、その顔は」


顔を上げると、マックスが立っていた。いつものように本を片手に持っている。こんな朝でも本を手放さないのは、もはや病気だろうと榊は思う。


「新しい斧がどうもなじまん」


「贅沢言うな。支給されるだけましだ」


「分かってる」


榊は斧を持ち上げ、重さを確かめるように二、三度手の中で返した。重さは近い。重心も大きくは違わない。なのに、しっくりこない。


「前のをワレモノの頭にかまして、砕いたのが惜しまれるな」


マックスは鼻を鳴らした。


「景気のいい死に方だな」


「見習いたいもんだ」


少し離れた場所から、調子外れの鼻歌が聞こえた。ラジードだった。機嫌がいいのか悪いのか、あいつの鼻歌はいつも判別しにくい。やがて当人が、工具袋を肩に提げたままこちらへ歩いてくる。


「どうだ、新しい(ハンドアックス)は」


「重い」


「女の扱いをわかってないな」


「馬鹿言ってろ」


ラジードは榊の机の端に腰を引っかけると、斧を一瞥してからにやりと笑った。


「で。今日は眠り姫の見舞いか?それとも楽しいおしゃべり(聴取)か?」


「どっちでもない」


「じゃあ何だ」


榊は答えかけて、やめた。自分でもよく分かっていなかったからだ。昨日、病床で目を覚ましたエリックに対して、榊はほとんど何も言っていない。

喋るな、と言っただけだ。それで済んだのは、あいつが半分眠っていたからにすぎない。礼を言うべきなんのだろうなと榊は考えている。

あの状況下で魔術を発動させてことを褒めるか?

無策に魔術を使ったことを叱責する?

どれも、あたりであり外れているような。


「喋れるうちに喋っておけ」


マックスが本を閉じながら言った。


「次はないこともある」


「縁起でもないな」


「縁起は担がない、担ぐのは棺だけで十分だ」


相変わらず愛想のない言い方だった。だが、正しい。

ちょうどそのとき、野戦病院の腕章をつけた衛生兵がこちらへ来た。昨日、エリックの手術が終わったとだけ告げて去っていった男だった。


「榊中尉」


「何だ」


「エリック少尉が話せる状態になった。長くは無理だが、会うなら今だ」


榊は無意識に立ち上がっていた。ラジードがそれを見て口笛を吹く。


「やっぱり見舞いじゃないか」


「うるさい」


「花でも持っていけ」


「この基地のどこに花がある」


「そこらの雑草を抜いて束ねろ」


榊は返事をせず、新しい斧を机に置いたまま歩き出した。背後でラジードが笑い、マックスが「からかいすぎるな」と低く言う声が聞こえた。

野戦病院は相変わらず白く、乾いていた。

消毒薬の匂い、血の匂い、汗の匂い。どれも薄く押し込められているのに、完全には消えていない。

入り口脇には担架が二つ並べられ、一つは空で、もう一つには毛布を頭まで被せられた誰かが乗っていた。死んだのか、寝ているのか、外からでは分からない。


衛生兵に案内され、奥の簡易病室へ入る。

白布で仕切られた区画の一つで、エリックは上体を少し起こした状態で横になっていた。右肩から胸にかけて厚い包帯が巻かれ、管が何本も脇へ伸びている。顔色はまだ死人に近い。だが目だけは、昨日よりずっとはっきりしていた。

榊が入ってくるのを見ると、エリックは少しだけ口元を動かした。


「中尉」


声はかすれていたが、言葉として聞き取れる。


「生きてるな」


「どうにか」


笑おうとしたらしいが、途中で顔をしかめてやめた。傷に響いたのだろう。

榊はベッド脇の折り畳み椅子を引き寄せた。座るつもりはなかったが、立ったままだとすぐに帰るつもりのように見える気がした。

別に長居をする気もなかったが、そこは何となく座った。


しばらく沈黙が落ちた。気まずさというより、互いに何から話すべきか決めかねている沈黙だった。

先に口を開いたのはエリックだった。


「申し訳ありません」


榊はすぐに言った。


「謝るなら治ってからにしろ」


エリックが瞬きをする。


「……はい」


榊は肘を膝に乗せ、少し身を乗り出した。


「ロックニードル、助かった。借りができたな。

エリックは数秒黙っていた。エリックは視線を天井へ向けた。

思い出そうとしているのが分かる。言葉を探すのが下手なやつなのだろう、と榊は思った。そういうところは、少しだけ好ましかった。


「死ぬと思いました」


「だろうな」


「でも、ただでは死にたくないと思いました。」


エリックは息を整えるように一度目を閉じた。


「そして、中尉がまだ前にいた」


榊は黙って聞いていた。


「あのまま、あれが来たら」


「来たら?」


「中尉を死なせる方が、まずいと思いました」


榊は少しだけ眉を動かした。


「お前、自分が死にかけてたんだぞ」


呆れた声になってしまった。


「はい」


「その判断になるのか」


「なりました」


不思議そうでもなく、誇らしげでもなく、エリックは答えた。ただ事実を言っている顔だった。


「それで」


榊が促すと、エリックは言葉を継いだ。


「無我夢中で……詠唱していました。自分でも、あのケガの中、なんで発動させられたかよく覚えていません」


エリックは悔しそうに言った。


「たまたま通っただけかもしれません」


「たまたまで、あの一瞬を狙えるなら十分だ」


榊は言ってから、自分の口が少し甘いことを言った気がした。だが撤回はしなかった。

エリックは少しだけ目を見開いた。榊は視線を逸らさずに言った。


「助かった」


エリックは何か答えようとして、すぐには言葉を出せなかった。顔色の悪さとは別の意味で、血の気が引いたようにも見えた。


「俺が助けたんじゃ」


「勘違いするな」


榊はそこで切った。


「助けたのはお互い様だ。」


エリックはしばらく黙っていた。

その沈黙の間に、遠くで金属トレーのぶつかる音がした。誰かのうめき声も、布越しにかすかに聞こえる。


「中尉」


「何だ」


「一つ、聞いてもいいですか」


「内容による」


「俺は強くなれるでしょうか?」


予想しない問いが出たことにやや驚く。こいつは面白い。榊は少し考えた。


「殺すには足りない。止めるには足りた。あの場ではそれで十分だ。一人で倒し切れればそれに越したことはない。だが俺たちは一人で戦っているわけではない。周囲をよく見ろ。お前の根性と集中力はこの先きっと力になる」


エリックはその言葉を反芻するようにゆっくりとうなずいた。


「周囲を見る……」


「次は、自分が生き残ることも考えろ」


榊は低く言った。


「俺を心配する前にだ」


エリックは困ったように笑った。


「善処します」


「するじゃない。やれ」


「はい」


短いやり取りだった。だが、それで十分だった。

もう言うことはない、と思って榊が立ち上がりかけたとき、エリックが呼び止めた。


「中尉」


「何だ」


「置いていかれなかったの、助かりました」


榊は椅子に手をかけたまま止まった。


「そうか」


それだけ言って、今度こそ立ち上がる。うまい返しは思いつかなかった。

病室を出ると、空気が少しだけ冷たく感じられた。中は白くて、外は砂色だった。どちらも死に近い場所には違いないが、温度が違う。

入り口脇の二つ並べられた担架は、一つは空で、仮眠していたのか疲れ切った衛生兵が寝ぼけた顔をして腰かけていた。

”頼みがあるんだが、連れを起こさないでくれ、死ぬほど疲れてる”……何かの映画の一説がよぎる。


筋肉ムキムキのマッチョマンのセリフ

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