第十話 榊という男
今回は魔術の研究機関からの聴取回。何か聞きたいことがあるようです。
Date: 2016年6月17日 8:30 補給路護衛任務の二日後
Location: 前線作戦基地アンヴィル(FOB Anvil)
Person:榊恒一中尉
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廊下で鉢合わせたのは、朝の早い時間だった。
エリックは分厚い冊子を脇に抱えていた。表紙は色褪せており、角が潰れている。別の班から借りてきたものだとすぐに分かった。
「何を読んでいる」
「歩兵戦闘教範です。術者小隊の付録があると聞いたので。書類仕事の合間です。読むだけなら傷に障らないかと」
平気なことを主張するかのようだ。
榊は何か言おうとした。教範に書いてあることと、実際の現場の間にある隔たり——そういうものを言葉にしようとした。
「分からないことがあれば聞きます」
と、言葉が形になる前にエリックが先に言った。榊は一拍、止まった。エリックは教範を抱え直して、「では」と言って廊下の先へ歩いていった。
その背中が少し笑っているような気がして、榊は頭を掻いた。やれやれ柄でもないな。そう思った。
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書類というものはワレモノよりしぶとい。
銃弾も爆圧も、輸送中の揺れも関係なく、任務が終われば書類は舞い戻る。搬送記録、損耗報告、弾薬消費目録、人員状況確認。
死んだ運転手の名前も、砕けた木箱の番号も、ぜんぶ紙に書いて提出する。それが戦闘の後始末だった。
榊は補給将校室の端に設けられた臨時の書類処理スペースに座り、ペンを動かしていた。
朝からそれをやっている。
報告書の提出期限は今日の夕方だ。もっとも、期限を守るのは習慣の問題であって、誰かに褒められるわけでもない。
窓の外では、修理が終わった第三分隊のAPCが低いエンジン音を上げ始めていた。いつまで働かせる気だとお怒りのようだ。
整備兵が何かを怒鳴り、誰かがそれに怒鳴り返す。いつもと同じ朝だった。
その通知が来たのは、午前中のWFMAR定時通信に混じる形だった。
様式通りの封筒。緊急区分なし。件名に任務コードが二つ並んでいた——墜落物資の回収任務と、補給路護衛任務のものだ。
本文は短い。
> 上記任務に関する追加照会を予定しております。術式使用記録・指揮判断の経緯を対象とします。
> 照会機関:AMARI 西部方面連絡窓口(WFMAR経由)
> 日時:本日1100
ラジードが書類の山越しにこちらを覗いた。
「呼び出しか?」
「そうだ」
榊は通知を折り、内ポケットに入れた。ラジードは一秒待ってから、さらに覗いた。
「どこから」
「AMARI。正式には先進魔術分析研究所。魔術師の管理と魔術の体系化を研究している機関だ」
言ったのはラジードではなく、入り口で腕を組んでいたマックスだった。
ラジードは鼻を鳴らした。
「またなにかしでかしたのか?」
「またとは何だ。何もしてないぞ。話を聴きたいらしい」
榊は立ち上がった。
エリックに声をかけたのは、廊下を挟んだ別室に向かう前だった。エリックは通信記録の整理をしていた。限定復帰の内容はそういう仕事だ。
まだ傷の具合で長時間の立ちっぱなしは避けている。痛みはないようだが、違和感があるといっていた。椅子に腰を落とし、記録板を膝に乗せている。
「AMARIの照会がある。午前中は戻らん」
エリックは一拍間を置いた。
「AMARI?中尉また何かしましたか?」
「またとはなんだ」
それだけだった。特に顔色は変わらなかった。だが、記録板を持つ手が少し止まったのを、榊は見た。
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面談室は以前のWFMAR大隊本部以外にFOBにももちろんある。
今朝はWFMAR連絡将校が一人、折りたたみ椅子に座っていた。
三十代の中頃、細い顔、書類仕事に慣れた手の動きをしている。彼がAMARIの窓口だった。
「お時間をいただきありがとうございます、榊中尉」
「照会の内容を確認したい」
「もちろんです」
将校は書類を一枚取り出して、読み上げた。
一項、墜落輸送機からの物資回収任務——戦力不足を押して回収を実行した判断基準について。
二項、補給路護衛任務——対人戦闘における術式使用基準について。
三項、武器への魔力付与と戦闘の応用について。
四項、汚染域外縁における任務中、術式の安定性および判断速度に変化があったか否か。
五項、小隊指揮における優先順位の決定プロセスについて。
将校が読み終えた後、部屋はしばらく静かだった。
一と二は報告書に書いたことだ、と榊は思った。
三の「体系」という言葉は引っかかった。自分でそう整理したことはない。
四は「変化した」という前提で問いを立てている。
五が一番意外だった。術式の照会ではない。指揮判断の話を、なぜAMARIが聞く。
「今回は魔術についてだけじゃないようですね」
「そうです」と将校は答え、ちらりと横目でもう一人の同行者を見た。
AMARIはあまり現地には来ない。だが今回は違ったようだ。連絡将校の隣に、もう一人座っていた。
女だった。四十代の中頃か。黒髪、けだるげな目つき。整った顔立ちだが、手入れに無頓着な印象がある。
疲れているのではない。常に思考が別の場所にある人間の顔をしている——榊はそう思った。
「AMARI主席研究員の九条です。本日はお時間をいただきありがとうございます」
主席研究員。ずいぶん上が出張ってきたな、と思った。
声は落ち着いていた。均した調子だった。照会は連絡将校が仕切り、九条は横に座って観察する態勢のようだ。
最初の数問を聞いているうちに、榊はあることに気づいた。問いかけ自体はばらばらのようだが、どこかで答えが繋がっている。
将校の質問の度、彼女はほんのわずかに目を手元へ落とした。資料を確認しているのではなく、すでに持っている答えを確かめているような動作だった。
「中尉ご自身は自分の固有術式をどう認識されていますか」
「石と砂をまとめて固める。魔力を刃物に込められるが、大体壊れてしまう。それだけです」
短い間があった。
「……なるほど」
次の問いは汚染域での戦闘の話題に移った。
「触媒核汚染域や珪素生物制圧圏では、多くの術者が術式の出力減衰や集中維持の困難を報告しています。中尉の場合は」
「問題ありません」
「改善しましたか、悪化しましたか、それとも変化なし、ですか」
「……変化なしです」
「では汚染濃度の上昇に関係なく、中尉の術式運用は一定だったと」
「そうなります」
今度は少し長い間となった。その後将校のこぼした言葉にやや引っかかるものを感じた。
「珪素生物制圧圏の環境下でも同様かどうか、現時点では不明ですね……今のところは」
単に事実の確認のはずだが、妙に「今のところは」が、榊の耳の中で残った。
連絡将校はそれに気づかず続けた。中東方面以外は珪素生物の排除ができておらず、どうも新たな生態系が形成されているらしい。
そこでは魔術師の戦闘能力に制限がかかること、それにより回収が難しくなっていること。触媒核汚染域とは別種の環境——珪素生物にとっての最適圏が、段階的に広がっているということ。
「この戦いは、隕石が来る前は幼かった者たちをも前線へと送るほど刻が経ったのです」
と将校は言った。どこか疲れをにじませる声だった。指揮判断に話が戻った。
「回収任務での遺体焼却判断と、遺体を奪われることによるリスク判断は適切だったと思いますか?」
「どうでしょう。ベストではありませんが、ベターであったと判断しました。」
「判断基準はなんですか?」
「現場でじっくり考えてる時間はありません。経験によるところです」
「その経験が、小隊全体の損害をどの程度までに抑えるかということに直結しています」
榊は答えなかった。否定はできない。だが肯定する気にもなれなかった。そのとき、それまで黙って観察に徹していた彼女が口を開いた。
「術式の体系化の必要性は理解いただけますか」
「必要なのは分かりますが……」
意味は分かる。だが、なぜ自分にその話をするのか分からなかった。
「では、なぜ榊中尉自身がその対象になることに違和感を感じておられるのか、お聞きしても?」
「土系統の魔術は、固有とはいえそれほど珍しくはないのでは?」
「そうとも言い切れません。榊さんは環境によらず魔術構築が安定しています。それに……」
ふいに九条の目が少し緩んだのが見えた。さっきまでの標本を見ている目とは違う何かが、一瞬のぞいた。
「サミーラという魔術師をご存じですね?」
連絡将校が止まった。段取りにない発言だ。だが止めなかった——止められる相手ではないと分かっている顔だった。
「知っています。私を拾って育てた人物で、魔術の師匠でもあります」
こんなことは調べればすぐ分かる。隠し立てするものでもない。
九条は鞄の中に手を入れ、封筒を取り出した。予定外の行動だったのか、連絡将校が微かに反応した。
九条が封筒を机の上に置いて、榊の方へ押した。厚みはない。数枚の紙だった。
榊は椅子に座ったまま、封を開けた。表紙はない。最初のページから直接、記録が始まっていた。
サミーラの調査記録か。なぜ今、ここで出す。
術式運用記録の抜粋。触媒核汚染域での近接戦闘記録。回収困難状況下における焼却判断の経緯。
そして最後の二枚——珪素生物との初期接触記録の断片。ページをめくっても、記録は続いた。
だが、最後のページは途中で終わっていた。日付が止まっている。
榊はしばらく、その最後のページを見ていた。
自分が回収任務でやったことと護衛任務でやったこと——回収を優先し、無理なら焼却を実行、積荷を守って追撃を打ち切る——そういう判断の型が師匠と似ているといいたいのだろうか?わからない。ただ、サミーラのやり方はもう少し乱暴で、もう一歩踏み込んでいたようだった。
珪素生物との初期接触記録。日付は2012年の手前だった。AMARIはサミーラを調査していた。
顔を上げると、九条の表情がまた少し変わっていた。何が変わったかは分からなかった。さっきの標本を見る目とも、それが緩んだ瞬間とも、また違う何かだった。懐かしむ目に見えた、と思った。
一方で九条は何かを掴んだ顔をしていた。だがそれを口にしなかった。
「今日はここまでにします。確認すべきことが増えました」
連絡将校がまだ書類を手にしたまま、一拍止まった。まだ項目は残っている。だが何も言わなかった。
榊は紙を揃えて封筒に戻した。何かを見つけたのに、なぜ止める。九条はすでに立ち上がっていた。
「また来ます。おそらく、今度は別の形で」
返事をする前に、九条は廊下に出ていた。連絡将校がため息をつきながら静かに書類を片付けている。ペンがテーブルに置かれる音がした。
本当に終わりらしい。
研究者はいつも一方的に情報を持っていき、その場では何も返さないのである。




